『公研』2023年4月号「私の生き方」

自然人類学者 京都大学名誉教授 片山 一道

広島の原爆で被曝する

──1945年11月広島県のお生まれです。

片山 私は、広島の原爆の被曝者です。原子爆弾が落とされた日、まだ社会学的には世に存在していませんでしたが、生物学的にはすでにおふくろのお腹のなかに、立派に存在していました。

 2022年の大佛次郎賞を受賞した堀川惠子さんのノンフィクション『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』は、素晴らしい作品だと思います。宇品は広島市にあり、かつては大本営の一つである陸軍船舶司令部がある軍港でした。この軍隊に荷物を入れるために引かれたのが国鉄宇品線です。1972年に廃線になっていますが、記憶の襞に刻まれています。この本を読んでいたとき、私はおふくろのなかから原子爆弾が広島に投下されたときの悲惨な光景を目の当りにしているような思いがしました。既視感というのでしょうか。

 実際には、そんな光景を見た記憶などあるわけがないのですが、おふくろに連れられて小学校2年生ぐらいのときに、映画『原爆の子』(新藤兼人監督、1952年公開)を観ているはずだから、その映像の記憶が残っているのでしょうか。切ないような懐かしいような気分で、『暁の宇品』を読みました。

 私は、人骨研究を専門とする人類学者にして、オセアニスト(オセアニア学者)です。広大な海洋世界である南太平洋のポリネシア(北太平洋のハワイ諸島、ニュージーランド、チリのイースター島を3頂点とする巨大な三角形の海域に広がる島嶼世界)で、先史人類学や身体人類学の調査、研究に勤しんできました。ポリネシアにはいくつか、核実験がくりかえされた島々があります。なかでも、ツアモツ諸島のムルロア環礁(仏領ポリネシア国)と、マーシャル諸島のビキニ環礁(マーシャル諸島国)が、特に悪名高い場所です。

 それらの島々の近くにも、何度か訪れました。その初めは、フランスが100回近く核実験をしたムルロア環礁の隣の島──北東方向に約400キロ離れています──レアオ環礁でした。ミクロネシアのマーシャル諸島も何度か訪れました。ここにはアメリカが1946年から58年くらいの間に核実験をくり返したビキニ環礁があります。原爆の申し子ゴジラのお里ですね。

 私自身はポリネシア人の身体と歴史を研究する人類学者ですが、厚生労働省から太平洋戦争で亡くなられた日本軍関係者の遺骨を受け取るために、何度か南太平洋の島嶼国に派遣されました。ポリネシア人の専門家ですから、遺骨を調べれば、日本人のものかどうか、おおよその見分けがつきます。それに遺骨の受け取りには、人骨専門家の鑑定書が必須なんです。もちろん、たまたまではありますが、私の人生は、原爆の悲しみとの関わりがつきまとっています。

海で遊びたい!

──どのような環境で育たれたのですか。

片山 広島湾の宇品港から今はフェリーで1時間ほどのところにある能美島の旧鹿川村(現:江田島市能美町)で育ちました。本当のド田舎です。少年時代は海が大好きで放課後は魚釣り、大潮のときは潮干狩りです。川でうなぎを獲ることにも夢中になりました。そんな日々でした。のちに南太平洋の島々で暮らす人々のことを研究するようになったのも、「海で遊びたい!」という気持ちを持ち続けたからかもしれません。

 父は、農協で役員をしていました。最後は広島農協のトップかなにか、全農(全国農業協同組合連合会)でも理事を務めていたようです。

 ちなみに宇品港の対岸にある似島は、日本で最初の検疫所、陸軍の似島検疫所ができた島として有名です。この3年世界中で新型コロナ感染症が流行しました。南太平洋の島々の歴史をつなぐポリネシア人は、植民地主義の気まぐれ、核実験などにも悩まされましたが、疫病でもひどい目に遭っています。ポリネシアの東端にあるイースター島──ラパヌイとも呼びます──は今は大観光地ですが、疫病で人口が激減した歴史があります。今から一千年ほど前に初めて人間──トール・ヘイエルダール(ノルウェーの人類学者)の説では先史アメリカ人、おそらくはポリネシア人──がやってきて、西欧人がくる頃には人口が増加、モアイ巨人石像が造られていました。そこに1862年にペルから多くの奴隷船がやってきて、たくさんの島人が連れていかれました。

 その2年後に彼らはラパヌイに帰されましたが、その中に疫病感染者が混じっていたんですね。天然痘説が有力ですが、私自身は天然痘に似る麻疹(ハシカ)かも、と思っています。いずれにせよ、島に疫病が入ったことでラパヌイの人口は、ほぼ壊滅します。「1862年事件」と呼ばれています。

──少年時代から学者志望だったのですか。

片山 中学生ぐらいの頃からそうでした。中学3年生のときに学校の図書館で偉い先生たちの伝記シリーズを読みましたが、そのなかで今西錦司(生態学者)先生と木原均先生(遺伝学者)に強く憧れました。木原先生は冬季オリンピックで日本選手団の団長を務めるなどスキー界の大御所でもあります。お二人とも京都大学農学部農林生物学科の関係者であり、教えておられたりしていました。「自分もそこで学ぶ」とひそかに決めたわけです。

京都大学農学部農林生物学科で学びたい!

