『公研』2017年7月号「interview」

糸谷 哲郎・将棋棋士   ※段位や経歴等は掲載当時のものです。

大阪大学大学院で哲学を学んだ異色の棋士がいる。

将棋はどのようにして強くなるのだろうか?

哲学と将棋はどのように関連しているのだろうか? 頭のなかを覗いてみる。

棋譜を「眺める」

──この春に大阪大学大学院の文学研究科を修了されましたが、一日のうちで将棋に割く時間は増えましたか。

糸谷 あまり変わらないですね。さすがに最後の学期は研究に追われましたが、大学院時代も休学したりして、将棋に時間を割かれることが多かったんです。ただ、私は四六時中将棋のことばかりを考えている「将棋の虫」タイプではないですね。読書や将棋以外のことを思考する時間も大切にしています。一つのことに時間をひたすら掛けるよりも効率的であることを重視しています。

──よく「棋譜を読んで勉強する」と言われますが、どのような作業なのでしょうか。

糸谷 棋譜には一枚の紙に将棋の指し手が順番に記録されています。棋士はそれを見て脳内に盤を作って、対局を頭の中で再生することがある程度できるわけです。最近では棋譜のデータベースというものがネット上にあって、パソコンやスマホの端末などで対戦を映像として観ることができるんです。だから今は棋譜を「読む」というよりも、「眺める」と言うほうが正確かもしれません。対局を眺めるのが、将棋の勉強の基本作業の一つになっています。もちろん眺めるだけでは意味がなくて、眺めてどのように思考するのかが重要です。

 私の師匠(森信雄氏)の時代だと、将棋は身体で覚えると言われていたようです。棋譜に記された状況を短時間で盤上に駒を並べて、実際に手を動かすことで、その局面において指すべき手を身体に染み付かせる。人間の行動は、手を動かすことによってより記憶力が増すという側面があります。身体に染み付かせると、自分が同じような局面に遭遇した時に自然と手が動くようになると言われていたわけです。

 それがコンピューターの発達により、眺めるということになった。盤上で駒を動かすよりもコンピューターの操作だったり、スマホの画面をタップする作業に変わっていきました。スマホのタップは実際に駒を指すことに近いものがあるんですが、手を使って動かすこと自体より、目で観て脳で考えることに重きを置くようになってきています。

──棋譜を眺めながらどのように思考しているのでしょうか? これを説明するのは難しいとは思いますが。

糸谷 その棋譜から、局面にどのような変化が生じるのかを考えることに意義があります。そこで出した結論が重要なのではなく、考えたこと自体がトレーニングになるんですね。ですから、思考の筋道を立てることと、どういうことがその棋譜から導き出せたのかが大事なんです。と言うのも、実戦では同じ局面と言うのはほとんど出ないんです。数学の方程式をイメージしていただければ、わかりやすいかと思います。数学の問題には、複数の解法があり得ますが、答えには結びつかない解き方でいくら考えても正解は出ません。将棋の場合も、解法の取捨選択が求められます。その局面では、どの解法が有効なのかを見極める力を付けることが大事です。方程式と同じように、ある局面を間違った解法でずっと考えていたとしても、それでは正しい答えを出すことはできない。

──やはり、長い時間考えたほうが正しい解法に辿りつけることが多いのでしょうか?

糸谷 ちょっと複雑な話ですが、思考というのは思考すること自体が自らの思考の方向性を決定付けるような性質を持つと私は考えています。つまり、普段から長々と思考する方は、自然と長々と思考する状態に引きずられ易くなる。将棋には、持ち時間という制限がありますから常に長考しているわけにはいきません。ある程度以上の時間も掛けなくてはいけないけれども、時間を掛けすぎるのもよくない。そして、どこかで決断をしなければならない。

