『公研』2022年2月号「私の生き方」
東京大学運動会硬式野球部 監督・井手 峻
父は映画『青い山脈』の脚本家
──1944年佐賀県のご出身です。どんなご家庭で幼少期を過ごされましたか。
井手 佐賀県唐津市で生まれました。父(井手俊郎)の実家は、質屋を営んでいました。生家は明治時代以降、炭鉱の町として発展した旧北波多村(現唐津市)の繁栄を伝える重要な町家建築と評価されて、登録有形文化財になっています。今でもギャラリーとして残っているんですよ。
父は戦前から東京で仕事をしていましたが、戦時中は一家で唐津に帰っていました。私が物心付いた頃には先に東京に出て仕事をしていましたが、敗戦後の混乱が落ち着くと家族で上京します。私が5歳のときでした。
父は東宝専属のシナリオライターをしていました。とても忙しく家にはほとんどいなかったんです。映画『青い山脈』の脚本を手がけていたのもその頃のことですね。
母は自分自身はそんなに勉強ができたわけでもないのに、教育熱心でした。今で言う教育ママですね。小学校のときに僕の成績が良かったこともあって、欲が出たのだと思います。東京の事情を知っているわけではないので、進学する学校について知り合いにいろいろ相談していたみたいです。
──お父さまは著名な脚本家の井手俊郎さんですね。映画やドラマの世界に憧れはありましたか?
井手 父は家では、ずっと仕事で机に向かっているんです。小学校の頃って机に向かうのは苦痛じゃないですか。だからあんな商売は絶対にいやだなと子供心に思っていました(笑)。父の手掛けた映画やドラマも子供向きではなかったし、高校生の時に初めて映画を観たくらいで特に興味はなかったです。
カーッと熱くなるものと出会った
──野球に興味を持ったきっかけは?
井手 小学校2、3年の頃、下北沢にあった東宝の寮に住んでいたのですが、近所にかわいがってくれるおじさんがいて、後楽園球場に巨人対阪神の試合に連れて行ってくれました。ルールもわからなかったのだけど、初代ミスタータイガースの藤村富美男さんに感激したんです。それで野球に興味を持ちました。ただ、その時代は少年野球チームもありませんから、学校でボールを使って遊ぶ程度でした。プロ野球選手なんて想像もつかない。子供の憧れという存在です。
小学校高学年のある日、近所の広場で汚い硬球を拾って、それをバットで打ってみたことがありました。あの時の感触は未だに忘れられない。何かカーッと熱くなるものがありました。どうしてもまたやってみたくてしょうがないんですね。それが硬球で野球をやってみたいと思ったきっかけでした。
高校で初めて自分の道を自分で切り拓いた
──高校は都内屈指の進学校、新宿高校に進学されます。
井手 母の薦めで新宿高校の隣にある新宿区立四谷第二中学校に今で言う越境入学しました。今では廃校になりましたが、四谷二中は新宿高校への進学率が一番高かった。成績20─30番目に入っていれば新宿高校に行けるという情報を母がどこかから聞いてきて、そこに入れたわけです。私は新宿高校のこともよく知らなかったし、進学したいという意志もなかった。だから、母が敷いたレールを進んだだけなんですよ。
でも、新宿高校で初めてちゃんと野球をしたんです。中学にも野球部はあったけど、「勉強ができなくなるから野球なんかダメだ」と母に言われていてやらなかったんです。高校でも最初は反対されて野球部には入らなかった。でも1年生の6月ぐらいになったら、野球がやりたくて止むに止まれぬという感じになって、勝手に入っちゃいました(笑)。母も諦めて、もう何も言いませんでした。初めて自分の道を自分で切り拓いたときでした。やっぱり野球には惹かれるものがありましたね。
──当時の新宿高校の雰囲気は。
井手 高校2年生の頃は、ちょうど60年安保闘争が盛んでみんなデモに行っていました。野球部の隣にあった山岳部の連中は特に学生運動に熱心でした。「デモに参加してくれ」と誘われて、僕も1回だけデモに参加しましたが、その日は樺美智子さんが亡くなった一番激しい日でした。理念や信念もないのに流れで参加して、国会議事堂の前でボンボン放水するのを目の当たりにして怖い経験をしました。
──新宿高校時代の野球の成績は?
