バイリンガル小説を構想

──本書では、いくつかの章と章のあいだに、英語で書かれた文章が挿入されています。その中で、「ほとんどの日本語の読者は英語のパートを読み飛ばすだろう」と書かれていますが、英語の文章は日本語の地の文とはかなり異なる語り口になっているように思います。これはどんな仕掛けなのでしょうか。

吉原 もともと私は、この本を文字通りの「バイリンガル小説」にしようと構想していたんです。筋としては同じ物語を日本語と英語の両方で書き、それを見開き左右それぞれに印刷して一つの本に両方掲載するというアイデアです。翻訳ではありません。どちらの言語を使うかによって、見える世界、経験する事柄、感じることがまったく違いますし、どのような語り方をするかも異なります。それを示すために、一つの物語を二つの言語で語るバイリンガル小説というものを考えていたんです。

──新しい試みですね。

吉原 そうですね。私の知る限り、日本語と英語でのそうした前例はありません。その構想を基に5年ほど前から言語でいろいろなエピソードを少しずつ書き溜めていたのですが、2、3年前、ある程度の分量になった段階で、自分が思い描いているような本が実際につくれるのか、知り合いの編集者などに相談してみたのです。

 すると、大多数のお返事が、「日本の商業出版からそのような形態の本を出すのは難しいだろう」というものでした。第一に、分量の問題があります。日本語版と英語版の両方を載せると必然的に分量が倍になるので、かなり中身を削らないとものすごく厚い本になってしまう。そして、現実的に考えて多くの日本語読者は英語のパートを読まないだろう。読者の大多数が本の半分を読まないものを出版するのは考えにくい、という意見でした。日本の出版界では、英語学習に関する書籍が驚くほどたくさん刊行されて、かなり売れているにもかかわらず、ある程度の分量の英文を読む読者がそれほど少ないということに、正直言ってかなりの衝撃をおぼえました(笑)。

 仕方ないので、まずは日本語バージョンをひと通り書き終えてから、英語版をどうするか考えることにしました。そうして日本語版を書き上げ、さらに内容の取捨選択や構成の変更を何度か重ねた末にできたのが、今回の本です。

──実際に完成した本の英文は、吉原先生の理想であったバイリンガル小説の名残なのですね。

吉原 そうですね。バイリンガル小説の出版が難しいにしても、日本語で書くことと英語で書くことでは文脈が異なり、読者との関係性も変わってくるということを、何らかの方法で示したかったのです。

──英語パートでは吉原先生がアジア系アメリカ人として扱われることの葛藤がでてきました。一方、日本語パートではアジア系アメリカ人についてはあまり言及されていません。

吉原 はい。私はカリフォルニアで過ごした子ども時代に、はじめてアジア系アメリカ人という人たちの存在を知りましたが、そのことは本の前半に少し出てきます。その後日本に戻り、大学まで日本で教育を受けてから、ロードアイランド州のブラウン大学の大学院に行ったのですが、当時の私は自分のことを日本人留学生としか捉えていなかったので、周囲の人、特にアジア系アメリカ人の人たちから、同じアジア系アメリカ人として扱われるたびに、強い違和感を持ちました。一緒にされたくないというわけではないのですが、私の家族は移民ではありませんし、親や祖父母が戦時中に強制収容所での生活を経験したという、多くの日系アメリカ人が背負っている民族的な歴史や記憶をアイデンティティの一部として持っていませんから。

 とは言っても、現代においてはアメリカのアジア系人口の過半数が第一世代の移民ですし、アメリカの人種や移民の歴史の文脈で見ると、私がアジア系アメリカ人ではないとは決して言えないのです。実際今では、状況によって、「アジア系アメリカ人」や「有色人種の女性」として自分が行動したり発言したりすることもあります。

 「アジア系」というアイデンティティのそうした複層性も描きたかったのですが、ただ、多くの日本の読者にとっては、「アジア系アメリカ人」という存在はあまり馴染みがないですよね。だから、そのカテゴリーをめぐる葛藤を日本語読者に向けて語るためには、その前提となる背景を多少じっくりと書き込まなければ物語を展開できない。そこでこの本では、「アジア系アメリカ人」についての文章は、その文脈となる知識をある程度共有していると思われる英語読者に向けてだけ書くことにしたんです。

 

 

簡単には定義できない「○○人」

──本書を読んで「日本人とはなんなのか」という答えのない問いが浮かんできました。

吉原 学術書や論文とは違ってこの本は文芸書なので、読者がそこから何を読み取ろうと自由で、著者である私が読者に何を受け取ってもらいたいかをあまり具体的に語らないようにしようと思っています。ただ、あえて言うなら、「日本人」や「アメリカ人」といったカテゴリーは、法的な意味での国籍としては存在しますが、国民性や民族的アイデンティティといったものは、不変で確固としたものとして存在するものではないということです。

 この本の前半では、日本で育った「日本人」の私が子どもの頃にカリフォルニアで「アメリカ」に出会った経験を、後半では、英語ができるようになった大人の私が再び「アメリカ」に出会う物語を書いているわけですが、私が「日本人」であることの意味は、それぞれの章で大きく違います。それは、私が子どもから大人になったからでもあり、英語ができるようになったからでもありますが、私が「日本人」であると同時に、アジア人でもあり、女性でもあり、大学教授でもあるからです。自分のアイデンティティを形成するいくつものパーツが、どのような組み合わせでどう作用するかは、どういう状況で誰と接しているかによって、まったく変わってくるのです。

 「日本人」とはこういうものだとか「アメリカ人」とはこういう人たちであるとかいう語りを簡単にはできない。実に当たり前のことではあるのですが、この本がそのことを伝えられればいいなと思っています。

でも繰り返しますが、読者がこの本から何を感じ取っても自由です。特にこの本については、読む人によって響くポイントや面白いと感じる箇所が違うようで、それ自体が私にとってとても興味深いです。

──ありがとうござました。     

聞き手 本誌:薮 桃加

『不機嫌な英語たち』吉原真里 著 晶文社

 

吉原真里/ハワイ大学アメリカ研究学科教授

よしはら まり:東京大学教養学部卒業。ブラウン大学アメリカ研究学科で博士号を取得。ハワイ大学アメリカ研究学科准教授を経て、2008年より現職。アメリカ文化史、ジェンダー研究などが専門。著書に『ドット・コム・ラヴァーズ』『性愛英語の基礎知識』『ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール』『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』および英文著書多数。『親愛なるレニー』で日本エッセイスト・クラブ賞、河合隼雄物語賞を受賞。20239月に『不機嫌な英語たち』刊行。

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