『公研』2025年2月号 第 660 回「私の生き方」

元プロ野球選手、解説者、タレント

川藤幸三


かわとう こうぞう:1949年福井県生まれ。68年若狭高校卒業。67年のドラフト会議で9位に指名され、阪神タイガースに入団。76年以降は代打の切り札として打者専任となる。86年オールスターゲームに出場。同年に現役を引退。89年阪神総合コーチ。以後、プロ野球解説者、タレントとして活躍。2010年から24年7月まで阪神タイガースOB会会長を務める。著書に『代打人生論』『川藤幸三の豪快人生相談』 など。


 

 

かき氷で買収されて野球を始める

──1949年、福井県三方郡美浜町のご出身です。美浜町はどんなところですか。

川藤 あんなにいいふるさとはないですよ。海と山、田んぼと畑──。あの大自然が自分を育てた基本やと思っているから、ふるさとほどありがたいものはない。

──やはり活発な男の子だったのですか。

川藤 日中に家にいたことはほとんどない。親父からは、「男たるのは、家のなかにおらんと外へ出て遊べ。晩飯まで帰ってくるな。ただし、早く飯を食いたかったら、田んぼの仕事を手伝え。それが嫌やったら、勝手に遊んでこい」と。だから、学校が終わっても家になんかまともに帰ったことはない。

 海が遊び場で、夏になると知り合いの手漕ぎボートを「借りるで」と言って、沖まで漕いで遊んでた。台風が来ているときに沖まで行ったことがあって、それでも平気やと思っていたら海が渦を巻いている。さすがにこれは危ないな、と困っていたら大人が迎えに来てくれたこともある(笑)。

──小さい頃から野球に夢中だったのですか?

川藤 野球なんかしとったら腹減るやん。まったく興味なかったですね。小遣いももらえへんし、おやつなんてないから常に腹ペコや。今の時代ならアウトやけど、腹を満たすために海に潜ってサザエを獲って岩場で焼いたり、よその畑の野菜を荒らしたりしていた。そっちが忙しくて野球をしている暇なんてなかった(笑)。野球は小学校6年生のときに、かき氷で買収されて仕方なく始めたんです。

──どういうことでしょう?

川藤 近所に「よっちゃん」っていう小学校、中学校の先輩がいたんです。夏休みに悪ガキたち5人と海で遊んでいたら、声を掛けられて中学校のグランドまで連れて来られた。

 「ここで何するんですか」と聞くと、「野球やるに決まっとるやろ。球拾いせえ」「嫌じゃ。腹減るやん」──。

 そうしたらよっちゃんが、「お前らにかき氷を食わそうと思ったけど止めた。このクソ暑いのにカキ氷いらんのかい」と言う。「よっちゃん! ちょっと待ってや。考えさせてくれ」と答えると、「食ってから考え!」って。

 それで野球を始めることになった。まさかそれからずっと野球をすることになるとは思わんかった。

 近所の「よっちゃん」というのは、後に伏見工業高校(京都工学院)のラグビー部を監督して率いて日本一になった山口良治さん、テレビドラマの『スクール☆ウォーズ』のモデルになった方でもある。よっちゃんは、大学時代にラグビーで日本選抜にも選ばれた人やけど、中学までは野球をしていた。母校の野球部が部員不足と聞いて、ワシらを勧誘しに来たわけや。「お前ら来年中学に入ったらにここへ来るんや」って。

 

絶対に甲子園に出る

──まさにアメとムチですね。最初から野球は上手だったのですか?

川藤 小学校のときには走るのは負けなかった。だけど身体は小さい。同級生の悪ガキ仲間にワシのライバルがいて、そいつは身体が大きくてパワーがあった。全然違うタイプだったこともあって、すごく仲がよかった。中学ではそいつが4番バッターで、ワシは1番。ワシも身長は174センチまで伸びたから日本人としては高いほうやけど、中学でもエースでも4番でもなかったから、身体が小さいことを卑下するような意識はあったな。

 二つ上の兄貴(川藤龍之輔氏、投手として東京オリオンズ、巨人などに在籍)も野球をやっていて、若狭高校時代には1年生でベンチ入りして甲子園にも出ている。当時は歳が二つ離れていたら遊んでももらえないという感じで、ワシからしたら憧れの存在やった。兄貴の応援で初めて甲子園に行ったときは、球場が丸いことに本当に驚いた。ライトは松林、レフトは田んぼみたいなグラウンドで野球をやっていたわけやからね。絶対にまた甲子園に来たい。あそこで野球をやりたいと心底思った。