──今西先生や木原先生のどのあたりに惹かれたのですか。

片山 今となっては、その本の内容をまるで覚えていないのです。なんて言うのかな、今西さんの文章ですよ。その語り口ですね。茫洋としているようだが、心地よい。個性あふれる自然観、人間観に引っぱられるものを感じました。今西イズム、木原神話こそが、私の原点のようなものとなったのかもしれません。偶然ですが、今西先生が初代教授だった京都大学理学部自然人類学研究室で、小生は四代目の教授を努めました。

 高校は、広島市内の広島大学教育学部附属高等学校に進みました。能美島を出て、学寮生活でした。入学したばかりの頃、担任の先生が各人に「どこの大学に行きたいか」と聞きました。私はしゃあしゃあと「京大の農学部農林生物学科です」と答えて、先生が苦笑されていたことを覚えています(笑)。「〇×大学が志望」とか「〇〇学部をめざす」程度の人はいたでしょうが、そこまで決めている人はいない。ちょっとマセていたかもしれません。先生も「もうちょっとゆっくりと考えてください」と言っていました。

──首尾よく京都大学農学部農林生物学科に合格されます。今西先生の講義を受ける機会はありましたか?

片山 まったくなかったです。世代が違いすぎますからね。今西さんが生きておられれば120歳ほどになるでしょう。二つくらい世代が飛びます。研究会などでお目にかかることはありましたが、雲の上の人ですから、話かけることもできませんでした。ご挨拶申し上げただけ、そんな程度です。

 農林生物学科は、1学年の定員が15人のミクロな学科でした。もうだいぶ前ですが、学科そのものがなくなりました。寂しいかぎりです。今西先生や木原先生以外にも、たとえば本多勝一さん(朝日新聞)、中尾佐助先生(栽培植物起源論)や森下正明先生(数理昆虫学)などなど。多士済々、錚々たる顔ぶれの卒業生が大勢いました。探検部などで活躍された方──暴れられたと言ったほうがいいかもしれません(笑)──が多かったこともあって、別名は探検学科でした。

北アの蝶ケ岳で山小屋の番人

──片山さんも山登りはされたのですか?

片山 しばしば、山の上や山の中にいましたね。大学で最初に入ったのはサッカー部でしたが、夏前に足を怪我して断念しました。2回生に山岳部をたずねましたが、「遅すぎる。途中入部は難しい」と言われました。それで、市民山岳会や大学のワンゲル部に所属したこともあります。そうしたところで山歩き、ときに岩登りを楽しんでいました。3回生のときは留年して、北アルプスの蝶ケ岳で山小屋の番人をしたほどです。夏場は毎日100人くらいの宿泊登山客を世話、毎晩カレーをつくっていました。

──留年してまで山にいくのは覚悟が要りますね。

片山 別に覚悟していったわけではなくて、横着で怠惰な人間の流儀です。好きな分野の勉強だけできればいいのですが、つまらない科目もやらなきゃならない。それならば、しばらく穂高岳を眺めていたほうが良いのかもしれない。蝶ケ岳は、穂高を眺めるには最高の山です。毎日「晴れた日は夕焼けの穂高」の気分でした。

──人間が煩わしくなったのですか?

片山 そういうわけではなかったですね。わりに呑気なところがありますから、けっこうぼんやりとした気持ちでした。それに、あんまり人間嫌いだと、人類学の道に進もうなんてことにはならなかったでしょう、たぶん(笑)。

 2回目の3回生のときには、夏休みだけですが、営林署(現在の森林管理署)のアルバイトもやりました。北アルプスを歩き回り、高山植物を摘んだり、昆虫を獲ったりする人に注意をする監視員の仕事です。

 実は、この年に遭難騒ぎを起こしたんです。10月頃に前穂の東壁に友人と二人でザイル(登山用のロープ)を結んで登攀していたのですが、猛烈な低気圧が大嵐を連れてやってきた。あっという間もなく吹雪のなかで動けなくなりました。一泊ビバークして翌朝、一か八かで奥又の谷をトラバースしてなんとか下山できました。幸いにして実害はなかったのですが、一つ間違えれば、命を落としたかもしれません。その時から登山は自粛して、やがては登りたい気持ちも失せていきました。

奄美学を語る日々

──無事で何よりでしたね。片山さんのご専門であるポリネシアや古人骨へのご関心はすでに芽生えていたのでしょうか?

片山 学部学生の頃は、ポリネシアについても古人骨についても、なにも知りませんでした。いつかポリネシアに行ってみたい程度の淡い関心はあったにせよ、強く意識することはなかったんです。

 農林生物学科では昆虫学研究室に分属しました。ミナミアオカメムシという天使のように美しいが、稲穂の害虫昆虫であるカメムシの体色の遺伝をテーマに卒業研究をしました。和歌山と高知に採集に出かけ、2年近く研究室で飼育・交雑実験を重ねました。楽しい実験でしたが、残念ながら最終的に論文にまとめることが叶いませんでした。

 そして、京大でも1969年1月に大学闘争が勃発します。翌年には収まりましたが、大学が焼け野原みたいになった。もう昆虫学の時代ではなさそうだし、さてどうしようかと途方に暮れましたね。

