『公研』2019年11月号「interview」

下地 邦拓・コンサルティング会社勤務 

沖縄に生まれ育ち、ワシントンのシンクタンクでの勤務経験のある下地邦拓さんにグローバル視点から見た今の沖縄、若い世代からの沖縄への提言について聞いた。

※
令和元年10月31日、首里城の正殿、北殿・南殿など計7棟が焼失した。このインタビューは火災前に収録したものだが、この件を受けて想いを寄せていただいた。

大丈夫。また建てよう。

下地 首里城は沖縄のシンボルですから当初は動揺しましたが、今は気持ちを切り替えてこれからのことを考えています。14世紀末に創建された首里城は、これまでに計4度焼失・崩壊した過去があるんです(1453年 、1660年、1709年、1945年)。けれども、その度にうちなーんちゅ(沖縄の人)と沖縄を愛する人達の手によって、首里城は建て直されてきました。今回もすでに再建に向けた動きが始まっています。ただし、慌てる必要はないと僕は思っています。時間をかけてでも、コンセプト、カネ・モノ・ヒトを含むリソースの調達方法、再建に活用する技術、人材育成に係る検討をしっかりと行っていくべきだと考えています。2022年に沖縄返還50年という節目が迫っていますから、再建を焦る気持ちは理解できます。しかし、その気持ちをぐっと抑え、目先の5年・10年ではなく、100年後に訪れる人々をあっと言わせるような首里城を皆で築くことが、沖縄にとって長期的に意味があるのではないでしょうか。

 具体的には、コンセプトの検討時には、沖縄の政治・経済・社会的な状況に加え、SDGs(持続可能な開発目標)が謳っている「持続可能性」「多様性」「包摂性」を含む、世界的に重要度を増すアジェンダをどのように組み込んでいくのか──その検討が重要だと考えています。短期的な目線ではなく、沖縄と世界の未来を想像したうえで、「こんな世界・沖縄の未来を創りたい」という姿を明確にすることが大事だろうと思います。首里城の再建は、ありたい未来の姿や強い想いと共鳴するかたちで成されることがポイントになってきます。

 そうしたコンセプトの実現に向けたカネ・モノ・ヒト・活用技術の検討に際しては、「どれくらいの再建規模が必要で、コストはどのくらいなのか」「国や県の税金をどのように費やすべきなのか」「環境・資源にも配慮したベストな再建方法は何か」「コンセプトを沖縄県内外で浸透させるためには、どのような人々を巻き込んだ再建プロジェクトにするべきなのか」「伝統技術と最新テクノロジーの活用が共存し、互いの良さを高め合う活用方法はないか」など、検討事項を挙げるとキリがありません。このような検討プロセスに一つひとつ丁寧に取り組むことが、先人とこれから沖縄の地に訪れる世界中の人々に胸を張って自慢し、誇れる首里城の再建に欠かせないと考えています。この際、思い切ってサグラダファミリアのように、検討や建設のプロセス自体が沖縄観光の目玉になるような仕掛けを考えることも面白いと思っています。

 これから始まる首里城の再建は、世界の人々が沖縄を今後どう見るかに大きな影響を及ぼすイベントになるでしょう。どうせ再建するのであれば、2019年10月31日を「首里城が燃えた日」ではなく、未来に向けて「沖縄の歴史が動いた日」にしたいです。その実現に向けて、国内外の人たちにとって沖縄をより魅力的な場所にすることを目的に、有志と共に活動を始めたBeyond Okinawaの取り組み等を通して、多くの人を巻き込みながら動いていこうと考えています。それができるのは、今を生きる私たちしかいませんからね。

今の沖縄は四つの世代に分けられる

──米軍基地は小さい頃から身近だったのですか?
下地 那覇市から車で1時間弱走ったところにある沖縄市の泡瀬という海辺の街で育ちました。戦時中には米軍の飛行場として利用され、現在は情報通信施設となっている基地が近くにありました。通っていた中高へ向かうバスの車窓からは米軍基地が見えたし、軍用機やヘリコプターの音が生活の一部として育ちました。家の近くに電車の線路がある人が電車の音を聞きながら生活しているのと似ている感覚かと思います。