井手 もう全然ダメでしたね。2年のときは内野手として3試合ぐらいしか出ませんでした。3年生の時はピッチャーでしたが、試合で投げたのは1回だけです。それも1回戦で負けてしまいました(笑)。弱いチームだったけど、一つか二つくらいは勝ち進みたかった。同級では法政二高に巨人に行った柴田勲さんがいました。柴田さんは高校の時は投手で、甲子園の優勝投手になっています。
──野球と学業は両立できましたか?
井手 中学までの一夜漬けでは通用しなくて、学業の成績はどんどん落ちました(笑)。それでも野球はやめられなくて、成績は本当に地べたまで落ちましたね。高校2年生になると、母は家庭教師を付けて大学入試に向けて勉強の遅れを取り戻させようとしました。がんばりたいとは思うんだけど、野球に夢中でしたからね。授業となると、眠たくてダメでした。結局1年間浪人して、東大に進学しました。
──何故東大に入ろうと思ったのですか?
井手 新宿高校では、東大を受けるのは当たり前でした。だいたい男が300人、女が100人いたのですが、男は全員が東大を受験するために来ていたくらいです。とにかく東大をめざす。それにつきました。東大では理科二類の農学部に進みました。農学部出身者には悪いけど、そこしか入れなかったんですよ。理科一類より点数が低くても入れましたから。
恥ずかしい話だけど、学びたいことがあったわけでも就きたい仕事があって東大をめざしたわけでもない。世の中のことを知らなかったし、そういう高邁な気持ちもまったくなくて、ただただ勉強して東大に入るんだという感じでした。
受験勉強がすごく辛かったから、東大ではヨット部にでも入って「遊ぼうかな」と思っていたんです(笑)。けれども、東大野球部には新宿高校の先輩がたくさんいて「ヨット部なんてダメだ」と言われ、野球部に無理やり連れて来られました。
王貞治さんのバットを研究
──農学部ではどんなテーマで学問をされたんですか。
井手 農学部には色々な学科がたくさんあります。僕は林産学科で木材の再利用、紙パルプ・合板などの研究をしました。合板がどのくらいの力で折れたり、ちぎれたりするのかという合板の強度試験をしていました。それでたまたま王貞治さんの使っていたジュンイシイのバット(個人のバットメーカーである石井順一氏が王貞治専用に開発した革命的な圧縮技術で作ったバット)を入手して、顕微鏡写真を撮って木の強度を調べて研究したこともありました。真空状態で、樹脂で木の周りを固めるように染み込ませて硬くする技術でつくったバットです。今はもう使用禁止になっているのですが、王さんは非常に重くて硬いバットを使っていたんです。
当時、王さんのためにつくったバットの残りが市場に出ることがたまにあって入手しました。まあ遊び程度の研究でしたけどね。
──その研究は打撃に生かされたりしましたか?
井手 それはないね(笑)。樹脂で固めるからヘッドが重たくなってしまうので、私は使っていなかった。使っているチームメイトはいましたけどね。
──大学生活はどうでしたか?
