『公研』2020年10月号「めいん・すとりいと」

砂原庸介

 新型コロナウイルス感染症の拡大は、日本の積年の課題であるデジタル化を推し進める機会としても認識されている。9月中旬に発足した菅政権は「デジタル庁」を新設する方針を掲げ、その検討を始めている。しばらくはウイルスとともに生活することが不可避と予想される中で、危機ではなく平時の対応としてデジタル化を進めるのは、むしろ日本にあったやり方なのかもしれない。

 しかし、デジタル化とは具体的に何をするのだろうか。紙とペンによる文書作成などはずっと前から過去の遺物だし、コロナ禍でオンライン会議も日常に溶け込んでいる。確かに官庁の中にはオンライン会議の接続が悪かったり、それを好まないとするところもあるだろうが、別にオンラインで会議をすることがデジタル化ではない。

 重要なのは、個人がそれぞれに使っていたデータをより広い範囲で共有することだ。もちろん、これまでもファイルの転送などを通じた共有は行われてきたわけだが、それをさらに進め、リアルタイムで同じものを同時に利用する──閲覧だけでなく編集を行う──というような文字通りの共有を行うのである。そうなれば、もはやそのデータ/ファイルは特定の個人のものではなくなる。

 政府におけるデータという観点から重要なのは、このような共有が政府の保有する文書の性格を大きく変えうることだ。これまでは、誰かのPCで作られた最終的な成果物が政府の文書として発表され、それが作られる経緯は基本的にブラックボックスの中にあった。しかし、多くの関係者がアクセス可能なかたちで文書が作られていくとき、その「多くの関係者」の中に政府外部の人、一般国民をどの程度含めるかという論点が出てくる。言うならば、デジタル化による情報共有が情報公開へと一本の線でつながっていくのである。

 必要になるのは「基本的に政府だけが持つ情報をどのように公開するか」というこれまでの発想から、「多くの利害関係者が共有する情報のうちどれを秘密にすべきか、どのようにアクセス制限するか」という発想への転換だろう。基本が秘密で選択的に公開するのではなく、基本が公開で選択的に秘密にするのである。しかし、現在の政府にはこのような情報公開への準備があるように思えない。個人情報保護法制の改革も途上であり、大騒動の末に導入された特定秘密保護法がそのように運用されているわけではない。文書に番号をつけたり版の管理を行ったりという運用が行われているという話も聞かない。

 政府で働く官僚にとっては、自分のPCの中身を人に見せるような不快感を覚えるかもしれない。これは実際その通りだろう。中身を見せることでアカウンタビリティを高めることが求められているのである。それに対して、個人用の職場にPCを持ち込んで対応するようなことは論外だ。結局そこで求められるのは、仕事においてデータを共有するとともに、そのデータを使う仕事と私生活の峻別をすることなのである。

 これは、無定量・無際限(『官僚たちの夏』)に働くことが美徳とされた時期もあった日本の官僚制にとって、長く続く課題でもある。私生活を犠牲にして仕事を行うことは「働き方改革」でも課題となっている。さらに、言わばその反射的利益として、官僚がその分野の「専門家」たることを暗黙に保障してきたデータの私的な蓄積も論点になるのである。デジタル化が進む鍵は、公務における働き方のモデルの刷新ができるかどうかとなるだろう。 神戸大学教授

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