奈良を舞台にした小説は書きにくい?

森見 京都だって変わっているのだけど、そのスパンやサイズが東京とは違いますよね。京都だったら、もうちょっと時間軸を長くとっている。僕はいま奈良に住んでいますが、奈良までいっちゃうとのんびりし過ぎるんですけどね。

中井 確かに奈良はそうですよね。

森見 奈良は全盛期が古代にいっちゃうから、時間軸が大きすぎて手に負えない。

中井 奈良の歴史は、観光商品に落とし込むのが難しいとされているんですよ。

森見 難しいでしょうね。それはもしかすると、奈良の小説が書きにくいことと関係しているかもしれないですね。

中井 そうかもしれないですね。よその人にもすぐにわかるような奈良らしさを出すのはすごく難しい。

森見 すぐ鹿になっちゃう。

中井 そうそう。ちょっとズレると、京都のイメージに乗っ取られちゃって、京都との差別化ができない。実際は、奈良のほうが京都より古い都ですからね。だから日本のルーツは奈良にあるのだけど、何かわかりやすい商品としてアピールするときにはすごく難しくなる。

森見 そうなんですよ。僕も京都はもう散々書いたから、奈良の小説を書きたいわけですが、奈良はすごく書きにくいんです。

中井 『ペンギン・ハイウェイ』は奈良の生駒市が舞台になっていますが、あれは歴史という感じではないですもんね。

森見 あれは別に奈良じゃなくてもいいわけです。郊外だったら別にどこでも成り立つ話です。奈良を書くにはどうしたらいいのか未だにわからないですね。

中井 歴史的に正確な奈良を出してみても、なかなか商品にはならないところがありますね。現代の日本人が持っているイメージの断片と連続性をキープしながら、奈良のファンタジーを創るのは難しいのでしょうね。しかも、京都ではなくて奈良だなとみんなに納得させるとなるとたいへんですね。

森見 京都は大きな都市なので、よそからいろいろな人がやってきますよね。それこそ学生もいれば仕事で赴任する人もいて、暮らしながらまた出ていったりする、人の出入りがある都市です。けれども、奈良はそういう人たちの層が薄い。地元の人と観光の人しかいないので、小説もすごく書きにくくなる気がする。

 僕が京都を舞台に小説を書けたのは、学生のように京都で日常を暮らしているが、地元の人間ではない人たちの存在が許されていたからだと思うんです。それは小説を書く人間としては、とても都合のよいことでした。そうじゃなければ、京都生まれの京都育ちの人でなければ、京都を書けないことになる。

中井 それはガチガチの、老舗の伝統の小説になるわけですね。

森見 その世界が本当に好きで、知りたいと思っている人でなければ入っていきづらいですよね。

中井 京都には人の流れがあることも特徴ですね。

森見 よそ者がしばらくいるみたいなね。

中井 観光客にしても学生にしても、いつかはこの場所を離れるという約束のうえで受け入れてもらっているところがありますよね。学生がなにかと大目に見てもらえるのも、「どうせすぐ出て行かはるし」みたいなところがある。

森見 ずっと京都に暮らしている人たちの層、数年間だけ京都にいる学生たちの層などがいろいろ重なっていて、所々でそれが交じったりしながら、ミルフィーユ的なフワッとした膨らみがあるのが京都のすごくいいところですよね。

 だから、僕が書いた小説も学生視点の京都として許されたのだと思います。観光客よりはちょっと深いけど、京都の地元で生まれ育った人よりは浅いという世界ですね。それこそ学生たちがおもしろがってくれたのは、そこまで濃密ではない京都なのだと思う。自分たちの目線や日常と地続きの京都が読みやすかったのかなと、今になってみると思います。

 

日常の延長上に非日常がある

中井 森見さんの作品の舞台は、本当にずっと京都ですね。

森見 他は書けないからですね。

中井 学生の街であることや京都の特性にこだわったというより、たまたま自分の知っている街だったから京都が舞台になっている感じなのですか?

森見 僕は、自分の日常の延長にある世界しか書けないんですね。他の街を舞台にするにしても、自分がよく行った旅先、住んでいたことのある東京、そして奈良ぐらいしかない。奈良は書くのがむずかしいとなると、京都でいいかなと。結局、京都は一番自由度が高いと思うんです。どんな人が現れても、不思議なことを起こしても、京都はリアルに感じられるところがありますよね。何か日常の延長上に非日常があるように感じられるんです。

 奈良で不思議なことを起こすと、古代を連想するのかとても遠くに感じられてしまう。非日常への距離が遠いのかな。奈良はスケールが大きすぎて、小説を書くときにはそれが非常に厄介です。東京だったら、僕の書くようなものは「リアリティがない」と言われてしまうでしょうし。

中井 興味深いですね。作中には京都のディティールが詳細に書かれていますが、あれはよその人が読んでも伝わるように計算されて書かれているのですか?