井手 野球一色の生活でした。神宮球場での試合に出るような選抜選手は、野球部の一誠寮に入ってチームメイトと共同生活をします。当時は午前中に授業があって、午後は日が暮れるまで野球の練習をしていました。現在は8時から練習で午後は授業になっています。当時門限は午後11時。外に遊びに行くやつもいたけれど、僕はそういう性格ではないので、あまり出歩かずに野球部の仲間と近くのお店に行くぐらいでしたね。勉強もあまり得意ではなかったし、ひたすら野球をしていましたから卒業するのもたいへんでした。
伸びる時期は急にくる
──野球選手としては、高校時代よりも大学入学以後に成長されたとか。
井手 いま野球部員にもよく言っていますが、人には急に伸びる成長期があるんですよ。自分の場合は、小さい時からまあまあ足が速かったけど、高校2年生の時に長距離も短距離もわけもわからずタイムがよくなったことがありました。特別なトレーニングをしたわけでもないのに足が速くなった。鍛えることで成長を実感できればいいのだけれど、成長期は身体本意なので、いつどのように伸びるのかわからないところがあるんです。指導する立場としては、コツを伝授することで選手を成長させたいと思うのだけれど、これは教えようがないので「伸びる時期がある」と伝えるしかない。
自分の場合は、大学生になってからもその成長期があって身体が備わってきました。元々は内野手が好きだったけれど、自分の身体をいろいろ試してみると、たまたま速いボールが投げられるようになっていました。それで投手として少しは自信も出てきて、3年秋のシーズンではエースとして納得の行くピッチングができるようになりました。東大は、六大学野球では一つも勝てなかったけど、個人成績はすごく良かった。ベストナインには選ばれなかったけど、防御率も良かったので特別に「投手敢闘賞」を設けてもらって受賞しました。
この年には東京六大学野球の選抜チームに選ばれて、日本代表として第6回アジア野球選手権大会に遠征して優勝することができた。早稲田の投手がメインで投げていて私は参加させてもらったという感じでしたが、外のチームでもやれたことはとても大きな経験でした。高校時代も勝利とは無縁だったし、東大でも1、2回勝つのがやっとでしたからね。
突然のドラフト指名と就職内定辞退
──プロでもやっていけるのではと自信を得られた?
井手 アジア大会は日本の代表として行ったけど、プロを意識するようなことはまったくなかった。一緒に遠征したメンバーにはプロでも大活躍した田淵幸一や高田繁がいましたが、その頃からモノが違うという感じですよ。
東大で野球をやっていると、試合に勝てるという確信は持てないものです。たまたまうまくいった時だけ勝つくらいです。だから、自分にどれだけ実力があるのかはわからなかった。当然プロ野球を意識することもなかったし、普通に就職活動をしていましたね。
社会人野球のチームからはいくつかお誘いがあったのだけど、卒業するのも大変なくらい勉強に苦労したから野球と仕事を両立するのは避けたいと思っていました。それで野球チームのない会社を志望して大学3年のときに三菱商事から内定をもらいました。林産について勉強していたので、木材が豊富なカナダに行くことも半分決まっていたんです。
──ところが、1966年のドラフト会議では中日ドラゴンズと阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)から指名されます。
井手 本当にびっくりしました。「ええっ?」という感じですよ。阪急は父の東宝つながりで指名してきたのかもしれませんが、ドラゴンズからも指名があったことには驚きました。事前に球団が下見にくるようなことはなかったんです。
東大から初めてプロ入りした2年先輩の新治伸治さんが、「お前プロでやる気あるか?」と聞きに来られ「私はもう三菱商事に決まっているのでありません」と話したことはありましたが、それくらいのものでしたから……。
指名を受けても「やってやるぞ!」という気持ちにはなれませんでした。自信がなかったんですよ。けれども、「自分はどのくらいできるだろう」と考え出すと、次第に「試してみたい!」という気持ちになっていきました。それで「カッ」と血が騒いで、つい野球の世界に飛び込んでしまいました。
