『公研』2021年4月号「めいん・すとりいと」

砂原庸介

 感染症への対応の難しいところは、人が感染症にかかっているかどうか外見から判断できないところである。しかも現在流行中の新型コロナウイルス感染症は知らない間に感染して、無症状のままに他者にウイルスを移す可能性があるというからなお厄介だ。しかし、外見から判断できないにもかかわらず、多くの人は一般的なソーシャル・ディスタンシングだけでなく、感染の可能性があるところを避けようとするだろうし、さらに自分が感染している人間であると思われることを避けようとする。

 例えば電車の中で、熱っぽい感じを出していたり、ゴホゴホ咳をしていたりすると、実際はそうでなかったとしても感染の蓋然性が高いと疑われて他の人から距離を取られることがある(だから花粉症にかかっていると辛い)。「濃厚接触者」も陽性者の近くにいるから感染している可能性が高いと理解されて隔離される。そして私たちは、他の人に移さないですよ、という意思表示を込めて毎日マスクをしているわけだ。

 そんな中でワクチン接種はひとつの明るいニュースである。近年の日本では人々が予防接種に対する副反応を忌避し、政府がその責任を負うことを回避しようとすることで新しいワクチン接種が人々に対して積極的に勧奨されることはほとんどなかった(この経緯については手塚洋輔『戦後行政の構造とディレンマ』をお読みいただきたい)。その背景には個人の健康を守るためのものというより、社会における蔓延を防ぐためのものとしてのワクチンの効能が強調されてきたことがある。

 今回のワクチン接種については、社会防衛だけでなく個人にとっての効能も強調される可能性がある。先行する欧米諸国で一定程度以上の有効性が示されていることに加えて、ワクチンを接種することで「自分が感染していない/人に移さない」ことを示すことができる可能性があるのだ。鍵となるのはワクチン・パスポートである。この人はすでにワクチンを接種した、だから他の人に感染を広げる蓋然性が低いということを何らかのかたちで証明することで、これまで自粛を求めていた行動を許容する。ワクチンを接種することで、できるようになる行動が増えるとしたら、個人にとってのメリットは大きくなり、積極的にワクチンを接種する人が増えることも期待できる。

 問題はそれをどう証明するかである。公的機関が証明すると言えば、これまでは圧倒的に紙が利用されてきた。紙の証明書でワクチンを接種したことを証するのである。しかし、そのような証明は英語でも行われ、外国で通用するのだろうか。あるいは偽造ではなく真正のものだとどのように示すのだろうか。そのようなことを考えると、今では一般的になったスマートフォンなどを使って何らかのかたちでデジタル技術を活用し、個人情報を保護しながら柔軟なかたちで証明が行われるような仕組みの構築に取り組むべきだろう。

 またもや日本の苦手なデジタル化である。実際、政府でこのような取り組みが進んでいるようには見えない。しかし、政府がやらないと自治体や企業がワクチン接種を拡げるためにそれぞれ独自の規格で紙・デジタル入り乱れてワクチン・パスポートをつくっていく未来もあり得る。最終的にその競争に勝った規格だけが残ればよい、という見方もあるかもしれないが、政府によって標準が示されない社会的費用は非常に大きいのではないか。

神戸大学教授

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