 この頃に上賀茂の下宿の先輩であり、人類学の先輩筋にあたる掛谷誠さん(生態人類学)のフィールド、鹿児島県トカラ列島にくっついていくことになったんです。彼は、今西先生が初代教授だった理学研究科の自然人類学教室に在籍されていました。偶然ですが、このときに奄美大島名瀬で住処を使わせてくれるという方に出会ったんですね。せっかくの機会なので、家庭教師をしながら名瀬に居つくことになりました。途中下車ですね。

 そうこうして一年近く過ごすうちに、すっかり気分は我流の人類学者の卵もどきになっていました。奄美の島人たちとの交流も刺激的でした。当時、名瀬図書館館長をしていた作家の島尾敏雄氏、ケーキ屋で詩人の進一男氏、鹿児島大学熱帯医学研究所の諸氏たちと、奄美学を語る日々でした。私にすれば「海の世界に戻ってきた」──。そんな気分でしたね。いつか向かうべきポリネシアの島々での人類学調査に大きな足掛かりとなった日々だったと思います。

 奄美から帰り、大学院理学研究科の入学試問を受験します。大学院農学研究科には3年いたが、結局なにもせずに中退、店仕舞いです。この頃から、いつの日かにポリネシアに出かけることを本気で考えるようになりました。古人骨の研究活動のことは、頭の片隅にもなかったですね。

母の死

──海や島のほうが肌に合ったのかもしれませんね。

片山 おふくろが亡くなったのは、この頃のことでした。広島大学医学部病院──高校時代に私が過ごした寮は同じ構内にありました──に入院することになりました。突然のことでしたが、どうも脳腫瘍らしいです。

 連絡を受け、久しぶりに夏休みを能美島で過ごしました。秋になり、理学研究科の院入試を受けるために、1週間ほど京都に戻りましたが、その間に、おふくろの容態が急激に悪化します。最後の面接試験が終わるやいなや、その日のうちに広島へ向かいましたが、間に合わなかった。満年齢で49歳の若さでした。やはり原爆の影響だったようです。

 広島では火葬せず、宇品港から小さな伝馬船(10人乗り程度の小舟)に遺体を乗せ、能美島に連れて帰りました。その小さな船で広島湾や小さな島々の近くを通るときは、なんとも言えない寂しい気持ちでした。

人類学者には飲兵衛が多い

──自然人類学教室ではどのような研究をされたのですか?

片山 自然人類学の修士課程では、奄美大島やトカラ列島での経験に延長線を引くつもりで、沖縄八重山諸島の島々で暮らす人々を相手に集団構造のことを調べました。あのあたりの島々は広い海域に散らばるが、各島の人たちの顔立ちや身体形には島ごとに、あるいは集落ごとに、特有の特徴があるんです。独特の多様性が認められるわけです。島人たちも、そんな多様性を認識しています。

 これは何だろう。そんな疑問から出発して、定点観測の島で通婚圏の調査、聞き取り調査などをしながら、先行研究にあたりました。要するに、島ごとの通婚圏の向きや強さ、拡がりを定量化しようというわけです。

 人々はわけもなく、ぐちゃぐちゃに結婚するわけではない。それぞれの島にそれぞれの歴史があり特色があって、結びつきが強い島とそうでない島とがあります。たとえば、親と子の関係にあるような島と島、兄弟みたいな島と島など、関係性があるわけです。それを集団の構造性と呼びます。だから、生体計測値や赤血球血液型の頻度などで、島々の構造性が数値化して、島々の歴史的関係が推定できるのです。

──誰と誰が婚姻関係にあるのかは、島の人に聞いて回るのでしょうか?

片山 除籍簿調査と「聞き込み」調査ですね。その当時は役場で除籍簿を見せてもらえました。今はできません。それを見ると、出生地と死亡地、両親と兄妹、配偶者、親子などがわかります。それをもとに、夜な夜な、ものしりの島人と泡盛を飲みながら話を聞くわけですわ。それが人類学のフィールドワーカーの大事な仕事です。だから、人類学者には飲兵衛が多いんですわ(笑)。

 大学院時代には、日本での集団遺伝学の旗頭の一人である野澤謙先生(京都大学・霊長類研究所教授)のゼミ生にもしていただきました。隔週ごとに霊長類研究所のある愛知県犬山通いです。修士論文は、八重山諸島の集団構造をテーマにしました。博士論文では、沖縄編を発展させて、三重県の伊勢湾のあたりの島々の集団構造を研究テーマにしました。その頃は、人類遺伝学者の豊増さんの研究指導も仰ぎながら、多数の血液型遺伝子のデータを集積して、伊勢湾の島々の集団構造に関する研究を進めました。

 こうして博士論文が完成しましたが、うまく簡潔に説明するのが難儀なので、あまり話題にしないことにしています。どうやら吾が身に似合わぬ難しいことをやろうとして、ドツボにハマったような気がしてならないからです。人類学の研究活動などは、初めからあまりキツイ、しんどいテーマは選ばず、身の丈以上に気張るな、ということでしょう。

 ちなみに、豊増翼さんのお父さんは、大ピアニストの豊増昇さんです。小澤征爾さんに指揮者となるよう勧めたのが、昇さんだそうです。そのあたりのことは、小澤さんが執筆された『ピアノの巨人 豊増昇』に詳しく書かれています。翼さんとは、私が初めて勤めた大阪医科大学で5年間一緒でした。その後、東京に帰られたんですが、53歳の若さでお亡くなりになりました。