森見 いやいや、適当ですよ(笑)。単に自分がそのとき書けるものを書いているという感覚です。でも、別にそれでいいわけですよ。たとえば、東京の人が京都の地名がわからなくても、そこには固有名詞としての力があるわけじゃないですか。自分で書くときに実感を持って書けるので、自分にとってそれはすごく大事ですよね。

中井 僕はよそから来た森見さんのファンに何度か「聖地巡礼」の案内をしたことがあるんです。出町柳のラーメン屋さんとか、いろいろありましたからね。そのディティールのおかげで訪れるべき聖地の場所が実際にわかる。

森見 ときどき妄想で書いているのに、「あそこがモデルですよね」と言われることもあります。

中井 すごい(笑)。妄想が現実を追いかけてくる。

森見 自分も大学生のときに司馬遼太郎を読んで、坂本龍馬のゆかりの場所に行ったりしたことがありますから、聖地巡礼をしたくなる気持ちはよくわかるんです。ただ、リアルに書いてあるところもあれば、思いつきで適当に書いているところもありますね。

 

妄想力のスイッチが入るスポット

中井 東京でそれをやろうとすると、難しそうな気がしますね。東京の街を詳しく描写しながら、途中に自分だけの妄想を入れると、東京を知っている読者はそこでひっかかりそう。

森見 東京でもそれができるところはおそらくあるんですよ。有楽町とか、自分が住んでいた千駄木のあたりなんかは結構融通が利くと思っています。東京でも若干レトロなカオス感があるところは、超現実な要素や噓を入れてもまだかろうじてスルーされるのだと思います。そういう領域は、東京にも所々残っているんですよ。それらを見つけて拾って繋いで書くことは、一度やりましたけどね。

中井 なるほど。東京だとそういう場所になるわけですね。まだレトロ感が残っている地域がある。

森見 まだらに残っている感じです。

中井 浅草あたりはどうですか?

森見 浅草はあまり知らないのでわからないですね。僕の個人的な好みでしょうが、有楽町界隈には想像力が刺激されるパワーを感じました。

中井 確かに有楽町界隈はすごく綺麗に開発されていますが、すごく古い建築物がポンと残っていたりする。

森見 ガード下とかね。

中井 確かにレンガ造りのガードが残っていますね。唐突に昔のものがボンと目の前に現れるみたいな感覚が、有楽町にはあるかもしれないですね。

森見 神保町の裏のほうや小石川あたりにも、何か嘘の世界に繋がっていると思わせる場所があります。僕の個人的な妄想のスイッチが入りやすい場所ですね。

中井 それは歴史的な重層性が垣間見える場所だったりするわけですか。

森見 うーん、そうなのかなぁ。

中井 いま生きている時間軸とは違う顔がひょっと見えるときにスイッチが入る感じですか?

森見 それも大事だし、日常の延長上にグッと出てくるのがワクワクします。

中井 そうすると旅先より、普通にコンビニの帰りに突然ヘンなものを見るとか、そういう感じですか?

森見 そうそう。そういう普段よく通過しているところにヘンな切れ目が入るときに、グッと惹きつけられるものを見つけることがあります。

中井 日常のディティールを丁寧に描き込むほど、その裂け目が鮮やかに見えることもありそうですね。

森見 そうそう。だから僕は、観光は苦手なタイプです。観光するにしても、何回も同じところに行きたいですね。馴染んできたときに、ようやく妄想力のスイッチが入る。最初はすべてが新鮮なので、それだけでは取っ掛かりがない感じがするんですが、何回も訪ねて馴染みになってくると、急に「ここにこんなところがあったんだ!」とおもしろくなる。その場所が日常になってきたら、ようやく小説が書けそうな気になりますね。

中井 ファンタジー小説であっても、大事なのは日常のディティールの厚みや親近感なのですね。

森見 結局、僕は保守的なところがあって日常が好きなんです。散歩するにしても、わざわざ遠くまで行って新しい発見をするような好奇心はあまりない。いつもの散歩道を歩いていて、今まで行ったことのない横道を入ってみたら、急に野原が現れたりすると、急に「書きたい」という気持ちになる。

中井 よくわかりますね。僕が観光を研究することになったきっかけは、自分がバックパッカーだったことにあります。時間が許すと、リュックサックを背負ってアジアを旅していて、この9月もネパールに行っていました。バックパッカーたちは、旅先であえて日常生活を続ける人も多いんです。

森見 どういうことでしょうか?

中井 一生懸命あちこち移動して観光地を熱心に観て回るより、安い宿に滞在して、そこでしばらく暮らすことをメインにしたり。そうすると自分のルーティンができてくる。いつものカフェでお茶を飲んで、いつもの売店で買い物をする。それを終えると「今日はもうやることがないから宿でダラダラするか」みたいな。

森見 どうせするなら、そういう旅行がいいですね。

中井 それなら京都にいても一緒じゃないかという話ですが(笑)、オルタナティブな日常を楽しみにわざわざ出かけていくんです。いつもの日常のダラダラを、まったく関係のない異国でやるわけです。よくバックパッカーのあいだでは、「2週間経ってからが本番だ」と言われるんです。同じ街の同じ宿にいて、同じようなご飯を食べていると次第に飽きてきます。それが2週間経つ頃になると、「何かおもしろいところはないか」とか「どう遊ぶか」と工夫し始めるようになる。