父は、「オレと同じやくざな世界にくるのか」なんて言っていました。一緒に野球をしたことも、野球の話をしたこともありませんでした。運動神経もあまりない人でしたから、自分の息子がプロ野球選手になるなんていうことは想像もできなかったと思います。母も私を東大に入れた時点で子育ては終わりだと思っていたようで、何も言いませんでした。だから、プロ野球入りは自分の意思で決心しました。
三菱商事には先輩にお世話になって内定をもらったこともあったので、辞退は申しわけなく感じました。ただ、気持ちが定まってからはプロでやりたいという一心でした。中日ドラゴンズに入団することに、もう迷いはなかったですね。
長嶋茂雄さんとカーブで勝負
──投手として入団されます。プロの打者を相手に投げて手応えはいかがでしたか。
井手 入団1年目は1勝4敗でした。それまでの投げ方では通用しないことをすぐに痛感させられました。
プロ1年目に一度だけ巨人戦で投げたことがありました。同点のまま延長に入った10回表の頭からの登板でした。思ったよりも簡単に2アウトをとることができましたが、土井正三さんには2塁打を打たれ、柴田勲さんにはフォアボールを出してしまった。その試合で柴田さんがタイムリーを打ったのを見ていましたから「今日あいつは当たっているな」と読んで、つい力が入ってしまったんです。続く黒江透修さんは追い込んで、一番得意なドロップを投げたんですよ。そしたら見事に3ランホームランを打たれました。長嶋茂雄さんにはカーブで勝負しましたが、レフト前にヒットを打たれて降板し敗戦投手となりました。この試合では、長嶋さんが3番で4番が王貞治さんでしたが、次に控えていた王さんと対戦することはできなかった。
──往年の大スターたちは雰囲気があるものですか。
井手 当時は巨人の選手たちはみんなスターだから、試合で会って挨拶を返してくれるだけでも満足していたところがありました。「敵だ! やっつけろ」なんて思っていない(笑)。そんなでは投手として勝てるわけがない。星野仙一みたいに、どんな相手でも強気で向かって行かなきゃね。
翌年からはサイドスローやアンダースローにフォームを変えるなど、いろいろと試してみたのだけど結果は出なかった。本格派を好んだ杉下茂監督に変わった入団3年目にピッチャーをクビになりました。私の自己流のピッチングは、杉下さんの目には入らなかったのでしょう。
これでもうプロの生活は終わりかなと覚悟しましたが、足が速かったこともあって4年目からは内野手としてチームに残してもらえました。
ただし、レギュラーではなく代走要員です。
──当時のプロ野球選手の給料は良かったのですか?
井手 そうでもなかったですよ。今の選手はすごく贅沢できるけど、昔はそんなにはもらえませんでした。
あの頃は入団時の契約金の上限が1,000万円と決められていて、それが守られていました。高木守道さんや江藤慎一さんのような名選手でも1,000万円がやっとでした。それでも、大手のサラリーマンでも年収180万円くらいでしたから、スター選手はずいぶんもらっていたんですけどね。
私の場合、投手時代の3年間は実績がありませんから、給料は下がり続けました。給料の上がり方がすごかった大手企業に就職した連中からは、「井手はかわいそうだ」なんて言われていました(笑)。だからと言って、三菱商事に入社しておけばよかったと後悔したことは一度もありません。プロの世界は、成績を残せなければ高い給料はもらえないと理解した上で入団したわけだし、お金の使い方をコントロールしていたので問題はなかったですね。
与那嶺監督との出会い
──野手(内野手)に転向されてからはいかがでしたか。
井手 硬球をバットの芯で打つことは快感でしたから、本当はずっとバッティングをしたかった。守備も好きでしたから、野手への転向はとても有り難い申し出でした。けれども、十分な成績を残すことはできませんでした。それがプロで5年間やった結果ですから、もう辞めようと考えていました。
ところが、打撃コーチだった与那嶺要さんに「僕が監督になったらお前に外野の守備固めをやってほしい」と言われたんです。それならばと、引き続きプロでプレイしようと気持ちが変わりました。
与那嶺さんは打撃コーチでしたから、内野手の守備を見る機会はあまりなかったはずですが、どういうわけか機会を与えてくれました。私の一体何を見込んでくれたのかよくわかりませんが(笑)、今一度チャレンジすることにしました。その後、与那嶺さんが監督に決まり、外野手としてさらに5年間プレイすることができました。
──与那嶺要さんはプロ野球ファンの間では伝説的な存在ですが、どのような方でしたか?
