『公研』2024年6月号「対話」

 

うつ病、認知症、発達障害──。近年、身近になっている精神疾患。目に見えない心の病は、日本社会でどう扱われてきたのだろうか?


きたなか じゅんこ:1993年上智大学文学部心理学科卒業。95年にシカゴ大学M.A. (社会科学)、2006年マッギル大学人類学部医療社会研究学部博士課程修了。04年慶應義塾大学文学部助手、07年助教、08年に准教授、16年より現職。著書に『うつの医療人類学』、共著に『統合失調症という問い 脳と心と文化』など


はやし(たかぎ)あきこ:1999年群馬大学医学部医学科卒業。2005年同大学大学院医学系研究科修了、博士(医学)。07年ジョンズ・ホプキンズ大学博士研究員、10年東京大学 医学系研究科助教、14年同大学同研究科特任講師、16年群馬大学生体調節研究所脳病態制御分野教授などを経て、19年より現職。学術領域「マルチスケール精神病態の構成的理解」(18~22年度)の代表も務める。編著に『「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか』など。


 

 

人類学・脳科学から精神疾患を研究

  精神疾患はかつてないほど身近な病になっています。精神疾患への理解が深まっているとも言えるかもしれません。しかし、身近になる一方で、多くの情報が錯綜しているようにも感じます。そこで今回は、世界・日本における精神疾患の潮流、そして私の専門である脳科学の研究という二つの視点で「心の病の過去と今」を考えていければと思っています。

 北中 よろしくお願いします。早速ですが、林先生はもともと精神科医をされていて、現在は基礎神経科学を専門とされています。この転向のきっかけはどこにあるのでしょうか?

  精神科医をしていたのは2年間だけですが、その時、現場でいろいろと思うところがあり、神経科学を志すことになりました。患者さんの心と身体がどんな状態になっているのか、何が原因でそうなってしまったのか、今もそうですが、当時は病態生理の解明が充分ではありませんでした。精神医学の方たちは一生懸命に患者さんと向き合い、研究や治療に尽力していましたが、根本的な解明がなされていない状態では充分な治療を提供することはできませんよね。そこにもどかしさを感じ、だったら根本的なメカニズムの解明という切り口で精神医学に貢献できないかと考え、基礎神経科学に転向したという経緯があります。それが2001年頃の話ですね。以来、シナプスや神経などの脳の機能から、精神疾患を理解しようと研究を進めています。なので、精神医学に貢献するという当初からの思いは今でもまったく変わっていません。

 北中先生は医療人類学がご専門で、うつ病の調査を始められたのですよね。何がきっかけだったのでしょうか?

 北中 1990年代に北米で医療人類学を勉強していたのですが、ちょうどその頃、新世代抗うつ薬が爆発的な流行を見せていたんです。当初それが不思議だなあ、と。

 林 プロザック(新世代抗うつ薬の一種)とかすごく流行っていましたね。

 北中 当時は「プロザックを飲めば幸せになれる」という言説がアメリカで広がっていて、治療目的以外でも、創造性や生産性を高める目的で多くの人が服薬していました。しかし、アメリカでの爆発的な流行とは対照的に、当時の日本ではうつ病自体、一般の人にはあまり知られていない病でした。製薬会社が抗うつ薬の日本市場の拡大をめざしたものの、日本の精神科医から「日本人はうつ病にならないから必要ない」と門前払いされたなんてこともあったそうです。日本と北米でのこの差はいったい何なのかと疑問に感じたことが出発点でした。ただ、99年頃から世界的なうつ病の流行に飲み込まれるように、日本でもうつ病が急増します。その背景には何があるのかということを、医療人類学の視点からずっと研究しています。

 林 私の理解だと医療人類学は日本ではそこまでメジャーな学問ではないように感じます。私は99年の群馬大学医学部卒業ですが、当時のカリキュラムに医療人類学は一コマもありませんでした。改めて医療人類学とはどんな学問なのでしょうか?

 北中 医療人類学は欧米では1960年代から教えられ、人類学でも大きな領域なのですが、日本では最近になって重要性がより認識されている分野と言えます。2017年に医学部のコア・カリキュラムが改定され、医療人類学や医療社会学が医学部教育に全国的に取り入れられることになりました。私の所属する慶應大学でも、毎週医学部で人類学を教えていて、さらに6年間の中で何らかのかたちで医療人類学的な視点を入れていこうという方針があります。

 林 北中先生が医療人類学の中でも、とりわけ精神医学に傾注したきっかけは何なのでしょうか?

 北中 私は大学時代には、当初心理学を勉強していたんです。そのカリキュラムの中で、精神分析(無意識下にある心を分析することで精神疾患を治療する方法)的な考え方を学んでいたのですが、クラスメイト達が徐々に自分の語り直しを初めたのが印象的でした。幼少期の母親との関係や父親との関係を分析して、今の生きづらさを過去に起因させて、自分のストーリーとして語り直すのです。

 ただ、その語りを内面化することで救われるクラスメイトもいたのですが、一方で、むしろ生きづらくなっているようにすら見える人もいました。当時の精神医学は、身体疾患のように、病に対して客観的基準や目に見える画像などで原因がはっきりと解明されていて、薬を飲めば治るという領域ではありませんでしたよね。何が真理かもわからない中で、この精神医学の言葉が救いにも呪いにもなるという点が、非常に興味深かった。その摩訶不思議さに惹かれていったのだと思います。