 「〝沖縄の人〟は基地についてどう考えているの?」とよく聞かれますが、「沖縄の人」を四つの世代に分けて考える必要があると考えています。上から見ていくと、まずは僕らの祖父母の世代で米国との戦争を実際に経験している人たちです。その次は、戦後沖縄が日本に返還される1972年以前に生まれていて、自動車が道の右側を走っていたり「B円」を使っていたりした頃の記憶がある世代です。僕の両親がここにあたります。その次が団塊ジュニアから僕らくらいまでで、米軍統治下の沖縄を知らず米軍基地が沖縄に当たり前に存在している環境で育った世代。最後が僕たちよりもさらに若い世代です。この世代は、僕らの世代と異なり、戦争を経験した世代から直接戦争の話を聞く機会が極端に少なく、歴史上の出来事の一つとして沖縄戦を学んだ世代です。これら四つの世代では、沖縄の歴史や基地に対する考え方がまったく異なると考えています。

──下地さんの祖父母はアメリカを憎む気持ちがありましたか?
下地 米兵は怖い相手だったろうし、戦争を憎む気持ちは強くあったと思います。戦争の頃の話はあまり話したがらない祖母でしたが、時々当時の話しをしてくれました。ただ、ネガティブな感情ばかりではなかったと思います。祖母は、辺野古で米軍を相手にしたバーをやっていましたから、米軍基地は生活とも密着していました。それから、叔母は米軍の人と結婚したんです。初めて従兄弟に会ったときには、「Hello!」って言われたりして(笑)。それで米国がグッと身近になりましたね。僕は小学校3年生くらいでしたが、英語を勉強しなきゃと思ったのもその時です。従兄弟と普通に喋れないのはおかしいですから。僕自身も基地内の小学生とサッカーの交流試合を何度も経験していますから、小さい頃から交流がありました。

──沖縄は英語が上達しやすい環境ですね。
下地 僕らの世代だと、英語を勉強したい人や米兵さんに憧れる女の子などがいて、そういう人たちは英語の環境や兵隊さんと出会いを求めて基地内でアルバイト先を探すんです。まずは雇ってもらえるように英会話を頑張る。それに基地内で働くと給料に上乗せしてチップも入る。沖縄で働くよりもずっと収入が多かったりしますから、英語を勉強しようというインセンティブはありますね。英語に触れる機会は本土よりも多いですから、興味を持てる環境ではあると思います。

 もちろん、基地の存在はポジティブな面ばかりではありません。2004年の沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件は、衝撃的でした。と言うのも、叔父が沖国大で教授をしていてオフィスのすぐ近くにヘリが墜ちたんです。幸いにして軍人さんも含めて死者は出ませんでしたが、沖縄ではどこにいても事故に巻き込まれる可能性があることを痛感しました。この事故をきっかけにして、そもそもなぜ沖縄に米軍基地があるのか、日米同盟はどういうものか疑問に持つようになったんです。それで外交や安全保障、防衛の問題を学びたいと考えるようになりました。

沖縄の未来の話がしたい

──普天間基地の辺野古移設問題は、長年に渡って議論されています。下地さんはどうお考えでしょうか?
下地 中国や北朝鮮を含むアジアの安全保障環境は日々変化していて、経済の相互依存関係の更なる深化と近年のAIやドローン等を含むテクノロジーの発展は、安全保障環境に大きな影響を与えています。これを前提に、日米両国が①今後の戦争のあり方を含むこれからの極東アジアの安全保障環境、②平時・有事におけるこれからの海兵隊の役割、③①・②を踏まえた沖縄の海兵隊基地の必要性について検討する必要があると考えています。そして、検討の結果、日米両国が「辺野古に海兵隊基地が必要である」という合意に至った場合、国家の安全を維持する使命がある日本政府の責任のもと、辺野古への基地移設を進めることは仕方がないと考えています。基地建設に際して辺野古沖の軟弱地盤をどうするかなどの課題はありますが……。