人体解剖の仕事はキツかった

──1974年に大阪医科大学に助手として採用されます。

片山 法医学教室では人体解剖も重要な業務です。しかも、特に生々しい解剖や人骨の専門家も必要なわけです。私は自然人類学の出ですから、人骨のことをいっぱい勉強してきたのだろうと勘違い採用されたのかもしれません(笑)。実際のところは、法医学教室に入ってからドロ縄式に勉強していった感じです。

 今の日本では医大や医学部でさえも、人体解剖学の教育、研究の時間がずいぶん減っているようですが、当時は医学系教育機関では、解剖学や骨学などを修めた人間へのニーズが十分にありました。自然人類学教室からも、何人もの者が解剖学や法医学に職を得ていました。だから就職には、そんなに苦労しなかったと思います。多くの人類学徒が解剖学や法医学経由で世間に出ることになりました。食い扶持を得るにも、研究者としての足腰、腕力、視力を底上げするためにも良いシステムだったように思います。

 ただ、人体解剖の仕事はキツかったですね。特に法医解剖はキツかった。とにかく生々しすぎるわ、ひどく臭うわ、それに時には「切った張った」の御遺体ですからね。解剖のメスを執るのは医師の先生が多かったから、シュライバー──筆記やメモ取り──を勤めることが多かった。それでも最初は、やはり御遺体が怖かった。1年ぐらい経つと段々と慣れていきましたが、それでもあまり好きじゃなかったですね。

 なぜ後に骨のほうに行ったのかと言えば、血や肉のナマモノよりも骨のほう、カタモノのほうが好みだった、嫌いではなかったからです。骨のなかでも、新しそうなものよりも古そうな骨ほど好きでした。

 だから、考古学の遺跡で出る古人骨が専門の唯骨論者のごとき人類学者に行き着いたのかと思います。

初めてのポリネシア

──ポリネシアについてお伺いしていきます。最初に行かれたときはどんな経路で行かれたのですか?

片山 まずはニューカレドニアに飛び、そこからタヒチに向かい、2カ月くらい滞在しました。それからフランス軍の軍艦や飛行機に乗せてもらい、フランスの核実験場があるツアモツ諸島のムルロア環礁の隣にあるアトール(Atoll:環礁島)、レアオ島(あるいはアトール)に行きました。太平洋は地球の全表面積の約5分の1を占めるから、成田空港からレアオ島までは、地球を半周するくらいの距離になります。えらい遠いところです。そこに4、5カ月滞在しました。

 環礁、あるいは環礁島は、大きな古い島が沈んでいき、ネックレスの真珠を散りばめたように小さな無数の島々が島の周囲に残っているところです。海に沈みこむ直前の島の姿であり、何百年か何千年か後には海中に没します。内海(ラグーン)はこの世のものとは思えないくらい美しくて、海産資源が豊富です。ただし、水がない、暑い、狭い、土地が少ない。人間の住処としては、たいへんなところです。

 最初に訪れたときの調査は、「太平洋の島々におけるポリネシア人の移住に関する研究」のテーマで助成を受けた文部省の科学研究費助成事業でした。隊長は『南太平洋の環礁にて』の著者である畑中幸子さん(当時、金沢大学教授、中部大学名誉教授)、日本の文化人類学の草分けの一人とも言える人です。

 私は古い石棺群の発掘調査、出てきた古人骨の調査、古人口学の調査などを担当しました。石棺内には、古いもので600年から1000年くらい前の人骨が残っていましたが、日本に持ち帰れないから島で調べます。調査を終えると、また石棺にそのまま納めておきます。19世紀半ばから百年ほどの出生数、出生率、死亡数、死亡率などの推移、人口動態、寿命などに関する非常に重要な一次資料となりました。

クジラの脊椎骨が横たわっている(ポリネシアのチャタム諸島で=片山一道氏撮影)

天国とは真逆のような場所

──憧れだったポリネシアを訪れたご感想は?

片山 天国のような、その一方で天国の真逆にあるような、想像を超越した型破りの場所でした。最初に行ったレアオ島は、普通サイズの典型的なタイプの環礁島です。ともかく暑くて水がない。それに、これもないあれもない物ばかり。動植物も景観もなにもかも、ないものだらけの島でした。

 それから、いちばん難儀に思ったのが海の汚染ですね。これには驚きと恐れを覚えました。冒頭で話したように、1965年から40年以上にわたり核実験が続けられたムルロア環礁の隣ですからね。人口が200人ぐらいの島ですが、白血病の人の割合が異常に高いんです。滞在中にもこの病で2名が死亡しました。

 特に気になったのは、犬の様子です。人間の数よりも犬の数のほうが多いのですが、大人の犬の多くが腰フラなのです。現地の言葉でタエロと呼ばれていました。「酔っぱらいの腰フラ」という意味です。核実験の影響の恐ろしさですね。彼らの食事は、核廃棄物が蓄積した外海の海産物、つまりは被爆症なのです。それに彼らは島の清掃担当。いわば健康のバロメーターが被爆症なのです。恐ろしさを絵に描いたがごとき存在です。

ポリネシア人の身体の不思議

──南太平洋の楽園ではないのですね。研究調査で、ポリネシア人にはどのような特徴があることがわかったのですか? トンガやフィジーの人たちは大きくて屈強な印象があります。