井手 与那嶺さんは、もともとアメリカンフットボールをやっていたんです。ある試合で相手コーチと星野が乱闘になりかけたんですが、アメフト仕込みのタックルで相手を吹っ飛ばしたことがありました。ご自身が身体を張って、大事な選手に怪我をさせまいとしていました。「選手を守らないとあかん」とよく言っていましたね。そういう方でしたから、巨人時代にチームメイトでもあった長嶋茂雄さんを始めとしていろいろな方に慕われていました。
それから与那嶺さんは、守備をとても重視された監督でした。アメフトは守備こそが重要ですから、その影響もあったのかもしれませんね。外野に守備固めの選手を使うことは今ではめずらしくありませんが、最初にこの戦術を用いたのは監督がおそらく初めてではなかったかと思います。
私は試合の最後のほうで、動きの悪い外野手の代わりに守備固めとして出場して試合を終える役割を5年間やりました。それまで外野手をやった経験はありませんでしたから、外野の守備はすべて与那嶺さんに教えてもらいました。与那嶺さんには本当に感謝しています。
現役時代、唯一打ったホームラン
──野手時代の思い出は?
井手 1973年に巨人戦でホームランを打ったことですね。延長10回に打席がまわってきて、高橋一三投手から打つことができた。このホームランが決勝打になり、ヒーローインタビューも受けました。私がプロで打てた唯一のホームランです。打席が回ってくることも少なかったし、一軍にはいたものの自分は大した選手だとは思っていなかった。だからこの時は、一生の仕事を終えたような気分でした。引退前に会心の当たりを球場で味わえて本当に良かった。僕の中では、これが一番印象に残った試合になりました。
──ホームランを打った感触は、一生の記憶になるのですね。
井手 大先輩の権藤博さんがこの時に「ホームランを打った時は『狙って打った』と言え。王さんみたいな天性の才能を持つ選手はヒットの延長がホームランになるけど、俺たちは一生懸命狙わないとホームランにならないんだから」とおっしゃっていたことをよく覚えています。
権藤さんは投手として大活躍された後に、打者に転向された方でした。私がドラゴンズでコーチをしていた時も一緒でしたし、お酒を飲んだり、旅行に行くなどプライベートでも親しくさせてもらっています。最近でも、東大野球部に一週間ほど指導に来ていただきました。権藤さんの指導方法は、細かいことはあまり気にしないんですよ。生き方や気持ちのあり方を大切にしていて、「気合いだ!」とよく言っていました。野球の指導の仕方、精神論も含めていろいろなことを権藤さんから教わりました。とても影響を受けた人物の一人です。
新しい野球の道が開けた瞬間
──1976年に現役を引退されます。
井手 結局10年間プロで野球をさせてもらいました。ちょうど30歳になる頃に、中央大学から藤波行雄、同志社大学から田尾安志が入団してきました。二人とも新人王を獲った優れた外野手ですから、私がチームに居ても悪いだろうと思えましたね。与那嶺監督は「もう少しできるんじゃないか」と引き止めてくれたのですが、二人の活躍を間近に見ていますから社交辞令に聞こえました。去る時期が来たと感じて引退を決めました。
10年間プロを続けると記念のバッジがもらえるんですよ。それももらえたし、巨人戦でもホームランを打てたから満足していました。自分がプロ野球の世界でやれることは十分にできたと納得できるものがありました。
──引退後は何をされていたのですか?
井手 野球とはまったく関係のない仕事を始めました。妻の実家の関連会社を紹介してもらって、春日井市でサラリーマンを始めました。すっきりとした気持ちで勤務していたのですが、1年後のある日にドラゴンズの中利夫監督から突然電話がかかってきました。「ドラゴンズで守備・走塁コーチをしてほしい。まだ1年しか会社で働いていないのだから、抜けてもそんなに迷惑はかからないだろう。帰ってこい」と突然誘われたんです。それでまたバーっと血が走ってね(笑)。
選手としては野球をやり切ったと思っていました。けれども、コーチとして選手を指導する立場で新しいチームをつくりあげる役割を命じられると、呼び覚まされたように新しい野球の道が見えてきた。それで迷わず会社を辞めてしまいました。妻も何だかんだ言っても、私の決断には反対せずに応援してくれました。東大時代から付き合っていたのですが、プロ入りの時も「私ならやるわ」と後押ししてくれたくらいでしたから。
ずっと人の縁に恵まれていた
──再びプロ野球の世界へ引き寄せられた。
井手 振り返ってみると、私はずっと人の縁に恵まれていたと思います。投手として通用せずに内野手に転向したときは、水原茂監督や同級生に助けられたと思っています。あのコンバートは急に決まったのですが、キャンプ中のオフの日に同級生が「内野の練習をする」と言うので、私もそれに付き合ったことがありました。そうしたら、「井手は休みの日にも練習していた」という話が水原さんにも伝わって、1軍に上げてくれたことがありました。偶然のようですが、同級生が練習生に誘ってくれたことが、内野手としてやっていくことにつながった。
与那嶺さんにも水原さんにもすごく可愛がってもらいました。えこひいきしてもらったのかな? そんなことはないか(笑)。
──中監督からコーチに誘われた理由は?