 この問題は、僕が幼稚園に入ったときくらいからかれこれ25年近くも続いています。その間、沖縄はずっと基地問題ばかりが政治の俎上にあげられていて、選挙のときは、常にこの話ばかりでした。それ以外の課題の解決については、ずっと後回しにされてきましたから、経済や教育の問題については十分な議論がなされていません。沖縄で特に重要な課題は、子供の貧困を含む貧困問題だと僕は見ています。沖縄の1人当たりの所得は約217万円で、全国平均約319万円とはだいぶ差があります。時代に合った沖縄らしい産業の構築を含め、この差をいかにして縮めるべきか真剣かつ具体的に考えなければなりません。

──経済の課題を優先すべきだと。
下地 貧困問題は放っておくことはできない段階に来ています。僕が普天間基地の移転問題を先に進めるべきだと考えているのは、この議論が固定化してしまってこれ以上続くような状況に陥ることを最も心配しているからです。不幸中の幸いと言えるのが、これまで30年の間、米軍機墜落事故等で沖縄県民はまだ一人も亡くなっていないことです。もしオスプレイが住民を巻き込むかたちで墜落するような大惨事が起きてしまうと、議論は完全に固定化してしまうでしょう。そしてその結果、基地問題が片付かない限り、次の課題に向き合うことが難しくなるのであれば、僕らは永遠に過去を戦っていることになる。僕は、沖縄の未来の話がしたいんです。基地問題の議論が長期化することは、それを妨げることでもある。

──負担は大きいが、沖縄は防衛上の要所でもある。
下地 沖縄の人たちも沖縄が地政学上重要な役割を担っていることは理解しています。東アジアを、沖縄を中心に描き、その戦略的立ち位置を表した地図がありますが、それを見ると沖縄が戦略上いかに重要であるかを直感できますよね。沖縄の多くの人たちも米軍基地が存在すること自体に反対しているわけではなくて、辺野古への移設には環境的懸念やこれ以上基地を新設して欲しくないという想いのもと反対であるという立場の人が多いんです。

 ただし、この議論は安全保障上の観点だけではなくて政治が絡んでくるので、そこには沖縄県民は敏感に反応します。以前に森本敏元大臣が「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」と発言したことがありました。そうすると、「やはり沖縄は都合よく利用されている。差別されている」という思いを抱くことになってしまう。安全保障上の観点だけでなく、政治的なこととも密接に絡んでいることがこの問題の難しいところですね。

──このところの選挙では、辺野古への移設に反対する候補者が勝利していますね。
下地 2018年の県知事選挙、今年の参議院選挙と大きな選挙が続きましたが、いずれも普天間基地の辺野古への移転を反対する候補者が勝利しました。ただし20・30代(先述の米軍統治下の沖縄を知らず米軍基地が沖縄に当たり前に存在している環境で育った世代)の投票傾向を見ると、まったく逆なんです。参院選では安里繁信さんという沖縄の経済界をリードしてきた人が立候補しました。敗れはしましたが、若い世代の支持を集めていました。いま基地問題よりも、沖縄の経済をどうにかしてほしいと考える若い人が増えていると感じています。今後この世代が主流になると基地への考え方は大きく変わっていくことになります。

 僕らは昔から、「孫の世代の沖縄に戦争の爪跡を残すべきではない」という思いを聞かされて育ってきました。その願いはよくわかります。けれども、そこにこだわり過ぎることで、貧困問題などの喫緊の課題が先送りされることを僕は懸念しています。

日本のために喋る。沖縄のために発言する

──下地さんご自身の話に戻ります。高校時代に米国留学を経験されていますね。
下地 沖縄は他の地域より留学する機会が多いところがあって、僕も2007年高校2年の時に留学団体から全額免除を受けて1年間アメリカに留学しました。最初はインディアナ州のインディアナポリスに入ったんですが、ここで現地の人にボコボコにされる被害に遭っているんですよ。

──なぜ暴行されたのですか?
下地 理由はわかりません。ショッピングモールでエスカレーターに乗っていたら背後から「ヘイ!」と呼び掛けられ、振り向いたら、いきなり2メートル近い黒人に殴られてボコボコにされたんです。「f**k Asian!」と叫んでいましたから、アジア系が気に入らなかったのでしょう。たまたま警備員が通りかかって助かりましたが、そうじゃなければどうなっていたかわかりません。インディアナは黒人が多い地域です。僕が通っていた高校も生徒の半分くらい黒人でしたが、白人至上主義者からテロ予告が届くという事件も起こったりしました。留学団体もこのような環境は危険だということで、ウィスコンシン州に移動させられることになりました。トウモロコシ畑しかないような田舎の高校でした。酷い目に遭いましたから、ヒーリングも兼ねていたんでしょう。

