『公研』2023年10月号
限りある資源を人々に配分するときには、どうしても「ここまで」という線を引かなくてはならないことがある。保育園の入園割り当てのように、配分できる資源が決まっているときに、必要な人を上から順番に序列づけて、決まった人数までで線を引くということもあれば、学校への入学のように特定のイベント(誕生日)がいつ発生したかということで線を引くこともある。
近年、特に問題視されるのは、所得をめぐる線引きだろう。昨年は児童手当に対して所得制限をかけるかどうかが話題になったし、今年はいわゆる「年収の壁」、所得控除や社会保険加入をめぐる所得制限についての議論が活発である。
このような所得をめぐる線引きが問題を引き起こすのは、その線が実質的な意味を持ってしまうからだ。所得制限を超えないように労働を控える人が多いことは、高度経済成長期ならともかく人口減少に悩む現在の日本にとっては望ましくない。労働供給の問題だけでなく、現状維持を強固にしてしまうことも悩ましい。
たとえば子どものいるカップルで、それまで所得制限内で働いてきた人が、「壁」を超えて新たに社会保険に加入する、ということになると、単に手取りが減るだけでなく、配偶者の社会保険を抜けて新たな社会保険に加入しないといけないことになる。年収額によっては、子どもの扶養がどちらになるかも変わってしまい、子どもが加入する社会保険も変わる、というようなことがあるかもしれない。従来の制度が、様々なものを男性稼得者に紐づけて構築されてきた中で、そのリンクが切れるととたんに複雑になってしまうのである。
物価水準が徐々に上がっている中で、それが賃金にも波及してくるとすれば、多くの人が「年収の壁」を超えることを余儀なくされていくだろう。賃金が上がっているのに「壁」を超えないでいると、労働時間がどんどん短くなってしまうからだ。かといって、男女を問わず労働供給を増やす必要がある昨今の状況で、「壁」のほうを引き上げていくのは現実的な提案とは言い難い。
とはいえ、一気に「壁」だけなくすということもあり得ない。所得が「壁」の周辺で、それによって行動を変えることがある人ならばともかく、子どもが多くて実質的に家事労働しかできないという人について、その配慮だけ急に除くのはフェアとは言えず、子ども向けの社会政策も含めた抜本的な議論が必要になってくる。
そのためには、個人の所得捕捉を前提としつつ、税や社会保険の拠出・給付などをまとめて管理していくことが必要だろう。従来の所得による線引きとは異なって、労働供給への意欲を削がないかたちで社会保険をはじめとした給付を行うのである。マイナンバーというインフラも整備されており、マイナンバーカードを使えば男性稼得者と結びつけずに社会保険の拠出や給付を管理できる可能性がある。
そのような改革も線引きをすべてなくすわけではないだろう。どのように議論が進むかはわからないが、実質的に男性稼得者とのリンクを想定してきたこれまでの制度とは異なって、明示的に「家族」や「世帯」というユニットで新たな線を引いて拠出や給付を考えなくてはいけないかもしれない。そうなると、最近では司法の場で行われることが多い家族のあり方についての実質的な決定を、立法側も担う覚悟が必要になる。 神戸大学教授