井手 現役時代に積極的な交流をした記憶はなかったので驚きました。私はどちらかと言えば、先生や先輩たちからは逃げるタイプだからね(笑)。ただ覚えがあるのは、中さんが思い描いていた戦略的なプレイを私が試合でうまく実践できたことがあったことですかね。
──どんな場面でしょうか?
井手 私が二軍に落ちていたウエスタン・リーグでの試合でした。ランナー1、3塁の場面でファーストランナーが盗塁しようとします。その時にサードランナーがちょっと動いてホームに行くそぶりを見せると、セカンド、ショートは点をあげたくないから思わずファーストランナーにタッチもせずサードに投げる。その隙を突いてファーストランナーはセカンドを陥れる。私はこうした盗塁の動きをうまくできたから、気に入ってくれたのかもしれません。
分析型野球で試合に勝利
──相手のサインを見破ることが上手だったそうですね。
井手 現役最後の頃は、ベンチにいる時間が長いこともあって、仲間と一緒によく相手のサインを解読していました。他にやることもありませんから。とりあえず、「口、耳、鼻」と相手の動きをずらっと書いて並べて研究しました。なかなかわかるものではないですけどね。
南海ホークスでヘッドコーチしていたドン・ブレイザーは、サインを見破ることがとても上手でした。サードのコーチャーズボックスからバッテリーをのぞき見て、読み取ったサインを味方の選手に口笛で指示していました。あの頃は手軽に映像を録画できる機器もない時代だから、アナログで分析していたのです。今ではルールで禁止されていますから、こういう光景は見かけなくなりましたよね。
ある試合では相手バッテリーの動きでサインがわかったので、ベンチから声を出してバッターに伝えたことがありました。それでその選手が打つことができて、巨人に勝ったことがあるんです。試合後のミーティングでは、高木守道さんが「今日は井手に賞金を出すべきだ」と言ってくれたことがありました。賞金は、打った選手に普通は出るものだから、その気持ちがすごく嬉しかったですね。
相手のサインを見破ったとしても、それを聞くことを好まない選手もいました。谷沢健一は「オレには絶対に言わないでくれ」と言っていました。
読みは当たらないこともありますから、余計な情報が入ることで打撃が狂うことを嫌ったのだと思います。高木守道さんや木俣達彦さんからは、「サインがわかったら何でもいいので教えてほしい」と言われていました。そういう打者は、思い切りを求めていることが多くて、その通りに決め打ちして結果を出すことがありました。もちろん、空振りしてしまうこともあるわけですが……。
ドラゴンズのコーチとして
──1年前まで一緒にプレイをしていた選手に、コーチとして指導することに抵抗はありませんでしたか?
井手 最初はやりづらかったですね。昔は遠征先での宿泊は個室ではなくて、3人部屋が普通でした。私はいつも星野仙一、正岡真二と一緒だったんです。星野も正岡も歳下だけど、仲が良かったから親しみを込めて私のことを「タカシちゃん」と呼んでいました。コーチになった時も正岡は、選手の頃のように「タカシちゃん」と呼んでいたら、星野が「井手コーチと言え!」と気を遣ってくれたことがありました。お互い、気持ちの切り替えが結構大変でしたね。
──才能の塊であるプロの選手たちに指導することは、やり方によっては実力を潰しかねない。
井手 人柄が素晴らしくて指導力があり人を引っ張っていく力があるのに、理論が間違っているコーチは「ガン細胞だ」と表現されたりもします。特に打撃コーチはそういうところがある。誤った指導をすると、とんでもない方向にいってしまいます。
王さん、土井正博さん、落合博満──。超一流の打者のバッティングはいずれも独特なものがあるから、接するコーチもたいへんですよね。そう思うと、打撃コーチじゃなくて良かった(笑)。けれども、私が指導していた守備や走塁は理論ができ上がっているところがありますから、そんなに間違う心配はないんです。だからこそ、私でもできたところがある。
──コーチ時代に伸びた選手で印象に残ったのは?
