『公研』2024年5月号「めいん・すとりいと

 

 今年は、一九二四(大正一三)年に護憲三派内閣が成立してからちょうど百年になる。護憲三派内閣とは、貴族院を基礎とする内閣に反対した三政党が、政党内閣の確立を目指して憲政擁護運動(第二次護憲運動)を起こした結果、加藤高明を首班として組織された内閣のことである。この内閣は、日本の歴代内閣の中でも特に重要な歴史的意義を持つものの一つである。

 明治憲法は内閣と議会の関係について規定しておらず、政党内閣が許容されるのか否かは不明確であった。議会開設当初、明治政府の指導者たちは政党と対決姿勢を取っていたが、やがて政党と協調する路線に転じ、一八九八年には初の政党内閣である大隈重信内閣が誕生した。一九〇〇年には伊藤博文が立憲政友会を組織し、翌年に同党を与党とする政党内閣を組織した。以後政党はしばしば政権に参画するようになり、政党内閣は事実上認められていった。大正期には、初の本格的政党内閣である原敬内閣が政党政治の基盤を固めた。

 大正中期までの政党内閣は、総選挙とは直接関係なく、元老の話し合いによってできた内閣であった。これに対して護憲三派内閣は、前政権下の野党が総選挙で勝利して成立した内閣であった。総選挙によって初めて政権交代が実現したという意味で、同内閣の成立は画期的であった。同内閣は世論の強い支持を追い風として、翌年にいわゆる普通選挙法を成立させた。もっとも、以後約八年間二大政党が交互に政権を担当する「憲政の常道」と呼ばれる時代が続いたものの、同内閣以降は内紛や政策の行き詰まりによって政権が倒れ、総選挙と直接関係なく、元老の指名によって次期政権が生まれるのが再び常となった。結果として、総選挙によって成立したと言い得る内閣は、戦前は護憲三派内閣のみとなった。

 戦後は日本国憲法のもとで議院内閣制が保障され、議会に基礎を置かない内閣は成立し得なくなった。しかし、戦後においても野党が総選挙で勝利を収めて政権交代が実現した例は少なく、一九四七年の片山哲内閣、一九九三年の細川護熙内閣、二〇〇九年の鳩山由紀夫内閣、二〇一二年の安倍晋三内閣の四例が挙げられる程度である。戦後長らく続いてきた自民党政権下では、政権運営に行き詰まって内閣が総辞職すると、自民党内の派閥の論理に従って後継首相が選出され、「疑似政権交代」がなされるのが常であった。戦前は元老、戦後は派閥の領袖と、首相選定の実権を握る者は異なるが、総選挙と直接関係なく政権が交代するのが常態という点では、戦前・戦後の政党政治は共通している。その意味で、現代日本の政党政治は、今なお護憲三派内閣当時と同じ歴史的位相の中にあるとも言える。

 昨年表面化した政治資金問題が大きく影響して、岸田内閣の支持率は低空飛行を続けている。直近の世論調査によれば、次の総選挙で政権交代を望む人は増えているようだ。しかし、野党はバラバラであり、立憲民主党や日本維新の会の政権担当能力に期待する声も強いとは言えない。現状では、補欠選挙などで自民党に「お灸」を据えることで世論が満足し、自公政権が存続する可能性が高いように見える。岸田内閣の不人気がこのまま続くようであれば、自民党は九月の自民党総裁選挙で岸田総裁を交代させ、「疑似政権交代」によって生き残りを図るだろう。いずれにしても、久々に政権交代の可能性が云々されてはいるものの、一九九三年、二〇〇九年と異なり、政権交代の受け皿となる枠組みは容易に想像し難しい状況である。野党指導者には、奮起と大胆な政策ビジョンの提示を期待したいところである。

京都大学教授

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事