『公研』2020年7月号「対話」

宇野重規・東京大学社会科学研究所教授×梶谷懐・神戸大学大学院経済学研究科教授

感染者と接触した個人を追跡するアプリなど、監視型テクノロジーの「効用」がクローズアップされる中で、われわれは国家との関係をどう考えるべきか。COVID-19(新型コロナウイルス感染症)は社会に何をもたらしつつあるのか。

感染状況に大きな影響を与える国のシステム

梶谷 今回、「コロナ後の世界」について考えていく上で、ぜひ胸をお借りしたいということで対談相手に宇野さんを指名させていただきました。と言いますのも、本日のテーマとも若干関係する『幸福な監視国家・中国』(高口康太氏との共著)が先日、中央公論の新書大賞に入賞したのですが、その際に宇野さんから好意的なコメントをいただいたからです。

 この本では、中国で進む監視社会化をジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』のような冷戦期の恐怖政治の象徴として理解するのではなく、日本も含めた西側社会でも進行しつつあるテクノロジーを利用した市民の監視・管理の強化の問題として書いたのですが、そこのところを読み取っていただき、とてもうれしく思いました。

宇野 私も本日の対談をすごく楽しみにしていました。いまタイトルの出た『幸福な監視国家・中国』も大変勉強になりましたが、それ以前に出された『日本と中国、「脱近代」の誘惑──アジア的なものを再考する』もすごくおもしろかったので、梶谷さんとは一度突っ込んでお話ししたいなと思っていました。

 なぜ、ヨーロッパやアメリカの政治思想史を研究する私が梶谷さんの一連の著作をおもしろいと思ったのかと言うと、分析する概念枠組みに親しみ深いところがあるからです。例えば、先ほど挙げた二つの著作でキーワードとなっている「市民社会」や「公共性」、あるいは「一般意志」は私のような西洋政治思想史研究者にとって非常に馴染みの深い概念ですが、中国社会を分析する際にそうした言葉を使われている点を興味深く思いました。

 今回のコロナ禍以前から、梶谷さんは「中国社会では市民的公共性の実現が困難である」と指摘されてきました。ヨーロッパやアメリカを専門とする研究者は、地方自治組織などの中間組織が媒介することで個人と国家が結びつき、個人と国家の間に「市民的公共性」の空間が形成されると考えます。ところが、中国の場合、伝統的に中間団体が弱いために、現在では国家と個人が直接テクノロジーによって結びついている。

 そういう社会に今回コロナが入ってきたために、どういうことが起きたのか。そういう意味で非常に興味深い状況だと思います。

梶谷 今回のコロナ禍で、中国ではこれまでの技術の延長線上に開発された「健康コード」が使われました。これはアリペイやウィーチャット・ペイなど大手T企業が提供する決済アプリとスマホの位置情報データ、公共交通機関の移動記録、そして病院での診察情報を組み合わせることで、一人ひとりの感染リスクを色で示すものです。感染した可能性がある場合、その程度によって健康コードが黄色や赤になり、レストランなど多くの施設が利用できなくなる。こういった徹底した個人情報の管理による防疫体制が進んでいます。

 ただ、今回、感染者との接触者を特定するテクノロジーを導入したのは中国だけではありません。近隣では韓国や台湾、そしてシンガポールやオーストラリアもそうですし、日本でも6月になって濃厚接触者がわかるようなアプリを導入しています。「コロナを防ぐため」「個人情報に十分配慮する形で」といった留保をつけながらも、全世界が中国で先行したような、スマホから得られる情報を利用した監視技術を採用し、社会の安定化を図ろうとしています。これをどう捉えればいいのか。

 このことを普遍的な問題として捉えるためには、単に今の中国で起こっていることだけなく、いわゆる西側諸国──すなわちヨーロッパやアメリカの社会における個人と国家とあり方の変化を含めて考えていく必要があると思うのですが、いかがでしょうか。

