タイガース伝説の4番打者遠井吾郎
──先輩の選手で影響を受けた方はいらっしゃいますか?
川藤 遠井吾郎さんには、いろいろな経験をさせてもらいました。よく飲みにも連れて行ってもらいました。行くときはいつも、「お前、明日打つんか」と聞かれて、「はい、打ちます」と答えると、行きつけの飲み屋に連れて行ってくれる。少しでも返事にためらうようやと「帰れ!」と一言。遠井さんに飲みに連れて行って欲しいから、試合で結果を出せるように努力するわけや。
やっぱり先輩が後輩を飲みに連れて行くのは、もちろん可愛がっているのもあるけど、将来性があると見込んでくれているわけや。結果が出せないようなダメなやつのことは誘わない。当時の先輩たちは歳上というだけで偉そうにしていたけど、遠井さんは若手に先輩風を吹かしたりしないし、余計なことは一切言わん。それに派閥をつくったりすることを嫌がってた。
とてつもない酒豪やったから、遅くまで飲むことが多いのやけど、練習に行くとみんなが来ないうちから雨ガッパを着込んで走っとる。周囲から何を言われたって、いい仕事をするために酒を飲んでいるんだったら、どうってことはない。こういう姿の先輩もおるんやなとワシは尊敬していましたよ。
アキレス腱断裂が代打専任のきっかけ
──プロ入りから6年目の1974年のシーズンでは58試合にスタメン出場されます。しかし、翌年のオープン戦でアキレス腱を断裂する大怪我に見舞われます。俊足が持ち味の川藤さんにとっては、選手生命を左右しかねない事態です。
川藤 アキレス腱を故障したときは、ワシの野球人生って所詮こんなもんかいとさすがに腐りかけた。せやけど、そこで考える時間ができたのは有り難いことやったと思ってる。それまでのワシは、頭で考えることがほとんどなかったからな(笑)。この怪我が治るまでの2年間で、プロ野球の世界で生き残るためにはどうすべきなのかを真剣に考えることになった。
ちょうど江夏豊さんがトレードで南海ホークスに移籍して、野村克也さんと一緒に「抑え」という役割を構築して、プロ野球に革命を起こそうとしていた時期やった。あれだけ先発完投と三振にこだわっておった江夏という男が、抑えに回ることで野球というゲームのあり方そのものを変えた。野球の世界にもだんだんと分業の考え方がされるようになったわけや。
投手が先発、中継ぎ、抑えと分業したように、野手も打つ、守る、走るの三つの要素でそれぞれスペシャリストの存在が求められるようになりつつあった。つまりは守備固めや代走、そして代打のスペシャリストや。
ワシは、自分の長所は足の速さと肩の強さにあると考えておった。けれども、怪我でかつてのようには走れなくなった。それに代走や守備固めだけで世間に知られることはまずないし、それで飯が食えるやろうかと考えた。だったら、打撃を磨き上げて代打の専門をめざそう。バット一本で飯を食えるようになったろうと。
──守備や走塁も重要ですが、やはりチャンスで打った選手がヒーローになる。
川藤 そう。タイガースからすれば、巨人戦で打ってヒーローになればその晩のスポーツニュースや翌朝のスポーツ新聞で大きな活字が踊るわけや。だけどそれは独りよがりで、ワシの打撃など首脳陣は誰も評価していない。バッティングのいい投手のほうがワシより上ぐらいに思っとる。それまでレギュラーを取れずに補欠だったわけやから、そう見るのは当然や。何とか首の皮一枚でつながっている状況で、いつクビになってもおかしくない成績しか残していない。
それでもワシの打撃に一目置いてもらうためには、首脳陣に「いつの間にそんなに上手になったんや」と思わせなあかん。そのためには首脳陣がおる前で練習なんかする必要はない。むしろ、やったらあかんのです。そういうアピールをすると、監督やバッティングコーチに「ワシを使ってください」という弱い自分が出てしまう。そうやなくて、普段から徹底的に自分を追い込むぐらいの態度でいたほうがいい。監督やコーチが言うことを素直に聞く必要もないし、反発するくらいでいたら嫌がうえでも目立ってくる。そうやって自分の首の皮がどんどん薄くなるように振る舞ったほうが覚悟は定まってくる。もちろん礼儀はわきまえますよ。無礼にしたほうがいいというわけやない。
ワシにほんまに運がなかったら、たった一度のチャンスもないかもしれない。けれども、少しでも運があれば1回はチャンスが回ってくる。その打席でヒットを打つか打たないか、1打数1安打にできるかどうか。それに尽きるわけや。最初は打点が付く大事な場面では使ってもらえへんから、大差で負けているような試合で「行ってこい」とチャンスが回ってくる。そのときにヒットを打てたら、2回目のチャンスが絶対にくる。