井手 外野の守備のコーチをしていましたが、平野謙をショートからセンターにコンバートしたんです。彼には密着して指導しましたが、格段に守備が良くなりました。中監督に推薦して使ってもらい田尾安志と平野で1番2番を打って、1982年のセ・リーグ制覇につながったこともありました。この時の優勝も私にとっては印象的な出来事です。
──コーチとして選手に声がけをする時のコツは。
井手 言葉の伝え方に気を遣いました。基本ですが、まずは先に褒めてから注意をすることですね。例えば「よく振れているけど、フリの角度がちょっと…」という言い方をしました。
昔は、頭ごなしに注意する鬼コーチもよくいました。選手の性格に合っていれば、それでもまったく問題ないでしょうが、やはり選手本人をその気にさせたほうが気持ちよく練習するものだと思います。
──話題がそれますが、メジャーリーグでも二刀流で大活躍している大谷翔平選手について伺います。大谷選手の身体つきは、従来とは異なる筋トレの仕方によるものではないかとも思えるのですが、井手さんはどう見ていますか。
井手 今は本当にいろいろなトレーナーがいて選手の特色を活かすトレーニング方法がありますから、大谷選手の身体に合った筋トレをしているのだと思います。ただし、筋肉はどちらかと言えば身体を保護することが主な役割ですから、彼の飛躍の要因が筋トレばかりにあるとは思えません。速い球を投げたり、遠くに打球を飛ばすには、筋肉よりもむしろ腱の鍛え方だろうと思うんです。
もちろん、大谷選手は素晴らしい筋肉を持っていますが、鍛えたというよりも、最初から備わっている身体的な能力でしょう。高校生の時からメジャーをめざしていましたからね。基礎体力にかなり自信があって、自分にはできるという実感がその頃からあったのだろうと思います。
走塁と守備の理論は固まっている
──2020年からは、母校である東京大学野球部の監督に就任されています。
井手 東大で野球をやったことで、プロの選手になるきっかけを得ましたから、その「恩を返す」という意味でも、自分がプロで学んだことを野球部の後輩たちに伝えたいと思いました。ですから、指導内容もプロの選手に指導していたことと、内容は特に変えていません。
さっきも言ったように守備と走塁の理論は固まっていますから、一番簡単な方法で東大の選手たちも伸びるように伝えています。
──監督就任以後は、2018年から続いていた連敗を55で止めるなど2度の勝利を収めています。
井手 試合に勝つには、まずはピッチャーが抑えてくれなければどうにもなりません。他の大学はスポーツ推薦で入ってくるような野球エリートばかりですから、投げることや打つことに秀でている選手が多くて、その点に関しては自力の差があります。けれども、走塁と守備に関しては、他大学にも追い付けると見ています。特に走塁は、他大学とも対等の勝負ができる。中高時代から「いい選手」とされてきた選手は、「投げること・打つこと」に特化した練習をしてきましたから、走塁のことはそんなに学んでいませんからね。
走ることは東大野球部でも対等にできますから、積極的に盗塁を試みるように作戦では徹底しています。無謀に思えるケースでも、あわよくば1点取れればそれでいい。相手は「東大には絶対に負けられない」というプレッシャーを背負っていますから無謀なチャレンジはできませんが、こちらは負けを恐れていませんから大胆な作戦を打ち出すことができる。
例えば、浅いイニングで4番打者が出塁した場合でも、一番足の速い選手を代走に出したりとかね。4番打者が次の打席でヒットを打つよりも、代走が盗塁で進塁したほうが得点に結びつく可能性は高いこともある。それがうまくいって勝てたこともあったから、選手たちも楽しくなって走塁と盗塁の練習に力を入れていますよ。
