『公研』2023年9月号「私の生き方」

 

音楽家、俳優

 

 

手術後2週間でステージに立っていた

──今年4月14日に開催されたコンサート「風のオマージュ」を拝見いたしました。喜寿(77歳)を迎えられたとは思えない歌声に驚かされました。ただ、ステージ上でもお話しされていましたが、昨年病気されたとか。

宇崎 1年前の春に小腸を40センチメートル切ったんです。痛いことは痛かったけど、僕はそれほど深刻な状態ではないと思っていました。

 ところが医者は、「いま切らなければ、明日にはもう病院に来られなくなっているかもしれません。どうしますか?」と脅すようなことを言うんですよ。「ご家族をお呼びください」という話になって、阿木(燿子)が病院に駆け付けた。すぐに入院手続きの誓約書に印鑑を押すと、そのまま麻酔を打たれて、気が付いたら翌日でした。昨年に開催した「風のオマージュ」の2週間前のことだったんです。

──昨年のコンサートは、術後すぐだったんですか。

宇崎 そうなんです。手術から2、3日は電話で話すだけでも傷口が痛かった。人間は、腹筋を使って喋っているのだなと、そのときに気付かされましたね。さすがにコンサートで歌うのは難しいかなという感じだったのだけど、1週間経ったら何ともなくなって退院できた。当日までに歌えるまで回復することに賭けて、バンドにはお稽古してもらっていました。コンサートの前日になって歌ってみたら、ちゃんと声が出たのでステージに立つことに決めました。ライブの3分の2が終わったところでお客さんに向けて、「実は2週間前に手術したんです」という話をしたら、「どれだけ心配したと思っているんだ」といったメッセージが後からたくさん届きました。

 執刀した医者も心配で、気が気じゃなかったみたいね。僕は本当に切る必要があったのかと疑いを持っていたんです。執刀医は救命救急の専門医で普段から切りまくっているから、切りたくて仕方なかったんじゃないかと思っている(笑)。

 小腸の病気はそんなふうにして乗り越えたんだけど、昨年は11月に新型コロナに罹っちゃったんですよね。夫婦二人で家のなかに10日間もいなきゃならなくなった。別に体調は悪くなかったから、冬休みをもらった気分だったんです。

 でも、この期間は何も手を付けられなかった。普段は、スタジオに入ってキーボードやPro Toolsなんかの機材に電源を入れたり楽器に触れたりしたら、「さぁ何かやるか」という構えになるのに、何にもやる気が起きなかった。キーボードの電源は入れるんだけど、そこでボーッと座っているだけ。僕は学生時代から1日1曲は必ず曲を書くことを課していて、それを長年続けてきたんですね。けれども、やる気がみなぎってこない状況に困惑しましたね。このやる気のなさがずっと続いたら本当にたいへんだと思ったけど、2週間くらい経ったら次第にやる気も戻っていきました。

──病気をされていたことなど微塵も感じさせないライブでした。共演されたミュージシャンたちのタイトで完璧な演奏に、77歳を超えても違和感なく溶け込んでいる。

宇崎 ミュージシャンたちも僕に完璧な歌を求めています。リハーサルをやっていても「ちょっと音が狂っていますね」とか「出だしの入り口を間違えてますよ」とか、ものすごく親切に言ってくれるんですよ。みんな若いんですけど、遠慮がない。最近のライブではイヤーモニターを使うことが多いので、お客さんの声援は聞こえてこないんです。反応を見れば手応えはわかるのだけど、スタッフたちに「どうだった?」と毎回聞いています。彼らが「よかった」と言ってくれたら、そうなんだろうと思える。おかしいところがあれば、どこが悪かったのか指摘してくれる関係ができあがっています。忖度しないスタッフをそろえていますからね。

 

アメリカ人になろうと思っていた

──1946年のお生まれです。新しい音楽はどのようにして知っていったんでしょうか?