ワシがバットで飯を食っていくには、常に打ち続けていくしかない。これはまぐれや。でも、そのまぐれをやらない限り、プロ野球の世界では飯を食っては行けない。打てなければ、いずれはクビになるのがオチや。
1打数1安打1打点
──もう後がないという状況をあえてつくって、勝負に集中するわけですね。
川藤 打てなかったらクビになると腹を決める。逆転の発想やないんやけど、そうやって自分を追い詰めると、最後の最後にお天道さんがチャンスを与えてくれるんです。そのチャンスがすべてだと思ってやってきたわけです。
ありがたいことに、その絶好のチャンスが甲子園の巨人戦でやっとめぐってきた。延長12回裏、2アウトランナー1、2塁で、ピッチャーの打席、野手はみな出払っていて、残ったのはワシ一人。監督はワシの顔を見ると、「お前か……。まぁ行け」と。
そのチャンスをものにして、1打数1安打サヨナラヒットで打点が付いた。あくる日のスポーツ新聞は、報知新聞以外はぜんぶワシが一面で、でっかく「川藤大明神」なんて書いてくれたところもあった。ここから始まって、ワシの人生が変わっていった。
しばらくすると、そういうチャンスがまた来た。またヒットを打った。マグレが3本続いたんです。そうなると首脳陣の意識も変わってくるし、相手チームの目も変わってくる。「あいつには注意や」と見てくれたら、逆に意識してコントロールが甘くなるピッチャーもいる。それを確実に捉えて、ヒットの本数が増えていった。こうしてバット1本で飯を食う道が拓けていったわけや。だからこれは、アキレス腱を負傷したおかげやと思っている。足と肩で勝負していたら、今のワシはなかったやろうな。
集中力の高め方
──成績を振り返ると、1979年から1981年まで4年連続で3割を超える打率を残しています。また1984年のシーズンでは打点20を記録しています。毎試合1打席に限られていたことを考えると、驚異的な勝負強さです。なぜここぞという場面で打てるのでしょうか? 集中力を高める秘訣はありましたか?
川藤 ワシの出番は大抵は終盤やから、大体5回くらいまではベンチでウトウトしていて寝てるときもあった。三塁側にテレビカメラがあってベンチ内を写すから、帽子をいつも深く被ってた。そうすると帽子のツバで影ができてワシの顔が見えへんから、寝てることがバレへん。監督の視界にも入らんようにしとったけど、マネージャーが気付いて「カワ、また寝とるやろ!」なんて注意されると「何を言ってんですか。じっと目つぶって、攻略考えてたんじゃないですか」と誤魔化してた(笑)。
じゃけど5回くらいから目を覚ます。そこからゲームの展開を読んで、自分の出番がどういう場面で回ってくるのかをイメージする。例えば、チャンスで下位打線に打順がまわってくるとして、そのときのピッチャーは誰なのか、どういう球種を持っているのか。そういう読みはしておくわけや。そして身体もつくり直して、ベンチ裏の鏡で自分の目を見て自問自答する。
「おい、川藤! どや! 行けるか!」「自信がない」「じゃあ誰が行くんじゃ。代わりに行ったやつが打ってヒーローになったらどうするんや?」「情けないやつやのぅ。そいつが打てんかったらどうする?」「やっぱりワシや!」「ここはワシしかおらん。そのためにワシがおるのや。だから絶対に打つ!」──。
こんなふうに自問自答をして腹を決める。そのときに鏡でパッと自分の目を見る。その瞬間に監督から、「川藤、行くぞ!」と声が掛かると「はい!」と答える。それで打席に立てる。和尚の教えを実践してきたわけや。
──最初から自信満々なわけではない。
川藤 自信もクソもあらへんねん。クリーンアップが打てないところに「おい、川藤。お前が行ってひっくり返せ」と言われて、「はい! わかりました」と打席に立つ。普通に考えて、そんなんできるわけないやん。そんなもんハッタリでしかない。そのハッタリでも正直にやれるか、やれないのか。チャンスの場面で出ていくほど嫌なものはなくて怖いわけ。結果を残せなかったら、タイガースファンの失望の視線や罵声がスタンドから矢のように刺さってくる。
だから、いつもガタガタしていて怖い。正直に言えば、ビビっとる。だけどそれを相手に見せたら負けや。それに、チャンスで声がかからない自分だったら情けないやないの。いつも不安だったけど、その気持ちを振り払って打席に立つ。ヒットを打ってファンの大歓声を浴びると、エベレストの頂上から「お前ら見たかー!」と雄叫びを上げるように気持ちがいい。