『公研』2021年6月号「めいん・すとりいと」
米国の大学は、5月から6月にかけて年度末の喧騒のなかにある。本年度はなんと言っても、コロナ禍に振り回された一年であった。筆者が教鞭を執るサザンメソジスト大学(SMU)は、昨年8月から学生をキャンパスに入れて、Zoomを使いながら、教室にいる学生とリモートで履修する学生の両方が同時に参加するという授業を行ってきた。こうしたハイブリッド形式の対面授業は教員に負担を強いることになるが、やはり教室で学生の顔を見ながら授業するというのはいいものである。5月15日に行われた対面での卒業式には2年ぶりに出席し、難しい時代に船出をする学生たちにエールを送った。
それにしてもイヤな世の中になったものである。コロナ禍のなか、昨年から今年にかけて、米国ではアジア人に対するヘイトクライムや暴力行為が急増した。筆者は渡米して25年になるが、今が一番身の危険を感じる。昨年来のパンデミックのなかで、トランプ政権がコロナウイルスを「中国ウイルス」などと呼んだために人種差別主義者を勢いづかせてしまい、コロナ下での生活にむしゃくしゃしていた人たちがアジア系をターゲットに憂さ晴らしをするようになった。物盗りが目的なら気をつけようもあるが、襲撃そのものが目的であれば対策の立てようもない。筆者はこれまで直接被害は受けていないが、街で白人とすれ違う際に、つい「どう思われているか」と意識してしまう。この意識が収まるには時間がかかりそうである。
ところで、米国ではアジア系が「モデルマイノリティ」というありがたくないレッテルを「押しつけられている」のをご存じだろうか。黒人やヒスパニック系を差別するために、「おとなしく、我慢強く、事を荒立たせるようなことはせず、黙々といい仕事をする」アジア系を利用したもので、白人の都合で「模範」にさせられているアジア系にはいい迷惑である。アジア系は教育や所得の水準が総じて白人よりも高いために、アジア系に対する人種差別は存在しないという思い込みもある。今年3月にアトランタで起きたマッサージ店襲撃事件では、殺害された8人のうち6人をアジア系が占めたにもかかわらず、犯人が人種に基づいた動機を否定したために、ヘイトクライムではないという議論が巻き起こった。襲われたのがユダヤ系や黒人だったら、なんの疑いもなくヘイトクライムに分類されたであろう。警察が、動機について「犯人の機嫌が悪かったから」(He was having a bad day)と記者会見で述べて顰蹙を買った。モデルマイノリティという思い込みゆえに、アジア人はむしゃくしゃしたときの攻撃対象になりやすいという現実がある。
実際には、「モデルマイノリティ」という神話は至るところで厳然と存在する。たとえば、大学では、教育水準の高いアジア系が教員に占める比率は高いのであるが、学長(President)や副学長(Provost)、学院長(Dean)といった役員に占める比率は驚くほど低い。要は、アジア人はモデルマイノリティとして研究や教育などを通じて大学に黙って貢献していればいいのであって、自分たちの組織をアジア人が率いるのは真っ平御免ということであろう。筆者も白人教員の不適切な態度に嫌な思いをしたのは一度や二度ではない。学院長レベルの教員に理由なく怒鳴られたこともあったし、セミナーの段取りを整えたところで「俺のゲストを盗んだ」と言いがかりをつけてきた同僚もいた。そのたびに、白人相手だったらそういう態度は取らないだろうと思ってしまう。
人種差別はこの4年の間に生まれたものではないにしても、トランプ政権がマイノリティに嫌悪感を抱いていた人たちに暴力行為へのお墨付を与えたことは否めない。アトランタ(アジア系)、ミネアポリス(黒人)、エルパソ(ヒスパニック系)でここ2年のうちに起こった事件は、マイノリティに対する、たまっていた憎悪のマグマが噴出した結果である。今年1月6日に起きたトランプ支持者による反政府暴動を報じるとき、メディアでは「This is not America」ということばが頻繁に聞かれた。しかし、暴力と人種差別のアメリカも現実なのである。
長期戦になることは必至だが、解決に向けては、人種を超えて一人一人が「自分たちの戦い」(our battle)という意識を持って取り組んでいくしかないだろう。 サザンメソジスト大学(SMU)准教授