片山 ポリネシア人の身体はとてもユニークです。子どもは別ですが、女性も男性も次のような特徴があります。①高身長で筋骨隆々、胴長短脚ぎみの巨人が多い。②手と足、下顎、外耳などの身体の突出部が過大。成人性の肥満傾向が著しい。④アジア人的な特徴が珍しくない。⑤生活習慣性の新世界症候群が目立つ。あるいは「過成長タイプの巨人の人たち」であることです。それから、強く日焼けした人ばかりで、太り気味の人が圧倒的に多くて、骨皮スジ衛門はいません。だから、誰もが屈強そうで見栄えがします。

 これらの特徴はオセアニアの特異な生活環境で培ってきた歴史的産物です。アイランド・エフェクト(島効果)現象と呼びますが、一般に島に住んでいると、動物、特に哺乳類は、だんだん身体が小柄になっていきます。また、狭い範囲での通婚が多いと、小柄になります。ところが、ポリネシア人の場合は、そうした島嶼での法則性の外側にいるようです。広い範囲で通婚しているわけではないのに、高身長を維持し、なお大柄な身体に向かう傾向さえ認められる。

 ポリネシア人は不思議な人々です。彼ら彼女らの身体についても、不思議なことだらけです。彼らのことを話すときは、画家のP・ゴーギャンがタヒチやマルケサス諸島で描いた人物画、もしくはラグビーの日本代表チームの選手たちの写真を見せながら話をするとわかりやすいと思います。前者はタヒチ周辺の人々のことを、後者はトンガの人々のことを、より効果的に理解してもらえるでしょう。

 彼らは本当に大きいですよ。特に手足が大きくて、小学生でも高学年の男子は、足のサイズが26センチほどにもなります。

いくつかの仮説

──なぜ身体が大きいのでしょうか。

片山 実のところ、まだよくわからないんです。いくつかの仮説が提案されているが、いまのところどれもこれも、帯に短し襷に長しの感が否めません。私たちも、広くポリネシアの人たちの骨学データや生体計測データを集めました。いくつかのことが、ことに成長学の方面から説明できるようになってきました。彼らの成長の仕方は特徴的です。他の世界の人々と違って、一人ひとりの成長期間が少しだけ長いんですね。大抵の日本人は、18歳になったらもう、身長は伸びませんよね。下肢骨の伸長が止まるからです。スポーツをやっている人ならば20歳くらいまで伸びることもありますが、せいぜいその程度です。骨のなかで最後に完成するのは鎖骨です。他の骨の成長が止まっても、25歳ほどまで成長を続けます。

 ところが、ポリネシアの人たちは25、6歳くらいまで成長が続き、背が伸びる。これは、アントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんらのようなギガンティズム(Gigantism:巨人型体形)やアクロメガリー(Acromegaly: 先端肥大体形)などと同じように、おそくまで成長が続くからではないか、と考えられます。でも、なぜそうなったのか。その理由については、いくつかの仮説があります。

 アメリカのJ・ニール先生は、「節約遺伝子型仮説」なるものを提唱し、ポリネシア人の大柄で筋骨隆々の体形、いわゆるヘラクレス体形の成因を説明しようとしました。つまり、生活環境への適応の結果、彼らは食べ物を無駄なく消化、吸収、蓄積し、利用できるような遺伝的な仕組みを備えているのではないか、というわけです。実際には、ポリネシア人にかぎらず、人間は誰も、食物の栄養分を完全に摂取・吸収・利用できるわけではなく、食べ物の栄養分のほとんどは摂取できず、出してしまいます。

 ところがポリネシア人の場合、厳しい環境のなか、つつましい飢餓的な状況で生きてきたことの裏返しで、そんな仕組みが備わったのではないか、と考えられるわけです。興味ある仮説です。ちなみに現代では、西欧流の栄養分過多の食事が仇となり、肥満すぎる体形に悩む人が多くなっています。都会に住むポリネシアの人たちは、特にその傾向がある。食物の摂取効率が良すぎることの傍証かもしれません。

ポリネシアはラグビーの名選手の宝庫

──ポリネシア人は優れたラグビー選手を数多く輩出していますね。

片山 サモアやトンガ、フィジー出身の選手は、あちこちの国でラグビーの代表選手に選ばれています。日本代表も8人くらいは、ポリネシア系の選手が占めています。ポリネシア人の人口は世界全体で200万人程度にすぎないことを考えると、あちこちの国の代表に選ばれるラグビー選手の割合は驚異的です。

 私も1980年代にポリネシアに調査に行っていた頃は、よく現地の子どもたちとラグビーボールで遊んでいました。いま思い出すと、なんと恐ろしいことをしていたもんやなあ、と感懐ひとしおです。子どもと言っても、ものすごい身体能力の子もいたから、下手をすると大怪我をしたりする可能性もあったわけですからね。

 ラグビー・ゲームは、英国から19世紀の終わりにポリネシアに持ちこまれて、すぐに定着したみたいです。当時のポリネシアの島々では、そこかしこに小さな部族が乱立していて、争いが絶えない状況にありました。そんな緊張感のある社会ではラグビーは、疑似的な戦闘行為の役割を果たし、ずいぶん重宝されたようです。沸騰しやすいポリネシアの人たちの闘争心を冷ます役割を果たしたのではないでしょうか。

読書する「骨屋」の像(オーストラリア国立博物館で=片山一道氏撮影)。
「一人の人間の骨格。それは、その人が過ごした人生の縮図のようなもの」ーー。

藤ノ木古墳の埋葬者は?

