2023年9月号「めいん・すとりいと」
面倒な病にかかってしまったとする。医師からもらったクスリを飲んでみてもどうも効いている気がしない。それどころか多少、副作用も出てきた。さあどうする。
私の場合、効かないとわかれば即座にやめる。するとどうなるか。もちろんそれで病気が治るわけではない。しかしそのクスリはそもそも効かないのだから、やめても困ることが起こるわけではない。少なくとも副作用はなくなり、医師にかかる前の体調までは戻せる。
本題に入ろう。日銀の金融政策だ。異次元緩和の終わりが見えてきたようだ。日銀はこのクスリを10年間処方し続けてきたが、残念ながら効かなかった。色々議論はあるだろうがデフレから脱却できなかったという事実がすべてだと思う。しかし幸運にも、日本の物価上昇率は、パンデミックや戦争という外生的な力に支えられて上がり始めたので、デフレ脱却、そして金融政策の正常化が視野に入ってきた。
ところが、ここにきて不思議な主張が幅を利かせている。それは、異次元緩和の出口では大混乱が起きるという予言だ。
なぜこの予言が不思議なのか。理由は単純だ。異次元緩和というクスリは効かないクスリだった。副作用も少なくなかった。そのクスリをやめようというのだから、悪いことは何も起きないはずだ。大騒ぎする理由がどこにあるというのか。
事実を整理しよう。日銀は大量の国債を買った。そしてその代価としてマネーを大量に供給した。しかし、その量があまりに多かったので、人々が必要とする量を超えてしまった。やや専門的になるが、マネーの量が「飽和点」を超えてしまったということだ。どんな食べ物でもそうだが、飽和点を超える量をもらって喜ぶ人はいない。それと同じで、飽和点を超えるマネーをもらっても誰も喜ばない。したがって経済は活性化されずデフレも治らない。クスリが効かなかった理由はこれだ。
異次元緩和の出口とは飽和点を超えたマネーをもう一度日銀の金庫に戻す作業だ。皆がこれ以上要らないと言っているマネーを戻すに過ぎないのだから、何も(良いことも悪いことも)起こらない。出口についておさえておくべき勘所はこれだ。
では、出口で大混乱が起きるという主張は根も葉もないデマなのか。日銀による大量の国債購入は高値でなされた。高値で買い取る=金利を下げる、なので、これは正当な購買だった。しかし出口で売却する際の価格は低い。出口とは金利の高い経済への移行だから、これも当然のことで、日銀に非はない。しかし、結果として見ると、日銀は国債を高値掴みしたことになり、出口で損を被る。
出口での大混乱を予言する論者はこの損失を問題視する。しかし、効かないクスリをやめるだけなのに損失が生じるのは一体なぜなのか。日銀の国債買い取りの相手は金融機関だ。その金融機関は誰から国債を買ったかと言えば財務省からだ。つまり、日銀が高値掴みで損をした裏側で財務省は同額の利得を手にしていた。最近の研究によれば、この利得のお陰で、異次元緩和の間、政府債務のGDP比は上昇を回避できた。
効かなかった政策をやめても悪いことは何も起きない。これはマクロの視点だ。だが、ミクロでは、誰かが損をし、別の誰かが同額だけ得をするという、ゼロサムの所得移転が起き得る。いったん起きてしまった所得移転を巻き戻すのは普通は容易でない。しかし今回は幸いなことに当事者はどちらも公的主体であり、巻き戻しは可能だ。
金融の正常化という「ポリシー」の議論と、公的主体間の所得移転という「ポリティクス」の議論をきっちり切り分けることを提案したい。東京大学教授