 そうするとだんだんと周囲への解像度が上がってきます。近所のお店の人とも知り合いになるし、それまで目につかなかったことが入ってくるようになる。そういうのが楽しい。

森見 それは僕の求める旅行なのかもしれませんね。スーッと行って帰ってくるだけなら思い入れが持てないし、日常にはなってくれないけど、長く滞在すると日常が現れてくることもあり得る。

中井 バックパッカーたちにとっては飽きることが本当の目的なのかもしれませんね。そういう意味では、バックパッカーの旅はプチモラトリアムを味わいに行くと言えるかもしれません。学生時代の何もやることのない無為な日々を数週間だけ味わいに行くような感覚ですね。

森見 それはおもしろいですね。僕は観察眼がないので、実際にそこにいて同じことを繰り返していないと、おもしろいものを見つけられない。気づけないんです。飽きるぐらいにそこにいるのは、よくわかりますね。

 日本でもローカル線に乗ってどこかの駅で降りて、次の電車が来るまでの1時間ぐらい時間をつぶしていたりすると、そういう感じを味わえることがありますよね。駅の裏手に無意味に行ってみたりするのは、楽しかったりします。京都は、学生として日常を暮らすのはいいけど、今日中に清水寺や銀閣寺をまわらなければならないとなると「もういいよ」ってなりますね。

中井 わかります。それはしんどいです。

 

なぜ森見作品にはSNSが出てこないのか?

中井 今回、読み返して気づいたんですが、森見さんの作品にはインターネットやSNSがほとんど出てこないですよね。

 森見さんは、押井守がとても好きだったとお聞きします。彼は、新しいテクノロジーが社会をどう変えるのかというテーマを持っていた人でもあります。サイバーパンク的なアプローチですね。そこは意外な感じもします。

森見 僕は、押井さんのサイバーパンク的な側面はまったくわからないです(笑)。

中井 やはり『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』あたりですか。

森見 そうですね。僕が好きなのは、押井さんの描いていた、日常に入ってくる神秘的なものですよ。『ビューティフル・ドリーマー』は学園祭の準備をしている日常のなかに、同じ一日が繰り返し始めるという神秘が急に起こってくる設定にググッときたんです。『機動警察パトレイバー the Movie』もそうですね。ちょっと神秘的な事件が、東京の日常生活のなかに侵入してくる。

中井 確かにパトレイバーを出動させる特車二課の面々の公務員然とした感じも、まさに日常ですね。

森見 押井さんのそういう側面が好きだったので、あまり社会的な視点や未来予測みたいな部分に惹かれていたわけではないんです。まあおもしろく観てはいましたけどね。

中井 今の日常の生活を描こうとすると、スマホやSNSは当然出てくるのだと思いますが、あえて登場させないのですか?

森見 そうですね。本当は出したくないのだけど、最早出てこないことが不自然ですよね。だから、ないことができるだけ気にならないように書いています。でも何を書いても僕の文章は古臭いところがある。現代のエンタメ系のニュートラルな文章ではないので。もう少しニュートラルな文体だったら、ネットを入れてもすんなり馴染むのでしょうけど。

中井 文体として馴染まない。

森見 当然、自分はLINEもしているし、編集者に原稿を送るときもメールを使っているんですけどね。けれども、作品ではメールやLINEでどうこうみたいな文章を書きたくない。感覚的な話ですが、たぶんそこに尽きると思うんです。

 今は「ヴィクトリア朝京都」という架空の京都を舞台に小説を書いています。ホームズが寺町通に事務所を構え、ホームズがスランプに陥るという話だから、メールやネットはまったく関係のない世界なので(笑)。

中井 舞台は19世紀末の京都ですか?

森見 いや何も考えてないです。単に「ヴィクトリア朝京都」と言ったもん勝ちみたいな(笑)。確かにネットやSNSの存在は日常になっていますから、それらをどう扱うかは悩ましいところです。どう書いても白々しくなっちゃいそうな感じがするなぁ。

中井 今の学生の話を聞いていると、人間関係が本当にSNSありきになっています。そこで友だちができたり、そこでの人間関係の機微みたいなものが、僕らには見えないところでいっぱいあったりする。

森見 完全にそんなの書けない(笑)。『太陽の塔』や『四畳半神話大系』は20年前の作品だし、そもそも書いているときも現代の大学生を書こうとはしていなかった。

中井 だからこそ20年経っても学生が読んでいるのかもしれないですね。僕もその時代の京都を知っていますが、発表当時に読んでも「今」という感じではなかった気がします。

森見 そうそう。僕は父親が京大生だったから、漠然といろいろな話を聞いていました。だからより古臭い京大生のイメージが投影されていると思うし、あえて文章も古めかしくして「今どきこんな大学生いるかよ」といったギャグにもなっている。そこを出発点にしていますから、そこはもう出発点からして古いんです。

中井 同時代的なものではなかったので、逆に古びないところはあったりするでしょうね。

 

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