 

「うつ病がない国」から国民病へ

 林 ここ25年ほどで日本の精神医学は激動の変化を遂げました。北中先生は、ご著書『うつの医療人類学』で、うつ病という疾患がどのように日本に認知されてきたのかを論じられています。うつ病の認識が広まることで、社会が大きな変化を遂げたことは確かですが、それによってメリットとデメリットの両方が生じていますね。

 北中 そうですね。私は日本におけるうつ病についての調査を1997年から開始していて、先ほども少し触れましたが、当時の日本ではうつ病になる人はいないとまで言われていました。しかし、そこから一転して98年から14年間にわたって、年間の自殺者数が3万人を超え続けた時期に、日本でも流行し始めます。

 象徴的だったのが、電通社員が自殺をした91年の事件に対して、2000年に最高裁が自殺の原因が過労であったと認めた判決です。ここで初めて、うつ病はストレスが起因となる病だと社会的に認定されることになります。それ以前は遺伝的な要因や意志の弱さでうつ病は語られがちでしたが、継続した睡眠不足や過労状態が背景にあることが論じられるようになりました。

 さらに、うつ状態になると心理的な視野狭窄に陥り、会社を休む、転職するといった正常な判断ができなくなってしまいます。自分自身を追い込んだ先に衝動的に自ら命を絶つという最悪の事態になり得る病気がうつ病で、ストレス、うつ病、自殺の関係が司法の領域で立証されることになったのです。

 最高裁が判決を出す少し前、99年には職場における心理的負荷評価表が当時の労働省の下でつくられます。仕事のストレスが原因でうつ病になりかねないという考えが日本で広がりました。同時期には日本でも新世代抗うつ薬の販売が開始し、この時期にうつ病が一気に国民病になっていったのです。

 林 新世代抗うつ薬の一つであるSSRIは、日本でも製薬会社によって爆発的にアピールされましたよね。

 北中 日本でうつ病が国民病となる以前に、すでに世界的なうつ病の流行が起きていました。その流れをふり返ってみようと思います。

 第一に概念の変化です。うつ病の概念がより広義なものに転換した時期がありました。昔は精神病と呼ばれるような、かなり重篤なものだけがうつ病とされていました。それ以外の、失恋をして悲しい気持ちになることや、仕事で失敗をして気分が落ち込むなど、人生の問題とリンクするような幅広い病は、うつ病ではなく神経症の枠で考えられていたのです。ところが、1980年にアメリカの精神医学会が出したDSM-Ⅲ(精神疾患の診断・統計マニュアル。精神障害に関する国際的な診断基準の一つ)で、この二つを一緒にした、「メジャーディプレッション(大うつ病)」という概念がつくられます。これによって、これまで神経症とされていた疾患も、うつ病に含まれるようになります。

 林 これがうつ病の「医療化」の素地をつくったわけですね。

 北中 おっしゃるとおりです。ただ、概念の変化だけでうつ病の医療化が進んだわけではありません。後押しとなったのが新世代抗うつ薬の誕生です。この時期に誕生したプロザックを代表とする新世代抗うつ薬は、従来のものよりも副作用がかなり少ないと言われていました。ここに焦点を当てて製薬会社が大々的にマーケティングを打ち出し、アメリカで抗うつ薬が大流行します。治療、つまりテクノロジーの変化が概念の変化を後押しし、世界的なうつ病の医療化が進みます。

 

法人税と匹敵する精神疾患による経済的損失

 北中 うつ病の医療化が定着した少し後、次の流れとして、うつ病が経済問題として語られるようになります。2000年にWHOがDALY(障害調整生命年)という、新しい疾患の評価表を採用します。それ以前は、疾患ごとの重篤度は死亡率の高さを基準に測られていたのですが、DALYではどれだけ障害として失われた日数があったかを基準に──例えば労働者が会社に行けなくなってしまうなどで──疾患の重篤度を測ります。このDALYの指標を基に各疾患を評価したとき、社会に損害をもたらす疾患として、一位が心臓疾患、二位がうつ病とされました。

 林 この時すでにうつ病が二位にきている。すごいことですね。

 北中 そうなのです。このDALYを用いた評価によって何が起こったかと言うと、それまでは単に医療の問題であったうつ病に、経済問題という要素が加わりました。国力や生産力の問題に大きく関係してくるわけですから。精神疾患の予防や治療に投資をすることが、社会的、経済的な利益に繋がるという、経済の理論でも精神疾患が捉えられるようになったのです。

 林 確かにその通りだと思います。統合失調症、うつ病、不安障害、これらの疾患に罹患したことで生じる1年間の経済的損失が、1年間の日本の法人税とほぼ同じというデータがあります。

 北中 そこまで大きな額なのですね。それは驚きです。

 林 法人税と同じってすごい額ですよね。ましてやご本人だけではなく、家族、友人にまで影響は及びますから。

 北中 あとは職場が受ける影響も忘れてはいけません。うつ病になった労働者が休職すると、周りの人がカバーせざるを得なくなりますし、職場全体が責任を感じてしまいます。さらに、うつ病が原因で自殺に至ってしまった方にご家族やお子さんがいた場合、その方々や、特にお子さんへの影響は何十年単位で考えなくてはいけませんよね。経済問題になって、ようやく疾患がもたらす多面的な負担について皆が考え始めたのでしょう。数字で示すことで、精神疾患の重大さに気付いたのだと思います。

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