 将棋に限らず、決断をする人間がいつまでも迷っているという状態はあんまり良い状態ではないですよね。もちろん長く考えることが必要な場面もあるでしょうが、普段においてはスタッカートのような小気味よい決断が必要とされているところもある。将棋の読みもそれに近いところがあります。「こう指したら、ここまでは大丈夫だな」という見切りを付けながら、ある程度射程範囲を決めて読むわけです。つまり序盤、中盤、終盤のそれぞれにおいて、読みの射程範囲が違うんですね。序盤のほうがちょっと短めで、中終盤になると激しい変化が出て来ますから、すぐに負けに繋がってしまうような変化が出るので、長めの射程を入れて読みます。棋譜を読んであるいは眺めて勉強する時には、自分が実戦においてどの程度読むのかを前提にして考えるべきです。そして、それぞれの局面に対して適切な思考方法がある。私はそういうふうに考えています。

──指し手を思考することは気持ちいいものでしょうか。

糸谷 どうですかね。楽しい時もありますが、苦しい時のほうが多いですね。戦局が非常に悪くて、どうやっても負けだとわかっていながら指し続けている時は苦しいですね。「投了が救いだ」という言い方をされる方もいますが、そうした状況を思考することはとても苦しいことです。羽生善治先生は「溺れるような」と仰っていましたが、そういった感覚に似ているかもしれません。そういう悪い局面を「目のつぶれそうな局面」と言いますが、そこを耐えて粘るからこそ万が一逆転する展開になることもある。だから、くぐり抜けることができた後の気持ち良さはあります。目のつぶれそうな局面のなかでも正解が出れば気持ちいいですが、正解が見当たらない状況の時は苦しいですね。だから、基本は苦しいものだと思っています。

──そもそも何が将棋を強くするのでしょうか。 

糸谷 将棋の強さを決める基準として考えられるのは、まずは先を読む力です。これは皆さんも想像がつくと思います。次に重要なのは、「どこに目を付けるのか」という能力です。つまり局面の見え方ですね。本当はこちらのほうがずっと重要だと私は考えています。

 将棋の手というのは、一局面に選択肢が何十手もあるわけですよね。そのすべてについて「この手。この手。この手」と思考していったら、いくら先を読む力があっても実際はもつわけがありません。ですから、ある局面において、その先の方向性に見当をつけることが求められるんです。純粋な思考力というのは、大体20歳ちょっとでピークに達してその後は次第に衰えて行くとされていますが、このどこに目を付けるかという能力は、その年齢を超えても上昇が続いているんですね。上昇と言うとちょっとヘンなんですが、年齢とは関係なく上がっている可能性があると思っています。先を読むことも目を付けることも落ちてくると、「抜け」が出てきます。抜けというのは、要するに読み落としです。抜けが増えてしまうと、だんだんと勝てなくなってくるのではないかと思っています。

「見えない所」から飛んでくる羽生善治の手

──昨年王座戦では羽生善治さんに挑戦者として挑みましたが敗れています。羽生さんの存在は相変わらず際立っている印象がありますが、どのあたりに強さの秘密があるとお考えですか。

糸谷 7冠を獲られたのは25歳の時ですから、私も全盛期の羽生先生とは対戦していないのだと思います。冠数自体も減らしてきていて、勝率自体も少しずつ落ちてこられています。しかし、それでも未だに際立った強さがあります。羽生先生の強さの特徴は、おそらく初めての局面での感覚の鋭さと思考のレンジにあると思います。羽生先生の思考のレンジは、おそらく他の方よりも広くて、人に見えない手を射程内に納めておられる。羽生先生の手は、よく「見えない所に飛んでくる」と言われますが、特に終盤になると意識をしていなかったところを攻められるような感覚になることがあります。そうした手を「羽生マジック」と呼んでいるわけです。ですから、人が見えていないところが見えているんですね。普通はそのレンジが広いと読む量が増えますから、マイナスに働くことが多いはずなんです。しかし、羽生先生の場合はそうはならない。それをカバーできるだけの思考の量をもっておられるか、もしくは対局相手からは見えないところが見えるのだと思います。

──羽生さんの思考のレンジの広さは、若い頃から備わっていたのでしょうか?