宇崎 僕は歳上のきょうだいがたくさんいたんです。兄が3人──3人目の兄は小さい頃に亡くなっていますから僕が知っている兄貴は2人です──、それから姉が3人です。実家があった代々木上原には、在日米軍の兵舎や家族用居住宿舎があったワシントンハイツがあって、そこの軍人さんたちのために放送していたのがいわゆる極東ラジオ(FEN:Far East Network)です。

 次女と三女の姉二人はアメリカかぶれだったので、ハイティーンの年頃になると、FENから流れてくるアメリカの音楽に夢中になるんですね。だから僕は、小さい頃から姉たちが聴いていたFENやレコードしか聴かせてもらえなかったんです。アメリカのヴィンテージな音楽やカントリー&ウェスタン、エルヴィス・プレスリーを聴くことは、自分にとっては日常的なことだったんです。

──二人のお姉さまに影響を受けたわけですね。

宇崎 姉たちが聴いていた横で、わかったような顔をして聴いていました。それで僕もアメリカかぶれになって、小学校のときはいつかアメリカ人になってやろうと思っていました。周りの小学生たちとは全然合わないですよね。あるとき朝礼で「歌謡曲は大人の歌だからそんな歌を小学生の君たちが歌ってはいけない」という禁止令が出たんです。その頃の子どもたちは「粋な黒塀 見越しの松に」(春日八郎『お富さん』)なんて流行歌を歌っていたんですね。

 僕は歌謡曲をどこかでバカにしていました。あのダサイ歌はなんだろうって。僕は歌謡曲ではなくて「Well, since my baby left me」とプレスリーの『Heartbreak Hotel』を口ずさんでいましたからね。それを見た同級生が先生に垂れ込んだんです。それでお袋が学校に呼ばれて、僕も同席させられて叱られたんですよ。「歌謡曲を歌っていたそうじゃないですか。どういう教育しているのですか」と。それを聞いていた僕が、「先生あれは歌謡曲じゃなくてロックンロールだよ」と言ったら、お袋はさらに怒られていました(笑)。

──時代背景を考えると先生にロックを理解してもらうのは難しいでしょうね。

宇崎 でも関心を示す先生もいたんです。小学3年生のときだったけど、女の担任の先生が「ね、『ハートブレイク・ホテル』って歌、レコード持ってる?」って。それで先生が日直だった土曜日に学校にSP盤のレコードを持って行ったんです。落とすと割れる78回転のやつ。先生は「これがプレスリー。イイわね……」と感心して聴いていたのだけど、突然、校庭のスピーカーで流し始めた。

 「Well, since my baby left me.」──。

 土曜の校庭にエルヴィス・プレスリーが流れたんですよ。嬉しかったね。大袈裟に言えば、感動した。その瞬間、先生と心がひとつになったような気がしたんです。

──音楽の魅力を感じさせるエピソードですね。

宇崎 それから親父、姉さん、兄貴たちは毎週のように映画に連れて行ってくれたんですよ。ほとんどが洋画で、だいたいはハリウッド映画でした。『二十四の瞳』なんかの真面目な松竹映画はお袋が連れて行ってくれました。あの頃のハリウッド映画は、最後のエンドマークが出るときはキスシーンで終わったりする。次の日学校で昨日観た映画のあらすじを話して、「女の子にはこうやってキスするんだよ」なんてシーンを真似ていました。小学生なのに(笑)。それでまた先生に叱られる。でも何がいけないのか本人はわかっていないんだ。それぐらい周りの子たちとは違って、マセていたところがありましたね。

──新しい文化や音楽に対して寛容なご両親だったのですね。

宇崎 趣味として楽しむ分にはいいんだけどね。それを「仕事にする」と言えば、親父は反対したと思います。中学、高校のときはブラスバンド部に入って、学校にあるトランペットを借りて吹いていたんです。明治大学に入ってからはジャズをやり始めたのだけど、親父はその間、何度か「お前は何になりたいんだ」と聞いてきました。「トランペッターになりたい」とか「音楽の関係の仕事に就きたい」と言うと怒るに決まっているから、「まともなサラリーマンになる」と答えていました。

 親父は東京商船学校(後の商船大学、現在の東京海洋大学)を出ていて、外国航路や国内航路の船乗りをしていました。僕が生まれる頃には陸に上がって船舶関係の会社に勤めていて、それから自分の会社を立ち上げたんです。自分も商船大学に行って親父と同じ船の仕事をしようと高校生の頃までは思っていました。けれども進学したのが明大付属の中高だったから、結局別の大学を受験することはせずに、明治大学の法学部に進むことになった。だからと言って、弁護士や会計士をめざそうなんて考えはまったくなかった。親父には「サラリーマンになります」と言っておけば、一応は納得してくれたんですね。

 

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