原田湛玄和尚の二つの教え

──教えを請いに早起きしてお寺に行っているのに、沈黙が続くだけでは穏やかではいられませんね。

川藤 内心では和尚さんじゃのうて「このクソ坊主め!」と呼ぶようになってた。じゃけど、ワシから頭を下げたんやから、絶対にこの和尚さんから逆に言葉を取るまでは、絶対に止めたるかいと意地になってお寺に通った。それでも10日経っても何も言わない。

 それが2週間目の1回目に座っているときに、「どうもおかしい。これはひょっとしたら何か試されとんちゃうか」という考えがふっと頭に浮かんだ。

 その瞬間に「おい、川藤。お前はいま何を考えていた?」と和尚さんが口を開いた。

「何を考えているって、ワシは腹が立っています」「何に腹を立てているのか」「だって、和尚さんはワシが来たとき、翌日から一緒にやりましょうって言うてくれたやないですか。それが毎日『帰れ』やないですか。ワシはだまされてるんですか?」と。

 和尚さんはニコニコしながら、遂に二つのことを話してくれた。一つは人間の覚悟について。「いったん、こうやります、と決めても人間の覚悟なんて浅いものなんです。あなたは野球選手ですね。今日からバットを1000回振ります。何日続きますか? 1日や2日は続きますが、5日もやってみなさい。手はずるずるになって、試合に出てもヒットは打てない、打球も飛ばない。あなたはどう思います?」

「ワシみたいなもんは、しょせんこんなもんかと思います」「そうでしょう。それが人間の弱さなんです。でもその弱さのなかでも本当の覚悟があれば継続できる」と。

 もう一つは自分の心をどう理解するのかということ。「お前さんは私のもとに『教えてください』と言ってきましたね」「はい、言いました」「では、私が白を黒と言っても、お前は『はい』と言うしかないですね」「それは確かにそうやと思います。それは教えですか?」と聞くと、「そんなものは教えではありません。教えというのは、自分のなかで『クソッタレ。この野郎』と思っていることを、自分でどう理解するかです。その心の動きをじっと見てきました。普通なら2週間は持ちませんが、ここらがちょうど潮時でしょう。ですから私は一言言います。『川藤、これでいいかな? ではもう明日から来なくてくてよい』」と。

 そう言われて、「わかりました。もう来ません」と答えるなんてアホなことはないわな。「明日からも絶対にきますので、お願いします」とお答えした。それから和尚さんは、いろいろな話を聞かせてくれるようになった。

 夏の甲子園に向けた県予選が始まる前日まで、毎日朝5時の座禅は続くんです。休んだのはお寺の行事がある元日の1日だけで、翌日からまた通いました。

 

甲子園出場を決めた逆転満塁ホームラン

──本当の覚悟を実践されたわけですね。

川藤 原田湛玄さんという和尚は、ワシという人間の基本をつくってくれた人生の師やと思ってる。今でもあのときに和尚さんから聞いた話は覚えていて、その後の野球人生にとって特に大きかったのは、臍下三寸(約9センチ)にある丹田に力を集めると本当の力が出るということ。

 普通は「よーし」と気合を入れると肩に力が入る。でも、これは本当の力じゃない。丹田に力が集まってきたら、本当の力が出るんです。坐禅は自然体で丹田に力を集められるための鍛錬でもあるわけや。ところが、座禅では1回もそれができなかった。

 不思議なもので、甲子園出場を賭けた夏の北陸大会の決勝戦という一番大事な場面で丹田に力を集めることができた。当時、甲子園出場は福井県と石川県で1校やったから、福井の県予選を勝ち抜いて、石川の代表と決勝戦を戦わなければならんかった。6回の表に1点を先制されて、その裏にノーアウト満塁でワシに打席が回ってきた。

 すると、ベンチから監督が呼んでいる。ここでスクイズの指示が出たら、ここまで何のためにやってきたのかわからん。監督の言葉を聞く前に自分から、「監督、この場は私に任せてください。絶対に打ちます」と伝えました。監督は「よしわかった。お前に任す」と。ワーっと気持ちが昂って肩に力が入りまくっていたのやけど、ネクストバッターズサークルから座席に向かっていく途中に何気なしに肘が腹に触れると、その瞬間に肩の力がフワッと抜けていって、その力が丹田に集まるのがわかった。夏の大会が始まる前に、和尚が持たせてくれたお守りを首からぶら下げとって、肘はそのお守りに当たったわけや。

