ドラフト9位で阪神タイガースに入団
──1967年のドラフト会議で、阪神タイガースからドラフト9位で指名されます。
川藤 地方紙を見ていたら下のほうに小さい字で「川藤幸三(若狭高校)」と書いてあって、本当にビックリしたわ(笑)。スカウトがワシのところにやってくることもなかったから、ドラフトされるなんてことは考えもせんかった。新聞に載ってからも、球団からは何の連絡がなかったから活字のミスやないかと思っていた。そしたら1週間後に本当に「ぜひ入団してほしい。ご挨拶に行きたい」と。
それで契約金500万円、年俸72万円で契約したのだけど、親父が「これからは耕うん機が必要や。牛だの馬だのそういう時代やないやろ。この契約金のなかから耕うん機買うてもええか」と。お袋からは「見ての通り、我が家には冷蔵庫もない。どやろ。冷蔵庫買うてええか」と。さらには親父が「なあ、幸三。もう一つ相談がある。うちは農協に借金しているやないか。この残りのカネ、借金返済に使ってもええか」と。これで500万の契約金はぜんぶ消えた。丈夫な身体で産んでくれて、しっかり元気に育ててもらったから、親孝行ということで仕方ないと思うことにした(笑)。
──プロの世界でやっていけるという自信はあったのですか?
川藤 福井のド田舎やから、たまにテレビで野球中継をやっていても巨人戦ばかりやから、タイガースで名前を知っていたのはエースの村山実さんと吉田義男さんくらいで、誰がスターなのかも知らんかった。そんなもんでも、プロ野球に入るときは本気で自分も長嶋茂雄さんや王貞治さんになれると思い込んで、ワクワクしとったわけや。
ところが、阪神タイガースに入団して1軍の選手たちを見て、ワシはなんちゅう世界に来てしまったのかと思い知らされることになる。もう身体からして、完璧に大人と子どもですよ。プレーのスピードも速い。呆気に取られて、こんな人たちとこれからどうやって競い合っていけばいいのかと一気に不安になった。そのくらいの差を感じたな。
自主トレの初日に、練習が始まるまえにトイレに行ったら、甲子園の芝を管理する園芸担当者のおっちゃんから「ここはタイガースの選手が使うトイレや! 出てけ!」と怒鳴られたん。「ワシ、今年タイガースに入った川藤いうもんやねん」「お前、タイガースの選手か。えらいちっこいやつやのー」と。
一般の人から見ても、それくらい小さくて貧弱に見えたわけや。すっかり怖気付いてしまった。その様子を見て、叱咤激励してくれたのがワシをタイガースに引っ張ってくれたスカウトの河西俊雄さんでした。「ええか、川藤。身体の大きい、小さいなんて関係ないんじゃ。周りの大きな選手を見て、自分をとにかく卑下しとるやろ」と。まったくの図星ですよ。けれども、「お前は大きな人間には勝てないと思っとるが違う。今の巨人軍の選手を見てみ。長嶋は178、王は177。174のお前とそんなに変わらんやんか」と言うんです。それを聞いて、確かにそうやなと。周りの連中は身体もスピードもすごく見えたが、ビビってしまっては話にならん。
それで気持ちを切り替えて、二つの目標を立てた。一つは優勝したい。メンバーに入って、チームの優勝に貢献したい。もう一つは、オールスターゲームに出場したいと。選ばれるためには、何かに突出した選手になって、数字を残さなければムリや。当時のワシは足だけは速かったから、日本一の走者になろうと考えた。
ウェスタンリーグ「幻の盗塁王」
──今回のインタビューに際して、川藤さんの過去の成績などを見て驚きましたが、若い頃は俊足と強肩を持ち味にされていたのですね。意外に感じました。
川藤 プロ入り2年目に、ウェスタンリーグでシーズン30盗塁を決めてトップだったこともある。当時の2軍は年間で60試合くらいしかなくて、しかも頭に死球を受けて入院する羽目になったから、後半戦はほとんどゲームに出ていない。
──圧倒的な数字ですね。
川藤 ただ、盗塁王のタイトルは取ってない。何でか言うたら、ウェスタン盗塁の部門ができたのは翌年からなんですよ。イースタンにはすでにあったけど、ウェスタンには盗塁部門はなかった。それで球団に「おかしいやんか」と文句を言ったら、日本野球機構に掛け合ってくれて翌年からその部門ができた。ほんなもん、ワシにとっては意味あらへん。納会のときに球団からトロフィーをもらっただけや。そこから後も表彰には縁がない。せやけど文句を言ったことがきっかけになって、盗塁部門が新しくできた。それもワシらしい人生やなと思う(笑)。
「この下手くそが! また降りてきたか」
──高卒1年目で1軍昇格を果たすなど、デビュー当初は順調でしたが、その後は1軍になかなか定着できない状況が続きます。
川藤 ある年に開幕からヒットも打ててそれなりに調子が良くて、2軍に落とされることはないやろうと思っていたシーズンがありました。それでも急に「明日から2軍や」と言い渡された。「何でや!」とハラワタが煮え繰り返る気持ちやったが、仕方ない。
当時の2軍監督は「ミスタータイガース」と呼ばれた藤村富美男さんの弟さんの藤村隆男さんやった。2軍に落とされた翌朝の練習に参加すると、藤村さんの第一声が「この下手くそが! また降りてきたか」と。それで1日ふれくされていると、練習が終わると隆男さんに呼び出された。「なんじゃい、お前の今日の態度は!」「そんな、ワシの気持ちを何にもわからんで、あの言葉を聞いたら頭にもきますよ」とワシが答えると、藤村さんは「今のタイガースにいる60人の支配下選手のなかでお前何番目や?」と聞いてくる。当時は江夏豊、田淵幸一、藤田平が御三家で、誰もが認める実力があった。ワシは1軍と2軍を入れ替わっているわけだから、「30番目くらいですかね」と答えると、「な、所詮それがお前の今のレベルや。御三家とは言わなくともベストテンぐらいに入ってみぃ。誰もお前のことを2軍に落とそうとは考えないはずや」と。
確かにその通りで、それだけの実力を備えていれば、少しヒットが出ないくらいでは2軍という話にはならん。そう言われた瞬間に、チームが常に必要とする存在に自分自身がならなあかんことに気が付いた。
「わかりました。ワシはこれから、もういちいち上の顔なんか見ません。自分の足元をしっかり固めます」「そういうことや」と。
──藤村隆男さんの言葉は厳しいようだけど、本質を突いていますね。
川藤 何も技術ばっかりが指導じゃない。言葉も大事なんですよ。それも耳障りのいい言葉ばかりがいい影響を与えるわけやない。キツいほうが返って選手を奮起させることもある。少なくともワシはそうやった。
2軍の試合には1軍の選手が調整のために出場することがあって、それで「スタメンから外す」と言い渡されたことがあった。ワシは「あいつが練習するためになんでワシが休まなあかんのです。嫌ですわ」と突っぱねた。藤村さんは「そうか。じゃあ、お前打つんやな。打たんかったら、もう使わんぞ」と焚き付ける。そういうふうにして、監督からボコボコにやってもらうことで自分を追い詰めていたわけや。藤村隆男さんは、ワシにとってはプロとして勝負の世界で生きることの意味を教えてくれた方でした。