結果的にバッティング練習に割く時間が少なくなりますが、東大野球部は、グラウンドが他大学の半分くらいしかないなかで、バッティングもすべてやっているので、それでちょうど良いのかもしれません。
東大生でもプロへの挑戦を決意する
──実力差があるなかで何とか勝機を見出すおもしろさがありますね。
井手 東大生は負けず嫌いな人が多いから、勝ちたいという気持ちが強いんですよ。引き分けで泣いていた選手がいるくらい勝利に貪欲だし、みんなすごく真面目なんですよね。
弱いとされている東大野球部にも、いい選手はけっこういます。ノンプロに誘われる選手もいるし、独立リーグの理念に惚れ込んで、そこで活躍している選手もいます。いい就職先を断って、データを分析するアナリストとしてプロ野球の世界に行った学生もいます。
部員は100人くらいいますが、神宮球場で試合できるのは30人くらいだけですから、緊張感を持って頑張っています。
とにかく野球に対する熱意、思い入れがある選手が多い。みんな上手くなりたい、上のレベルでプレイしたいという気持ちがあるんですね。だから、東大の選手でもプロからドラフト指名されることがあれば、誰でも挑戦を決意するものだと思います。
──アナリストとしてプロ野球の球団に就職した学生もいたそうですが、データが果たす役割に変化を感じますか?
井手 とるデータの内容はそんなに変わらないですが、より詳細に分析できる機器が出てきたことで精度があがりました。投手が投げる球の回転数や軸の傾き方なども1球ごとに測定できるんです。楽天の則本昂大は、練習していても、また1球1球回転数を見るそうです。横浜DeNAで監督をしていたラミレスは、先発ピッチャーの回転数がある一定数より落ちると交代させたと聞きました。我々の時代は、そんな機器はなかったからずいぶん違いますね。
使ってもらって選手は伸びる
──アドバイスする立場のコーチとは違って、出場する選手を決定する監督の役割はやはり重要ですね。
井手 そうですね。プロでも「使ってもらう」ためには選手が監督にどうアピールするかが重要になってくる。あのイチローも、仰木彬監督になってから伸びましたよね。だから、選手は使ってもらえなければ、実力を発揮して伸ばしていくことはできない。
監督は、選手たちをきちんと見ることが主な役割です。落合は「監督は選手を見るのが好きじゃないとダメだ」と言っていたけれど、本当にその通りですよ。
東大野球部の監督になってから、教えられることはざっと指導しましたが、あとは本当に見ているだけです。
監督の仕事は、選手をよく見て選抜することにあります。まずは100人いる部員から、一誠寮に入寮できるメンバーを選ぶ。それから次の試合に出られる25人を選ばなければならない。さらには、どの選手をどの場面で使うのかも絞り込んでいきます。その判断を行うためには、毎日の練習風景を誰よりも長く観察するしかないんです。
自分が選手を選抜する立場になるとは夢にも思わなかったですね。選考している時には、自分を選んでくれた与那嶺監督のことをふと思い出すことがあります。あの時の監督もこんなふうに考えをめぐらせていたのかなと。
東大の優勝をめざして
──春季リーグに向けて手応えはいかがですか?
井手 先発ピッチャーが育ってきましたから、勝てる可能性はずいぶんあがってきていると思います。それから、新主将でもある松岡泰希捕手はプロも注目するような素晴らしい選手です。東京六大学野球の中では今一番肩が強いくらいです。だから春季リーグには期待しています。
私が東大野球部の監督を引き受けた時に、学生たちには「夢は勝つこと。東大の優勝です」と伝えました。東京六大学野球で優勝すれば、全日本選手権に出場することになります。「六大学の代表として出るわけだから、みっともない試合はできない。それが一番のプレッシャーだ。そこでは絶対に勝たなきゃならない」と言いました。選手たちには、笑われたけどね。
──ありがとうございました。聞き手:本誌 並木 悠