 力を一切入れずにスッと打席に入って相手の投手を見たら、なぜか「初球はカーブや。それを打ったらいいんや」とわかった。本当にカーブがきて、身体が自然に反応してバットを振っていた。結果は逆転満塁ホームラン。最終的に7対1で勝利して、甲子園出場を決めた。

 

一番怖いのは赤ちゃんの目

──やはり勝負強いですね。禅の教えが野球にも応用できるのは興味深いですね。

川藤 和尚さんに聞いた「目」の話も印象に残ってる。あるとき和尚さんが「どうだ、にらめっこするか」と言うてきた。言葉では毎日ボコボコにやられとったけど、にらめっこでは負けるわけがないと思ってたら、不思議なことが起きた。

 和尚さんに負けたくないと、ワシがぐっと睨んだら、和尚の目がぶわーっと余計に大きくなってくる。意地になって睨み返すと、さらに大きくなる。そうすると周りが真っ黒になってきて、和尚の目だけがドンドンドンドン光ってくる。あの柔和な目がなんで、こんな目になるんやというぐらいの迫力でこちらに向かってくる。それでも負けたくないと思って睨んだけど、最後は大きな目に飲み込まれた。

 「負けました」──。

 瞼を一瞬閉じて目を開けたら、和尚はいつもの柔和な顔で、周りもまったく変わっていない。なんで人間の目であんなことができるのかと不思議で仕方がなかったが、禅の道を悟ったお方に、ワシごときが質問するのもおこがましいと思って、そのときは何も聞けへんかった。

 プロに入ってバッティングに悩んでいたときに、このときのにらめっこを思い出したんですね。そうや、あの目を勝負の世界で使うことができたら、相手のピッチャーにも絶対負けへん。和尚さんのもとにもう一遍行こうと。練習が休みの日にすぐに田舎に帰って、お寺を訪ねた。ワシが「高校のときにやったにらめっこの和尚さんの目を教えてください」とお願いすると、「お前はまだわからんのか」と怒られた。

 「私は鏡やぞ。こうして座っているときに私は鏡になっている。わかったか!」「あの目はワシの目やったんですか。ワシの目にはあんなに迫力がありますか?」「ええか、一つ言っておいてやる。あの目には何の迫力もないぞ。あの目はチンピラの目や。目を三角にして肩に力を入れてるだけや。あんなもんは弱いやつの恫喝みたいなもので、何も怖くない。お前は自分の目に自分で怖がって勝手に負けとる。一番怖いのは赤ちゃんの目や」「何でですか?」「赤ちゃんは正直だろう。怖いものは怖い、イヤなものはイヤ、楽しいものは楽しいと表す。いい人だったらニコニコ笑ってくれる。こんな正直な目はないん。周囲のみんなの心を正直に映すのが赤ちゃんの目だよ。あの大自然の中にある目ほど怖いものはないよ。これをお前がわかったときにはいろいろなことを感じることができる」──。

 このときはわかったようなわからんような感じやったけど、以来、鏡を見て自分の目を見つめて、目のつくり方を考えるようになった。この習慣は後に、代打として打席に入るときにも大いに活きることになるんです。

 プロに入ってからも、田舎に帰ったときには必ず原田堪玄さんのところに挨拶に行って話を聞いていました。ワシは吉川英治の『宮本武蔵』が好きで何回読んだかわからんくらいやけど、宮本武蔵に沢庵和尚がいたように、川藤幸三には原田湛玄が付いていたと思っている。

──大谷翔平選手も気負いのない澄んだ目をしている印象があります。川藤さんにはどう映りますか?

川藤 はっきり言って、今の大谷のことをとやかく言えるやつは、世の中に誰もいないでしょう。我々の世代が長嶋さんや王さんを見ていたように、今の野球少年たちは憧れの目で大谷を見ている。そういうレベルにある選手に対して、ワシのような雑魚が何も言っちゃいかんし、言えるもんでもない。

──お話しされた機会はありましたか?

川藤 メジャーに行く前の年にファイターズの名護キャンプを訪れて、読売テレビの番組でインタビューしたことがある。そのときにスタッフがワシと大谷の唯一の共通点を教えてくれた。実は、誕生日が7月5日で一緒なんですよ(笑)。話を聞いて感じたのは、素直だということ。変にカッコつけて、いいことを言わなきゃいけないとか、そういう力みが一切ない。この子は、本当にいい育ちしてきているなと思った。そこから先は何も言うことはない。やればやるほど、過去には誰もができなかったことばかりを達成している。もう本当に素晴らしい。それに尽きますよ。

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