『公研』2020年12月号「めいん・すとりいと」

岡ノ谷一夫

 人間の言葉は、動物コミュニケーション全体の中で考えると、きわめて特異な信号である。動物が発するコミュニケーション信号は、「正直」である必要がある。ここでいう正直とは、信号の影響力に応じて、それを発することに「コスト」がかかることを示す。たとえば、小鳥のさえずりは正直な信号だと言える。なぜなら、さえずることは、天敵に発見される危険につながるし、餌を探すなど他のことができないし、栄養が必要だ。さえずりは学習を必要とするから、そのための神経系を維持し、学習のために時間を割かねばならない。このようなコストのもとさえずっている小鳥は、コストに負けない健康状態・栄養状態・敏捷性・知性を持っているはずだ。小鳥のメスは、さえずりからその個体の適応度を探り、配偶するかどうかを決める。これはさえずりが正直な信号だからこそ可能なことである。もしさえずりが正直な信号でなかったら、さえずりに騙されて交配したメスは馬鹿を見る。さえずりは信号として無効になり、鳥たちはさえずりを使わなくなるだろう。

 いっぽう、人間の言葉は正直な信号であろうか。発話の流暢性と声量は健康さの指標となろう。語彙や文法的な複雑さは知性の指標となろう。韻律は情動状態の指標となるだろう。すなわち、発話「行為」は正直な信号である。ところが発話「内容」は正直である必要はない。口先だけなら何でも言える。事実と反することも、心にもないことも言える。にもかかわらず、言葉はこれまで数万年にわたり人間のコミュニケーションの中心にあり、文化の蓄積を可能にしてきた。なぜか。発話「内容」が正直でなくても、発話「行為」がその正直さを保証してきたからではないだろうか。いまや懐メロの域にある平松愛理の『部屋とYシャツと私』では、「あなたは嘘をつくとき右の眉が上がる」という歌詞がある。ここに歌われる夫は、発話「内容」が嘘でも、発話に付随する「行為」が正直であるがゆえに、嘘はすっかり妻にばれている。ばれているからこそ、この夫婦はうまくやっていけるのである。

 ところが、デジタル技術は、言葉のテキスト部分、すなわち嘘がつける部分を重用し、言葉の行為の部分、すなわち正直な信号の部分をそぎ落とした。非対面のコミュニケーションが増えれば増えるほど、私たちの言葉は正直な信号による保証を失っていく。電子機器によるコミュニケーションの手軽さは、生物学的な信号であった言葉を、地に足につかない、ふわふわしたものに変えてしまったのだ。言葉がふわふわしたものになっているのは、ものごころついたころからデジタル機器に囲まれている若者が中心かと思いきや、そうではない。言葉に重みがあった時代に青春を生きた者たちも、デジタル技術によって言葉の軽さを身に着けてしまったのだろうか。国を導くべき者、自治体を導くべき者たちの言葉は、いまやすっかりふわふわしたものになってしまった。ふわふわした言葉は、さかのぼって意味を変えることが得意である。ふわふわした言葉には、それによって文化を蓄積できるような重みはない。

 電子機器による遠隔コミュニケーションの簡便さを生かしつつ、発話内容に責任を持てるような仕組みが、今こそ必要である。しかしそれは果たして仕組みなのだろうか。仕組みではなく、生き方の問題であると私は思う。言葉は生物学的な信号としてはあまりに脆弱である。そのような言葉をこれからどう使っていけば、これまで積み重ねてきた人類の文化を維持できるのであろうか。そろそろこうした問題を真剣に考えるべきである。東京大学教授

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