──アメリカ嫌いにはなりませんでしたか?
下地 嫌いになったし、怖くなりましたよ。でも、黒人さんのすべてがあんなことをするわけじゃない。悪いのはやった個人であって、黒人全員が悪いわけではない。沖縄では米兵によるレイプ事件が何度も起きていますが、マリーン(海兵隊)の全員が野蛮ではないんです。こういう事件が起きると、一緒くたにしてしまうことがあるけど、全員を悪く見てはダメです。当たり前ですよね。ボコボコ事件の経験を通じて、そんなふうに考えるようになりました。

──現役でアメリカの大学に進学されていますね。今の沖縄の若者は、東京の大学に行くのもアメリカの大学に行くのも同じように見ているのですか?
下地 僕は幸いにもグルー・バンクロフト基金の奨学金を受けることができました。この基金は、太平洋戦争直前までに駐日米大使をしていたジョセフ・グルーとエドガー・A・バンクロフトがそれぞれ創設した基金を合併したものです。ジョセフ・グルーは日米開戦を回避すべくギリギリまで尽力した方ですが、終戦後は日米関係を強化して、アジアの平和構築に寄与できる人間を育成することを願ってこの基金をつくった経緯があります。僕が進学したのは、ミネソタ州のセント・ジョーンズ大学という小さなリベラルアーツカレッジです。カレッジビルという田舎町ですが、とても過ごし易いところでした。

 今でも高校を出てすぐにアメリカの大学に進学することのハードルは高いのだと思います。やはり高校時代に留学していましたから、英語に対する抵抗意識が少し和らいでいたので怖気付かないところがありました。寮で暮らしていましたが、おしゃべり好きな性格ですから、すぐに打ち解けられました。大学でも日本のために喋る、沖縄のために発言するという気持ちでいました。外交に関心がありましたから、そういう意識でいられたところがありますね。

 大学時代には、ワシントンDCのシンクタンクでインターンシップとして働く機会を得ることができて、大学卒業後に同じワシントンDCにある全米アジア研究所(NBR)で職を得ることができました。

安全保障の最前線を踏まえた議論を沖縄側からすべき

──アメリカの名門シンクタンクに就職するのはかなり難しいイメージがあります。
下地 学部卒で就職することは普通は難しいと思います。ワシントンにあるシンクタンクは名だたる名門校出身者ばかりで、僕からすれば見上げるような人たちばかりでした。トランプさんは、まさに彼らのような学歴エリートのエスタブリッシュメントを批判することで支持を集めたわけです。僕が入れたのは、時の運で、タイミングとNBRが求めていたニーズに偶然僕が合ったからだと思います。

 NBRで働いているときには、沖縄からワシントンにやってきた使節団が実際にどんな議論をしているのか目の当たりにすることができました。沖縄からは政治家、活動家、環境保全団体の方などが使節団としてやってきて、彼らがシンクタンクの研究者や沖縄問題に詳しい人物と議論をする場に何度か同席させていただく機会がありました。

 このような機会を通じて強く感じたのは、沖縄の歴史や基地に関係する課題の説明が大半を占めてしまっていて議論が先に進まないことです。沖縄はもともと琉球王国として本土からは独立していた。薩摩藩の支配下に置かれる時代が続き、明治政府ができて1879年に琉球から沖縄県になると、その後100年経たないうちに(1945年)、沖縄は太平洋戦争で日本を守るために本土の捨て駒にされた。終戦後は、1952年のサンフランシスコ講和条約発効で本土は独立を果たしたにもかかわらず、沖縄は1972年まで米国の支配下に置かれた。返還後も基地があるために経済発展が妨げられている云々。1時間の会議のうちに7割くらいは、このような沖縄の歴史と沖縄の課題について話していたと記憶しています。

