『公研』2022年3月号「めいん・すとりいと」

 

 パンデミック3年目に入り、経済への影響に変化が見られる。最も顕著なのは物価だ。米国は、昨年秋からインフレ率が急上昇中で、ロシアのウクライナ侵攻もあり、今後、加速が見込まれている。物価上昇の波に襲われているのは日本も同じだ。ただ、足元のインフレ率は米国ほど高まっておらず、パンデミック前から顕著だった日米のインフレ格差は拡大しつつある。

 パンデミックの物価への影響は需要と供給の両面から来る。まず需要サイドは、感染を恐れる消費者が外出を控え、支出を抑えることによって需要が減少する。需要の減少は物価を押し下げる。

 供給サイドはどうか。大事なポイントは、感染を恐れるのは消費者だけでなく、労働者も同じということだ。感染を恐れる労働者は、労働の現場で顧客や同僚と接触するのを避けようとする。その結果、生産活動が停滞し、供給が減少する。供給が減り、品不足になるので物価は押し上げられる。

 消費者の恐怖心はデフレを、労働者の恐怖心はインフレを引き起こすというのは興味深い。

 パンデミック1年目は、需要の減少が非常に大きく、それと比べれば供給の減少は軽微だった。その結果、日本や米国を含む各国で、物価が低下した。

 ところが、2年目以降は、供給不足を示唆する現象が目につく。筆者が注目しているのは、米国や英国で起きている、労働者の労働市場からの退出の動きだ。初期の混乱がいったん収まった2020年夏以降、労働者側の自発的な理由で職を離れる事例が急速に増えており、米国では、月間の離職者数が昨年末に450万人という、未曽有の水準に達した(離職率は3%)。

 離職者はなぜ増加しているのか。ひとつの仮説は、労働者が顧客との接触による感染を恐れ、職場から退避しているというものだ。実際、離職増は、飲食や小売りなど接客業で特に顕著だ。また、米国では、パンデミックを契機に、働くことの意義を問い直す動きが広まっており、それも離職増に拍車をかけている。パンデミックを機に、米国や英国の労働市場を「大離職(Great Resignation)」の波が襲っているとの見方もある。

 米国は早期の経済再開に成功した。その一方で、労働者の恐怖心に起因する労働供給の減少で供給が追いつかず、それが物価を押し上げている。一方、労働供給の減少に伴う労働需給のひっ迫は賃金上昇を引き起こしている。つまり、物価高と賃金高の同時進行だ。

 日本でもこの先、米国型の物価高・賃金高が起きるのか。パンデミックの健康被害は、日本は米国の1/10以下だ。素朴に考えると、労働者が感染を恐れ、退避するということも起きにくいはずだ。実際、日本で離職が目立って増加しているという事実はない。この状況が維持されるとすれば、第6波の後に本格的な経済再開が始まり、需要が回復する局面を迎えたとしても、供給が追いつかないということにはならないだろう。

 ただし、パンデミック下での人々の行動は予測がとても難しい。例えば、パンデミック1年目の日米のGDPの落ち込みは同程度だったが、健康被害に大きな差があるにもかかわらずなぜ同程度かを考察した筆者たちの研究によれば、日本の消費者は米国の消費者と同程度の恐怖心をもち、同程度の外出抑制を行ったからだ。

 消費者が日米で同じ行動をとったのだから、労働者もそうかもしれない。確率は低いかもしれないが、日本の労働者も、恐怖心から労働の現場で顧客や同僚と接触するのを避ける、あるいは、パンデミックを機に働く意義を問い直すようになり、その結果、労働供給が減る可能性はある。米国型の物価高・賃金高が日本で起きることはないと決めてかかるのは早計だろう。

東京大学教授

 

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