宇野重規・東京大学教授

宇野 ヨーロッパとアジアの対策が、ある意味で対照的だということはすでにあちこちで指摘されている通りです。ヨーロッパ諸国の多くが採用したロックダウン方式は決して洗練された方法ではありませんし、経済への影響もあります。それでも都市全体を封鎖することによって、社会の内外をマクロに規制する方法をとったわけです。

 逆に、中国が代表する東アジアでは今おっしゃったようにアプリなどを使って個人の行動を微細に、プライバシーを侵害してでも追いかけるというマイクロレベルの対策がとられました。つまり、大きく外から枠をはめて総量規制するヨーロッパ型と、個人の行動をマイクロに追跡する中国型、あるいは東アジア型は大きく違ったわけです。

 このようにヨーロッパと東アジアの対策に明確な対照性が出る中で、アメリカはその特有の政治構造に影響されて困難な状況に陥っています。アメリカは連邦制国家であるために州の力が強く、大統領ができることに限界がある中でニューヨークとロサンゼルスという民主党知事の州で最初に感染が拡大しました。結局のところ、トランプ大統領は全体の議論をミスリードする方向でしか影響力を及ぼせず、非常に混乱する中で中国に責任を押し付けました。これは裏を返すと、連邦政府が各州をうまくコントロールできていない状況にあるということだと思います。

 そして今、世界全体を見ると、先進国の状況がやや改善に向かう中で今度はロシアやブラジル、そして第三世界──それもやや独裁的なリーダーのいる国々で感染が拡大しています。

 つまり、コロナは世界中を襲っていますが、それぞれの国の政治システムのあり方が、感染の拡大状況に大きな影響を与えているというのが私の見方です。個人と国家の関係が重要なファクターになっているのは世界共通です。

個人情報の把握が進まない日本の良い面、悪い面

宇野 梶谷さんに特にお聞きしたいのが、今回の日本の対応についてです。梶谷さんは同じアジアの中でも、中国と日本が非常に違うということをずっとおっしゃってこられました。今回も、中国や韓国がテクノロジーを使って個人の追跡をしつこくやったのに比べて、日本ではそれがほとんどできませんでしたが、日本のコロナへの対応についてどういうふうに分析されていますか。

梶谷 先ほどもお話ししたとおり、中国ではまず個人情報を政府機関やアリババ、テンセントといった大企業などが把握し、それらのデータを相互に紐付けた感染対策が完全ではないにせよ、実現しています。先ほど紹介した「健康コード」がその典型です。それに対して日本では政府が個人情報を収集し、紐付けることへの抵抗感が大きい。そのことが今回の感染対策にも表れていると思います。

 こうした日本の状況について、私は良い面と悪い面があると思います。良い面は、国家権力による自由の制限に一定の歯止をかける役割を果たしている点です。逆に悪い面として、感染対策のような非日常的な局面で系統立ったシステマティックな対策を取りにくいことが挙げられます。

 今回、日本と対照的だったのが台湾です。台湾では、マスクを配布するときに日本の「マイナンバー」のような個人のソーシャルアカウントと紐付け、誰がまだもらっていないのかが一目瞭然にわかるようにして、全国民に迅速に行き渡るようにしました。もちろんマスクの生産体制が素早く整えられたこともありますが、政府が個人情報を直接把握しているからこそ有効な対策を打てたわけです。

 それに対して日本では、布マスクを配ろうとしても世帯ごとに2枚ずつしか配れなかったし、未だに(6月3日時点)配られていない地域もある。給付金にしても、一人10万円ずつ配ると決定したことは評価できますが、これも世帯ごとの給付で、しかもなかなか配れずにいます。

 この背景には、政府が個人情報を直接管理する体制になっていないことがあります。お金を配ろうとしても、まず国から地方自治体にお金がわたり、次に地方自治体が世帯主の口座にまとめて振り込み、世帯を介してようやく個人に渡るしくみになっています。これは近代的な行政システムを整備する際に、前近代的なイエ制度を受け継いだ戸籍=世帯を利用した名残ですが、それが先ほど申し上げたように監視社会化の歯止めとなっていると同時に、緊急時における対応の遅れも生み出している。さらに自治体ごとのシステムも統合されていないので、対応にも差が出ている。こういうことだと思います。