──前置きが長いわけですね。
下地 使節団と会っているアメリカ側のメンバーは、日米関係や沖縄の歴史についてもある程度理解している方が多いので、前置きはすっ飛ばして、先ほど私が日米政府の検討課題として挙げた、①…今後の戦争のあり方を含むこれからの極東アジアの安全保障環境、②…平時・有事におけるこれからの海兵隊の役割、③…①・②を踏まえた沖縄の海兵隊基地の必要性について検討する必要があると考えています。こうした議論を通じて、アメリカ側が何を考えているのかを明確に理解し、それに基づき辺野古基地移設問題にどう向き合うか戦略を立てていくほうが良いと考えています。正直に言えば、話を聞くアメリカ側も毎回同じような話を聞かされると、「またこの話か」と考えているのではないでしょうか。実際に以前リチャード・アーミテージ元国務副長官もこうした状況に対して、苦言を呈したことがありました。

 もう一歩踏み込んだ話をすると、先ほども述べたように、僕は日本政府の責任のもと辺野古への基地移設を進めることは、喫緊の課題により多くの資源を割くためには仕方がないと考えていますが、仮に埋め立て以外の方法を模索するのであれば、①~③の検討事項に基づいた代替案を積極的に沖縄県側から発信していくことも必要だと考えています。知日家のマイク・モチヅキさん(ジョージ・ワシントン大学教授)やマイケル・オハンロンさん(ブルッキングス研究所上級研究員)は、必ずしも埋め立てを行わず、海上の母艦などに移すことで機能を維持することを以前から提案されています。沖縄側は、こうした安全保障の議論をきちんと踏まえることが大事です。安全保障の世界の最前線では戦争のあり方がずいぶん変化していて、抑止力担保の手段も新しい考え方が求められています。沖縄の地政学的な重要性が引き続き変わらないことは、みんなよく理解しています。ただし、その役割は今後高い確率で変わっていくと思います。普天間は海兵隊の基地ですが、次の時代の戦い方において海兵隊の重要性はきっと変わってくる。

 アメリカの安全保障戦略も時代と共に変わっています。オバマ政権時代にはアジア重視のリバランス政策に関心が集まりましたが、トランプ政権にはまた独自の考え方がある。アメリカの軍事予算の動向を見ていると、現時点では同盟に対するコミットメントが弱まる可能性があると思います。そのことは、沖縄のプレゼンスにも変化をもたらすことになります。それを踏まえた上で、今後の安全保障においてどういうポジショニングが必要なのか、こういった具体的な提案を沖縄側から訴えるべき時期に来ていると僕は思うのです。それにはアメリカ側も耳を傾けるだろうし、今よりも実りある議論になるはずです。

──沖縄側からの具体的な提言が物事を動かす可能性があると。
下地 政策提言については、政府に任せきりなスタンスを取ってしまっていると僕は感じています。ただ、沖縄県もそのあたりの重要性は理解し始めています。実は沖縄県は日本の都道府県で唯一ワシントンDCにオフィスを持っていて、アメリカにおけるネットワーキングや情報収集の拠点にしようと取り組んでいます。僕個人としては、ワシントンで辺野古基地移設問題の解決に向けた突っ込んだ議論を積み重ねていって、そこで得たアメリカ側の意見や蓄積した知見を東京に向けて発信して、日本の中央と議論していくことが重要になってくると考えています。

シンクタンク間での民間外交の重要性

──ワシントンのシンクタンクにおける日本人の存在感はどういった状況でしょうか?
下地 若手に関して言えば、日本は中国や韓国と比較するとかなり存在感が薄いですね。シンクタンクに20人のアジア人がいたとすると、韓国が5名、中国が13名、日本は2人しかいないという感じです。いっとき「若者の海外離れ」が盛んに叫ばれましたが、大学時代も含めて僕がアメリカにいた2009年~15年は本当に日本人が少なかった。これはヤバいと感じていました。

 パブリック・ディプロマシー(民間外交)という言葉が知られるようになっていますが、シンクタンクにおける民間交流もとても大事です。日本の場合は、今までこうした関係構築を外交官や民間企業であれば重役の方々が担ってきたわけですが、特に僕らのような若手が非公式の交流の場にきちんと出てきて、そこに集う人たちとディスカッションをしてネットワーク構築をきちんと行っていくことは、将来的に大きな価値を持ってくると思います。パブリック・ディプロマシーは外交・安全保障に限らずあらゆる分野で進めるべきで、それがシンクタンク間でも行われていいはずです。