糸谷 羽生先生の若い頃のことはよくわかりませんが、思考のレンジは、獲得していく部分と、ある局面において自覚的に広げる部分とがあるのだと思います。手を広く見ようと思えば、すべての手を検討することは簡単なことですよね。ある局面において、場合の数として「動かせるすべての合法な手を挙げろ」と言われたら、将棋が強い人でも下手な人でも駒の動かし方を知っていれば挙げることができます。けれども、その局面において手番にとって有意義だと思われる、「指さないより指したほうがプラスだと思われるすべての手を挙げろ」と言われたら、これは回答が異なりますよね。おそらくプロの上のほうの人でもだいぶ違ってくると思います。プラスになる手が何手出てくるのか、どこを見ているのか、そして一番指したい手はどれなのかが問題になってきます。この時に、最初に指したいと思える手のことを第一観あるいは直感とか言っていますが、羽生先生の場合はこの一番指したい手の次に来る第2群がおそらく普通の棋士よりもちょっと多い。もちろん、第1群を深く読む力にも長けておられますが、この第2群から出てくるであろう手が「見えない所」から飛んでくるような印象を相手に与えていると思います。

──ご自身の将棋の持ち味をどのように考えていますか。

糸谷 私は早指しで、持ち時間を終盤に多めに残すことに特徴があると思っています。将棋は持ち時間を使い切ってしまうと、そこから先は一分以内に指さなければなりません。「一分将棋」と呼ぶんですが、私は一分将棋が好きじゃないんですね。どうしても、ミスが増えることになります。だから、なるべく序・中盤では早指しをして、終盤に時間を残すようにしています。序盤、中盤でのミスは取り返せることも多いですが、終盤の一つのミスはそのまま負けにつながる大きなミスになってしまう。伝統的には満遍なく時間を配分して、持ち時間を使い切るほうが正しいとされているんですが、私はその立場には与しておりません。余るようなことがあっても終盤になるべく持ち時間を残そうと考えます。そうした意味で、私は効率主義者なのだと思います。理想主義者ではまったくない。理想主義者は時間を満遍なく使い切って、完璧な将棋を指すことを望むわけです。

藤井聡太4段の実力は本物

──14歳でデビューし、29連勝という新記録をつくった藤井聡太さんがたいへんな注目を集めています。彼の実力は本物でしょうか?

糸谷 まだ対局したことはありませんから観ただけですが、非常に強いと思います。序中盤にはまだちょっとアラが見受けられますが、終盤にかけてのセンスは絶品ですね。どこで受けるかという判断がシビアで、勝ち切ることができる。そこを判断するセンスが一級です。藤井さんに対しては、「あの歳にしては」と言うのは失礼かもしれませんが、中学生にしてそのあたりのセンスは磨かれている。このまま成長したら、どこまで成長するのかわからないくらいの棋士だと思いますね。

──データが揃ってくると苦戦するのでは?

糸谷 序中盤のデータが揃って、それが研究されたからといって、それで弱くなるタイプではなさそうですね。中・終盤における集中力が彼の持ち味で、そこに特徴があると思います。

──ライバルとして対局する日のために対策を考えなければなりませんね。

糸谷 彼が上がって来てからですね。具体的に対策を考えることは上がる位置になってからですよ。

──哲学に関してお聞きしていきます。若い頃から哲学にご関心があったのですか?