──古い時代の人間に関心を広げていった経緯は?

片山 日本の考古学の遺跡で見つかる古人骨の研究に積極的に関わるようになったのは、奈良県斑鳩の藤ノ木古墳人骨調査に関わるようになってからです。ちょうど師匠である池田次郎先生が定年で退職された1988年頃からです。池田先生のお手伝いをしたことがきっかけで、日本の古人骨の鑑定依頼も引き継いでいったんです。

──6世紀にできたとされる藤ノ木古墳に同時に埋葬された二人の被葬者の性別をめぐって論争が繰り広げられました。池田さん、片山さんはどちらも男性であろうとの鑑定結果を出されていますね。

片山 二人がともに男性だと判定する根拠は、骨の大きさ、かたち、造りなどに関わる骨の形態学的知見からです。骨そのものの検査に基づくわけです。身体の大柄な女性もいるから、かならずしも男性同士と決めつけることはできないはずだ、という主張もあります。けれども私どもは大きさだけからではなくて、骨の形状、構造、大きさからトータルに見て、男性と男性としか考えられないと報告しています。

 人間の骨の形態について勉強をしたことがある者ならば、新しい骨であれば比較的容易に性差を見極めることができるんです。昔、大学院生たちに100人分の人骨について性判別テストをしてもらったことがあります。そのうち96体分くらいは、腰骨と下肢骨だけで、ほとんど性判別に迷うことはありません。ただ4体分ほどは見分けが付きにくいものがありました。生きている人についても、案外そんなものではないでしょうか。髪形と服装などをそろえれば、96人ほどは男女を正しく言い当てることができよう、と思います。

骨自体が語っている

──骨の形状から区別できるわけですね。

片山 藤ノ木古墳の石棺内に発見された二人分の人骨の場合、片方はあまり良く骨が残っていなかったのですが、そちらも、大きな金銅の靴の下にあったがために足首より下の骨は、ほぼ完璧な状態で残っていました。踵骨(かかと骨)と距骨(あしくび骨)と中足骨(足の甲の骨)などです。これらの骨は、その形状に性差が表れやすい特徴があります。もちろん断定的には申せませんが、相当に大きい確率で男性である可能性が高いだろう、そんな言い方はできます。骨自体がそう語っているわけです。

 私たちは「生物学的性(セックス)」の問題として、藤ノ木古墳に遺骨を残す人たちの性を考えるわけですが、考古学の人たちは、身に付ける物の文化的な背景からの「文化的性(ジェンダー)」を考えます。つまりは、玉を身に付けているからとか、こういう靴を履いているからとか、そんな理由で男か女かを判断しようとしますが、私にはなんだかキツネにつままれたような気分がしたものです。

 それから日本の古墳は、たぶんお墓ですからね。造ったときから、誰それ、誰と誰、男の人と女の人を一緒に埋葬しようとは想定していなかったかもしれない。藤ノ木古墳の場合、お二人の被葬者は、お二人とも、若い年頃でみまかったようです。あるいは、そのうちの一人を埋葬するためにつくった古墳かもしれませんが、もう一人のほうはなんらかの事情で、急場しのぎで一緒に埋葬されたのかもしれません。なにしろ同時埋葬だから、二人の若い被葬者たちは同時に亡くなったとか、そんな事情さえ想定できます。

 それはともかく、男の人同士や女の人同士で合葬された例は、日本の古墳時代には他にも少なからずあったようです。

──ペアだからと言って、男女であるとはかぎらないわけですね。

片山 イタリアのポンペイ遺跡は、約2000年前の西暦79年に、近くのヴェスビオ火山の大噴火により埋没した港湾都市にして別荘都市であったポンペイの悲劇を記録する大遺跡です。京都の古代学研究所が2002年に発掘した二人分の人骨の鑑定を依頼されました。2004年に現地に赴き、たっぷり時間をかけて詳細に調査しました。ポンペイにある古代学研究所のラボで二人分の人骨と向き合う日々を過ごすことになりました。

 一方の人骨の両足首の骨には、鉄の足枷が嵌められていました。それゆえに発掘現場では、それを若い男性の骨と考えた模様です。他方の人骨は、女性に特有の装飾品を身に着けていたとの理由で、その男性の女主人と考えたようです。新聞はすぐに「女主人と奴隷男の骨が見つかる!」とか「少女と奴隷の男性の骨」などと報道したそうです。

 ところが、この二人の骨格を一目見て、すぐに男性と男性の骨格だと判りました。骨の残存状態が抜群に良く、骨盤や下肢骨などはモロに残り、どちらも男性のなかの男性然としており、性別を間違えようがないような人骨資料でした。

 世界中の人が「ロミオとジュリエット話」が大好きなようです。ともかく二人分の骨が見つかれば、それは男と女であると決め付けがちですよね。そこに男女のロマンスを見てしまうわけです。

新方遺跡13人衆

──片山さんは弥生時代の新しい見方を提唱されています。弥生時代の人々(弥生人)は、どんな外見、顔立ち、体形、身体特徴の人たちだったのでしょうか?