──お兄様と同じ若狭高校に進学されます。

川藤 当時、野球部には1学年に100人ぐらいの部員がいた。ワシは3年になったら、その中でトップになって絶対に甲子園に出るという目標を立てた。そのときの監督は憲兵隊上がりの人で、学校の先生じゃあらへんし、とてつもなく指導が厳しかった。しばかれようが何をされようが、「ありがとうございます」と言って頭を下げる。そういうことがまかり通った最後の時代やな。今やったらすぐに問題になるだろうけど、そういう厳しい指導を受けて、野球だけではなくて、人間としての道を学んだと思ってる。

 夏の大会のひと月前になると、仏国寺というお寺に行って坐禅をして原田湛玄さんという和尚さんの教えを聞くことが野球部の恒例になっていた。監督がこのお寺の檀家だったので、練習の一貫に坐禅が取り入れられていたわけや。1年生のときのこの経験はなんか知らんけど、ワシのなかでは強く印象に残ることになった。

 2年生の秋になると3年生の先輩たちが引退して、ワシらの代が野球部を引っ張っていくことになる。そのときには監督は変わっていて、新監督から「お前がエースで4番や。チームを引っ張れ!」と。ところが、そう言われて初めて、1年生のときに「絶対に甲子園に行く」という目標を立てていたことを思い出した。

 

「川藤、仲裁してくれ」

──最初の目標を忘れていたのですか。

川藤 学校も手の付けられないような、どうしようもない悪ガキで、校長が前から歩いて来ようが「どけ! この道はワシが歩くんや!」って。よその学校の番長と番長が喧嘩しとったら、「川藤、仲裁してくれ」とわざわざワシのところにやってくる。そうすると「お前ら、またくだらん喧嘩をしよって」と言って、間に入る。そういうレベルの悪ガキやった。だから甲子園のことなんか、もうすっかり忘れとった(笑)。

 だけど監督に言われて、「そうや、仲間たちと甲子園に出ることは最初に決めたワシの目標やないか」と思い出した。そのためにこの2年間で何をしてきたのかと振り返ったら、こらあかん。いま言ったようにチンピラみたいな毎日を送ってきたわけや。とてもチームを引っ張ってまとめ上げるようなことはできん。このままやっても、甲子園なんかムリや。何かを変えなあかん。

 それで考えとったら、1年のときにお寺で坐禅したときの、あの和尚さんの顔が浮かんだ。あの人やったら、こんな悪ガキでも相手してくれるはずや。あの人のところへ行こうと。練習が終わると、すぐにお寺まで走っていって、「お願いがあります。どうしても甲子園に行きたいんです。じゃけど、いまのワシの気持ちや性格ではチームをまとめることができません。根性を叩き直してください」と頭を下げた。

 そうすると、「そうですか。じゃあどうしますか?」と聞かれるので、「毎朝、走ってお寺に来ます」と答えた。その後も「何分かかりますか?」「30分で来られます」「何日やりますか?」「和尚さんがいいと言うまでやります」と答えたら、ようやく「明日から来なさい」と言ってくれた。それで、翌朝5時から和尚さんのもとに通えることになった。前の晩は、これで道が拓けると思ってワクワクしましたよ。「よっしゃー!」って。魚屋さんに下宿していたから、おっちゃんもおばちゃんも朝は早い。だけど、それよりもっと早くに起きて、30分かけてお寺まで走っていった。

 5時にお堂に座っていると、和尚さんがやって来る。「じゃあ、始めましょう」と言って、向かい合って座る。最初の15分は一言もしゃべらず、ただシーンとしているだけ。「はい、一休みしましょう」と。最初の15分は静かに座って、次の15分で教えを授けてもらえるものやと思っていたら、また15分シーンとして時間が過ぎるだけ。そして「はい。今日は終わり。帰りなさい」と言われた。

 初日だからこんなものかと思っていたら、翌朝もまったく同じ沈黙の15分が2回続いて、「帰りなさい」と。3日経っても、5日経っても一言も言ってくれん。元々のチンピラの気があるから、腹わたが煮えくり返ってきた。

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