糸谷 子どもの頃から本の虫で、一日に10冊くらい読むことができました。本を読み進めるにつれて、自然に哲学に興味を持つようになったんです。

──日に10冊はかなりの速読ですね。読書遍歴をお聞かせいただけますか。

糸谷 幼稚園から小学校時代にかけては、昔の推理小説やミステリーが好きでした。コナン・ドイル、エラリー・クィーン、アガサ・クリスティあたりですね。日本の作家だと江戸川乱歩の少年ジブリール版から入って、次第に星新一さん、阿刀田高さんなどを読むようになりました。それから歴史物ですね。司馬遼太郎さん、陳舜臣さん、宮城谷昌光さんなどは、片っ端から読み進めた感じです。小学校の高学年になると、島田荘司さんなどの新本格派のミステリーに夢中になりました。ちょうどその頃に講談社のメフィスト賞が設立されて森博嗣さん、京極夏彦さん、清涼院流水さんなどが登場されて読み耽りましたね。そこから先は過去の名作も全部読もうかという感じになってきて、岩波文庫を夏目漱石から読み進めていきました。

──大学に進学することになると、棋士としての活動に制限が掛かることになります。迷いはありませんでしたか?

糸谷 高校3年生でプロの棋士になりましたが、奨励会に入る時にも師匠には大学に進学すると伝えていました。先輩には東大生もいますし、後輩には京大に進んだ者もいますから、将棋と学業を両立することには寛容な一門でしたね。進むのは哲学科か文学系かどちらかだろうと思っていました。棋士という職業ができましたから、親も大学の進学先は趣味でも構わないだろうとそういうふうに思われたんでしょうね。

──ご研究の対象だったドイツの哲学者ハイデガーですが、面白いですか?

糸谷 面白いですね。私も修士を卒業しただけですから、とても偉そうなことは申せませんが、非常に面白いと思います。ただし、哲学の本を読み物として楽しむのであればニーチェのほうをおすすめしますね。ハイデガーはガチャガチャとした文章なので、一読して面白いと感じられるようなものではなく、読んでどうしてそうなのかを考えないと面白くなって来ないとは思いますね。

『存在と時間』には何が書いてあるのか

──ハイデガーと言えば『存在と時間』です。不躾な質問なのかもしれませんが、この書物には何が書いてあるのでしょうか?

糸谷 これは私の推測や勝手な思い込みも混ざってくると思います。ハイデガーが難解だとされる理由は、すべての言葉を分解して、自分なりの言葉に作り直したところにあるのだと思います。なぜそれが必要だったのかと言えば、これまでの哲学を解体して、新しい哲学を立てようという考え方がハイデガーにはどうしてもあったからだと思うんですね。

 『存在と時間』を考える上でまず重要なのは、「現存在(Dasein)」というキーワードを理解することにあります。現存在というのは、すなわち今を生きる存在者です。ハイデガーの文脈では、それは大体においては人間のことです。人間が人間社会のなかで普段どうしているのか、どのようにして生きているのかを考えているわけです。今そこに生きている存在者というのが人間存在であると。たとえば絵や石などは、今ここを生きてはいません。そういったものは、現在を存在していない。

 それでは、現存在は世界のなかでどのように存在しているのか。ここでの世界というのは、物理的な宇宙ではなくて、その人間が接している世界です。環境世界ですね。ハイデガーは、その人間がその世界のなかでどのように生きているのかをはじめに描写しました。その素描に納得してさらに深く読むことができれば、その人間がどのように動いているのか、その仕組みを考えることができるわけです。ここでの世界にはもうちょっと限定があります。社会などとは完全に隔たった場所で暮らしてきて、言語などを全く知らず過ごしてきた人間などはハイデガーの枠組みの中ではおそらく捉えきることができません。

 そういった意味で、人間の認識というのはその人間が属する社会によって変容する、そういう仕組みになっているのだということを読めることが大きいことなんですね。よく「実存主義」と言われますが──ハイデガー自身はちょっと違う意味で言ったと抗弁することが多いんですが──そうした考え方がなぜ転機だったのかと言うと、人間が生きていることを軸に置いたことが大きいのだと思います。それまでは、哲学においても客観的で合理的な絶対的な真理を追求すべきだという考え方が支配的でした。例えば、ここにある「机」は、人によって見え方がいろいろ違うわけです。私が見た机と他の人が見た机とは違うかもしれないわけですが、やっぱり机自体は存在しています。そうすると、その机自体を探求すればいいのではないかと考えるのがそれまでの哲学ですよね。そうではなく、いま私たちが見ているこの机自体を語ることが重要なんだというのが現象学の考え方なんです。ですから、人間がいて世界があるという発想の転換がここにはあるわけです。