片山 私が弥生時代の人々の顔立ちや体形に関心を抱くようになったのは、1997年に神戸市の新方遺跡から出土した弥生時代人骨の鑑定依頼を引き受けたのがきっかけでした。この遺跡からは、合計13人分の人骨が出土したので、私自身はひそかに「新方遺跡13人衆」と呼んでいます。驚いたことに、彼らはむしろ縄文人的な身体特徴を強く有しているんです。一般には、縄文人と弥生人の違いが強調されがちで、「最初に縄文人がいて、そこに弥生時代、すなわち渡来人が来て、両者が混交して日本人が生まれた」と。皆さんそんなストーリーがお好きなわけです。

 私自身は、鼻骨と下顎骨の形態バランス(鼻骨と下顎骨の法則)、歯のサイズ、抜歯形式、背の高さ、骨の厚さと頑丈さ、などなどから縄文人を特徴づけています。それに照らすと、この13人衆は縄文人の範疇に入るのではないか、との印象でした。ともかく、弥生人骨の資料よりも縄文人骨の資料のほうに、はるかによく似ているんです。

 一般に弥生人は渡来人であり、背が高いと言われてきました。弥生時代の遺跡や弥生人の人骨は、かならずしも多くはなく、北部九州の遺跡群や山口県土井ヶ浜遺跡から出土した膨大な量の人骨資料が、弥生人の典型とされてきました。けれども、弥生時代の人々、あるいは弥生人については、そんなに話は単純ではないんです。同じ北部九州でも佐賀県大友遺跡と福岡県新町遺跡では、朝鮮半島から伝来した支石墓に眠る人骨が何人分か発見されています。どちらも鼻骨と下顎骨の特徴的な風貌や、抜歯形式などの点において、縄文人との共通点が認められるんです。縄文人似の弥生人なんですね。

弥生人さまざま論

──縄文人と弥生人を明確に区別することは難しい。

片山 だから実態はどうも、「弥生人は一様ではなく、さまざま」なんです。堅苦しい論文にしたわけではないですが、これが「弥生人さまざま論」の骨子です。私は、縄文時代から弥生時代へかけての日本の歴史の流れを次のような六つのステップでイメージしています。

 ①縄文時代の終末期、大陸方面から、文化文物(金属器など)や生活様式(水田稲作農耕など)の新たな生活のアイデアが伝来する。それらにアクセスできた縄文人たちは積極的に取り入れた。この時期は気候の寒冷化などもあり、それらを取り入れる必要性が生じていたのかもしれません。

 ②弥生時代中期の頃には船が発達し、朝鮮海峡と対馬海峡の海峡地帯に「海の道」ができて、渡来人が少なからずくるようになります。北部九州から日本海沿岸域にかけての一帯に定着し、その地域の縄文人と混合したのが、渡来系「弥生人」だと考えています。

 ③両者の混合の波は、瀬戸内海や日本海沿いに伸びた「海の道」経由で近畿地方あたりまで波及しただろうが、生活文化が変革したほどには強くなく、北部九州や日本海沿岸以外では、むしろ縄文系「弥生人」のほうが主流だったのではないか。

 ④渡来系「弥生人」の移動や混血が目立つほどでなくとも、生活の総体が大いに変わったのだから、人々の身体特徴は次第に変容した。戦後の日本人に起こったのと同様な現象が生起したわけです。

 ⑤同時に生産力が向上したなどの理由で出生率が高くなり、離乳食の改良などで幼児死亡率が低下したために人口が増大していった。

 ⑥こうした一連の出来事が連鎖し複合したことの成りゆき、著しく人口が増加、弥生時代の初めと終わりとで比べると、人々の顔立ちや体型が違うという現象が生じたのではないか。

縄文人顔、弥生人顔はない?

──新しい文化と生活様式が入ってきたことが、当時の日本人の顔立ちや体型を変えた要因となったわけですね。

片山 そう考えています。よく、縄文人は彫りが深く、二重瞼、眉や髭が濃かった。それに対して、弥生人はのっぺりと顔が長く、眼が細く、一重瞼だった、などと言われたりしますよね。

──縄文顔と弥生顔ですね。今でもよく聞きます。

片山 ひと昔前までは博物館などでも、その手の展示や、そういう説明が多々ありました。けれども実際は、人骨からは顔立ちや背格好などは推測できますが、髪の毛や髭が多いのか少ないのか、一重瞼か二重瞼か、耳たぶが福耳か否か、皮膚の色などがどうのこうのとか、そんなことはわかりません。そこは誤解しないようにしてほしいですね。

 2000年に英国のダーラム大学で開催された「東アジア考古学国際会議」に招待される機会がありました。その時に「日本列島の弥生時代人、身体特徴さまざま論」なるレクチャーをしました。ディスカッションが盛り上がり、たいへん嬉しかったですね。

 身長や体形や頭形などについても「なんとか人的だ」とか、「なんとか人系だ」といったはっきりとした物言いは慎むべきなのです。私自身、日本の各時代の古人骨を調べることで、日本人の身長、体形、顔立ち、頭形、脚長などの変遷、平均的な変わり方のパターンを追っています。実は身長について、日本人の歴史で一番に背が低かったのは、江戸時代から明治あたりの頃なんです。私が生まれた頃の直前あたりまで、その傾向が続いていました。

 今の日本人からすれば信じられないでしょうが、江戸時代から明治時代の前半の頃は、成人男性の平均身長は155センチほどだったのです。まあ平均身長ですから、たんなる目安にはすぎませんが、縄文時代人のそれは158センチくらいだったようですから、さらに低いんです。だから、時代劇なんかで180センチを超えるスラリとした身長の現代人役者が刀を振り回す姿は、かなり違和感をおぼえる光景なのです。

通婚圏が狭いと人の平均身長は小さくなる

──なぜ江戸時代の人たちは小さかったのでしょうか?

