『公研』2021年2月号「めいん・すとりいと」
待鳥 聡史
新型コロナウイルス感染症は厄介である。感染力は比較的強く、とくに高齢者や基礎疾患がある人が罹患すると重篤化しやすい。しかし、おおむね現役世代より若い年齢層だと軽症や無症状が多く、かつ無症状でも他人への感染は引き起こす。ワクチンの効果はあるようだが、まだ使われている範囲は限定的で、特効薬もない。ただし、日本の感染者数や死亡者数は、先進諸国の中では相対的に低水準である。
このような感染症への当面の対策は、人々の行動の抑制や感染者の隔離といった古典的手法が中心となる。ワクチンの普及までは、とくに重篤化しにくい人々の行動が変わることが必要である。だが、それは自由な国の都市化した社会生活とは正反対の要素を強く持ち、それゆえに民主主義体制下では実効性の確保が難しく、社会経済的悪影響も大きい。
過去一年の間に以上のような共通認識が形成されたように思われるが、昨年末からのいわゆる流行第三波に際しては、政府による緊急事態宣言が三大都市圏などの都府県に再び発令されても、人々の行動変化は昨年春の第一波のときほどではないと指摘されている。
社会生活への制約が前回ほど大きくない以上は当然で、街の人出が減っていないという非難がましい報道などには違和感がある。しかし、地方自治体が出すものを含め、政府からのメッセージが一般市民に十分に届いていない面があることも確かであろう。
なぜメッセージは届かなくなっているのだろうか。さまざまな要因が考えられるが、政府とその対策への信頼が十分ではないことの影響は大きいようだ。市民に自制や自粛を求めながら政治家が会食を続けたことや、ワクチン確保の詰めの甘さなどが、政府の本気度を疑わせ、信頼を弱めている直接の原因であろう。
それらに加えて、中長期的なコミュニケーションの問題として、少なくとも以下の三点には取り組まねばならないだろう。
一つは、昨年からの対応に誤りや不十分な点があったと、率直に認めることである。初期対応における一斉休校や布マスク配布、最近の「GoTo」事業の中断遅れなど、適切でなかった場合にそれを受け入れ、すぐに修正する姿勢があまりに弱い。課題の性質上、試行錯誤が不可避なのだから、政府がいつも正解を知っているような態度はかえって疑念を招く。未知なことも多いが最善を尽くす、という謙虚さがないのは不思議である。
もう一つは、市民を叱らないことである。人々が慣れ親しんだ生活スタイルに戻ろうとするのは当たり前で、それを「気の緩み」として指弾し、特定の世代や業種を邪悪な存在のように扱う高圧的な語り口では、長期化する対策を聞き入れてもらうことは難しい。自らのリスクは高くない層の大多数は既に十分な自制や協力をしており、まずそのことに感謝すべきだという認識、さらに今後メッセージを届かせるべき人はとくに丁寧な説明が必要な相手であるという認識が、政府にも専門家にも乏しすぎる。
第三には、事後の徹底検証や改革を確約することである。医療崩壊という言葉も多用されるが、国際比較で見た病床や医師・看護師などの数からは不自然な水準で医療供給の逼迫が起こっており、適正配置について制度的問題があることは明らかだ。もちろん、民間病院や医師会を批判しても当面の対応策としては効果に乏しく、現時点では人々の忍耐と自制に多くを頼るしかない。だが、強すぎる専門職団体やその意向を重視しすぎる省庁が引き起こした厄災という面があると認め、改革に取り組むことは必須である。
「コロナ疲れ」とか「自粛疲れ」といった言葉が語られ、メッセージが届かないならば罰則で、という流れになっている。だが、現在起こっていることは、協力に十分な誘因を持たない人が徐々に増えているという現象ではないのだろうか。協力はさせるものではなく、引き出すものだ。そのことを出発点にした対策を打たない限り、今回は何とか乗り切れても、次の新型感染症や大災害の際に同じ轍を踏むことになるであろう。京都大学教授