誰もがいろいろな立場から考えることができる社会

──哲学を学ぶことと将棋を指すことはどのようにリンクしてくるのでしょうか。あるいはこの2つは別物として糸谷さんのなかにあるのですか。

糸谷 この質問にはいろいろな答え方をするようにしています。一つの答え方ばかりをしていると、こちらも飽きてきてしまいますからね(笑)。今日の場合は、思考すること自体が自分のすべてに影響を与えているとお答えしたいと思います。つまり、思考すること自体がその思考法を変えることでもあります。また、その思考に刺激を与えたり、活性化することでもある。結局、何かについて思考する以上は、将棋の指し手を考えることにも影響するわけです。ですから、「ハイデガーの哲学について考えることは、将棋を指すこととは関係がない」と言い切ることは難しい。逆に「これとこれは密接に関係している」と言い切ることも難しい。だから、哲学もそれ以外の読書も将棋を指すことも、それぞれがおそらく私の思考のすべてに影響を及ぼしています。であるとするならば、哲学と将棋の二つだけをピックアップして考えるのもおかしな話なのかもしれません。いろいろなことがお互いに影響し合っていると思いますね。

──質問が大袈裟ですが、人類社会の未来について願いみたいものはありますか?

糸谷 誰もがいろいろな立場から、考えることができる社会になればいいなと常々思っています。

──具体的にはどういうことなのでしょうか。

糸谷 多くの人間がどうしてもポジション・トーク、ポジション・シンキングを取ることになってしまっていると感じています。そのポジション・シンキングを繰り返すうちに、見方が固定されてしまって同じ方向からしか物が見えなくなってしまう。そうした一定の決まった思考を繰り返して、もしくはインプットしたり、発声したりすることによって、物の見方がどうしても固まってしまう。そういうのがやはり偏見や差別の源にもなっていると思うんです。もちろん、それは自分自身も例外ではないので、そういった地点に立つことを意識して、自分の思考をかき混ぜないといけない。それを常に自覚して繰り返す必要があります。そうしたものを取り除いてより良く人が生きることができる社会になるためには、私はそうしたいろいろな立場から考えて、自由な思考をみなが持つことが大切なのではないかと思っています。一番の大本は思考の仕方ですね。

 でも、こうした考え方を批判的に見る人は、「効率的ではない」と言うでしょうね。自由に考えるということは、ほとんどの人間にとって思考の効率化の邪魔なんです。なぜかと言うと、固定化された思考というのは一番早い対応を可能にするものだからです。だから、普段の仕事上においては、逆に完全に固定化して、自分の血肉と化してしまったほうが圧倒的に良い仕事ができる。金槌を使う職人がそれを使う時に、いちいち何かそのものを考えていたりしたら、非常にテンポロスですからね。

──テレビのニュースを見ていると、大体同じ構図に押し込めて伝えようとするなと感じます。一つひとつのニュースを逐一考えることはたいへんなのかもしれませんね。

糸谷 人間はどうしても自分の構図のなかに入れて、物事を理解しようとするのは仕方がないところですね。今は情報洪水が叫ばれていますが、与えられる情報があまりに多くて、それを取捨選択ができないと反射で返すことしかできなくなってしまう。情報をいったん把握して、反射で返すものと、長考すべきものとを分ける取捨選択の作業が求められている時代だと言えるかもしれませんね。

聞き手・本誌 橋本淳一

ご経歴
いとだに てつろう:1988年広島市生まれ。98年日本将棋連盟・新進棋士奨励会入り。17歳でプロ棋士になる。森信雄門下。現在8段。2006年度新人王戦優勝、新人賞・連勝賞受賞。14年竜王獲得。大阪大学文学部卒、同大学院文学研究科修了。

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