片山 どうして時代とともに平均身長などが変化するのかと言えば、一つには生活習慣の変化と関係します。戦後の日本人は食生活や文化様式が変わったことで、だいぶ身体つきが変わりました。ことに身長は、かつての日本人よりも格段に高くなった。

 それから通婚圏の変化です。江戸から明治にかけての時代は、通婚圏がとても狭く小さかったんです。それぞれの藩のなかで世界が完結していて、人の自由な行き来が制限されていました。農村部の通婚圏は村単位か、広くても郡ぐらいでした。東京の人と九州の人が一緒になることなどまずなかった。そういう時代が長く何代も続いたために、江戸時代の人たちの平均身長は、他の時代よりも低くなっていったわけです。

 戦後の日本人は、背の高さだけでなく、顔が小さく、顔立ちが変わり、脚が長くなってきました。ともかく平均的な日本人像は、時代によってずいぶん変化したのです。

人間は「ホモ・モビリタス」

──若い研究者に向けてご提言はありますか?

片山 もっと古人骨の研究をやってほしいと思いますね。ただ残念なことに、今の日本ではこうした「積み重ね型の学問分野」では若い人を育て養うことが難しくなっています。体温のある人間の歴史を実感するのにいちばんなのですが……

 基本的に日本の歴史学は、人間の歴史ではなく、文化の歴史ではないでしょうか。それに対して「非文化の人類学」は、いかがでしょうか。「文化の軛を外した人類学、あるいは歴史人類学」などの言いかたです。人間自体の、あるいは人間の身体の歴史は、さっぱりわからんことになっているじゃないですか。だから、もう少し人間の顔立ちや身体形の歴史なんかがわかったならば、おもしろいと思うんです。

 あるときまで、聖徳太子や織田信長の絵が教科書に載っていましたが、あれなどは嘘を絵に描いたような代物です。特に信長の顔は、鼻が大きいことはともかく、口がえらく小さく描かれていて、まったく人間の顔とは思えません。あれが描かれた時代に流行った芸術なんでしょう、たぶん。歴史学が歴史科学であろうとするのであれば、ああいう絵を何の断りなしに使ってはならないですよ。皆さん、すぐに信じますからね。

──地球儀で見るとポリネシアは大陸からは遠く離れています。よく人類はそこまで到達したものだと感心します。

片山 1990年ぐらいまでは、ニュージーランドやトンガの首都ヌクアロファからポリネシアの島々に渡るときは、世界全体と、しばしの別れをするようでした。舟が出ると、あるいは小型機が離れると、それまで過ごしていた世界と連絡する手段がいっさいなくなりました。

 ポリネシアでは、ニュースなどの情報も発信されていませんでした。唯一それぞれの国のラジオが朝と夕方、「どこそこの◯◯さんが亡くなりました」の訃報や、誰それさんが結婚したとか、と放送するだけでした。今でこそ、どこでも電話もネットも通じますから、地球上によそと隔絶された地域はなくなりました。

 人間はホモ・サピエンスです。これは「知恵のある動物なり」という意味ですが、私自身は「ホモ・モビリタス」という言葉を使っています。「動きまわる動物なり」という意味です。「行ったことのない、新しい土地に行ってみたい」が、人間のいちばんの欲求かもしれません。私も対馬に行き朝鮮半島が見えたとき「行ってみたいな」と感じました。そして、しばらくして実際に韓国に行きました。感動しましたね。

 ポリネシアの島々はそれぞれ遠く離れているように見えますが、昔から、けっこう人間は行き来してきました。赤道あたりは、風があまり吹かないので、移動することは難しいのですが、それ以外の地域には「海の道」や「海の回廊」がいたるところにあったようです。西欧人が来るまでのポリネシアは、なお石器時代だったのですが、何百年か前には、イースター島あたりからアメリカ大陸に渡ったポリネシア人のグループがいたかもしれません。

 ハワイ諸島から、アメリカの西海岸まで荒海を越えたポリネシア人がいたかもしれません。ともかく人間は「ホモ・モビリタス」、地球上を動きまわる動物なのです。ポリネシア人などは、石器時代の遠洋航海者でもあったのです。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一

ご経歴
かたやま かずみち:1945年広島県生まれ。69年京都大学農学部農林生物学科卒業。74年同大学院理学研究科動物学専攻博士課程満期退学。大阪医科大学助手、大分医科大学講師、京都大学理学部助教授、同大学霊長類研究所教授、同大学理学研究科教授を歴任。専門は自然人類学、骨考古学、オセアニア学。著書に『身体が語る人間の歴史: 人類学の冒険』『骨が語る日本人の歴史』『ポリネシア海道記 不思議をめぐる人類学の旅』など。

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