 日米同盟をいっそう強化していくためにも、知日家と呼ばれる人たちとの関係を構築していくことは大事だろうと思います。代表的な知日家のマイケル・グリーンさん(戦略国際研究所(CSIS)副理事長)は日本語がとても堪能だし、日本のことをよく理解してくれています。ただ、他にも重要な人物はいますし、日本が好きな将来有望な若手研究者やビジネスマンも多く育っているはずです。そうした人たちとのネットワークを構築していかなければ日本のプレゼンスは確実に落ちていくことになります。私がワシントンにいた時点で、すでに落ちていました。

 このあたり、韓国は国家として戦略的にシンクタンクにも若手の人材を送り込んでいますね。彼らは考え方も合理的で明確な目的を持って送り込まれていると感じました。ワシントンには、いろいろな人がやってきます。政治家や外交官、大学教授、電力会社も含めて大企業も人を送っていますから、ワシントンにはリトル・ジャパンがあって、そこでは様々な勉強会が開かれています。ただし、外交官にしても大学の先生にしても重鎮が多くて、若い世代につながりを譲っていくことがなかなかできない。若手の絶対的な数が少ないという背景もありますが、各世代で役割分担ができていない感じがしますね。韓国や中国は世代単位でつながりを構築していて、それを次世代に渡していくことが見えました。循環させるような仕組みづくりが重要になってくる。このままいくと、ずいぶん差が付いてしまう気がしています。ここには僕も危機感を感じています。

ネットワーク構築は若い世代こそ向いている

──ネットワークづくりには向き不向きがありますよね。
下地 僕は、若い世代のほうがネットワークの構築には向いていると思っています。不勉強であっても「すみません!教えてください」というスタンスで重要な人物に接触することができますからね。そういう意味では、ワシントンは絶好の場所でどんな立場の人であっても、「ランチしましょう」と声を掛けることができる雰囲気がありました。その点、東京は、どういうわけかそうした動きがとりにくい街だと感じています。ワシントンで出会った外交官や大学の先生にしても、日本に帰った途端にみんなとても忙しくなってしまって、ハードルが高くなってしまう。働き方からして、東京とワシントンでは違っているのかもしれません。

 若い研究者同士であれば、すぐにFacebookでつながってやりとりできます。非公式の場やオンライン上であっても結びつきを維持しながら議論を続けることは、10年、20年先に大きな違いとなって現れてくると思います。「若者が内向きになっている」と指摘されてきましたが、僕らの世代では人的交流やソフトパワーの重要性を再認識するようになってきていると感じています。ダボス会議のグローバルシェイパーズという33歳以下で構成されるコミュニティの東京メンバーに選ばれました。次の時代にリーダーをめざす若者から、積極的に政策的な提言を行っていこうというものです。こうした場で知り合った世界中の人たちと横でつながっていくことは、僕が得意とするところでもあるし、将来的には沖縄と世界を結びつけることにつながると考えています。

──やはり視線の先には沖縄がある。
下地 大学生の頃は、外務省や防衛省で働きたいという希望がありましたが、シンクタンクでの勤務を通じて外交官の方々の実際の姿を見たことで、自分にはもっと違った役割が向いているなと。外交官は立場上、自分の意見を押し殺さなければいけない場面も多いですからね。それよりは自分の意見や考え方を発信しながら、多くの人とネットワークをつくっていき、いろいろな人を結び付けていくことが僕には向いていると考えるようになりました。今は日本に戻って東京の外資系コンサルティング会社で働いていますが、また留学して政策を学びたいと考えています。ゆくゆくは、沖縄の発展に貢献できるようなビジネスマン・政治家をめざしたいという目標があります。
聞き手 本誌・橋本淳一

ご経歴
しもじ くにひろ:1990年沖縄県生まれ。セント・ジョーンズ大学卒。同大在学中に、全米アジア研究所(NBR)、U. S. -
Japan Research Instituteでインターンシップを経験。大学卒業後、NBRでの勤務を経て、2015年よりコンサルタント会社に勤務。現在ダボス会議グローバルシェイパーズのメンバーに加え、Beyond Okinawaの企画・運営を行っている。

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