 これに対し、日本以外の東アジア諸国は植民地を経験し、後発的に近代化を遂げたことで、政府が個人情報を直接把握する制度が作りやすかったと言えます。特に韓国と台湾は内戦や戒厳令下の緊張状態が長く続く過程で、強権的な政府が住民を管理する制度が作られました。それが日本とはちょうど逆のプラス面とマイナス面を生み出していると私は考えています。

宇野 私も全く同じ印象を持ちました。テクノロジーを用いた政府権力による個人の把握は日本の場合はあまり進んでいないことが明らかになったことは非常に興味深いと思います。

 つまり今、梶谷さんがおっしゃったように、このことは良いとも悪いとも言えて、日本社会は国家なり大企業なりが個人情報を集約し、かつマクロにそれらを把握する状況にはほど遠く、今、世界中で進んでいる新しい金融テクノロジーと個人情報を社会全体で有機的に結びつける動きから、かなり遅れています。「これはまずいのではないか」という、逆の心配すらしなければならなくなってきている。これをどう評価すればよいのか、この間ずっと考えてきました。

日本とヨーロッパで異なる「人権」の捉え方

宇野 特に難しいのが、市民社会という概念です。もし、日本の市民社会がそれなりに強く、自律性があるのであれば、国家が権力を拡大したり権力が暴走したりするのを防ぐことができるとポジティブに見られるのですが、どうもそうではないだろうと。

 今おっしゃられた「世帯」がよい例で、これは中国などで進む個人認証のまさに逆です。先ほど、中国はテクノロジーの力を使って、中間団体を全てふっ飛ばして国家と個人が直接繋がっているという話が出ましたが、日本の場合はその「間」がありすぎてなかなかうまくいきません。今回、日本では国家と地方自治体がスムーズな連携を欠いてギクシャクしましたが、そもそも国家と個人の間に地方自治体や世帯などたくさんの中間団体が介在します。

 そして、その中間団体の古臭さが今回、際立ちました。例えばこの間、テレワークに移行した企業でも、結局、何か知らないけど会社に行かなきゃいけない。「印鑑がないとどうにもならない」ということがよく言われました。個人がサインをするようにはなかなかならないわけです。印鑑は組織や役職と密接に結びつき、かつ実物に依存する文化ですが、そういうものが濃厚に残っている。

 そういう意味で言うと、日本では市民社会が国家に十分な制約を与え、権力の行使を制限してそれをチェックしているというよりは、市民社会の内部に伝統的なコミュニティや組織が残る中で、ある意味、個人を新たなネットワークに接続させることが十分にできないのではないか。これは、近代社会の理想とされる「開かれた市民社会」という意味で言うと、かなり問題がある──今回、こうした日本社会の問題が明らかになった気がします。

 さて、それではアフターコロナ、あるいはウィズコロナの時代にどういう社会をめざしていくかですが、中国的に、個人の金融情報から交友関係から行動パターンに至るまでの個人情報を把握して、それを認証できるようなテクノロジーが統治する社会へ進化するのが日本の未来像かと言うと、それはちょっとと考えてしまいます。

 「市民社会」をキーワードに分析されてきた梶谷さんは、今回の日本の動きをどのようにご覧になられていますか? 市民社会が十分に成熟していると考えるべきなのか、それとも成熟していないと考えるべきなのか。

梶谷懐・神戸大学教授

 梶谷 それは非常に難しい問いで、「市民社会」をどう定義するかによると思います。ハーバーマス以降の現代的な捉え方では、市民社会は国家とも営利企業とも異なる「第三領域」とされます。その文脈では、NGOなどの政府から独立した市民団体が活発に活動しているかどうかが社会の成熟度を測る一つの判断基準になります。日本ではコロナ対策一つをとっても中間団体の影響力が大きいことは間違いないものの、それを上述のような「市民社会」論の枠組みで捉えられるか言うと、やや疑問に感じるところもあります。

 例えば、緊急事態宣言発令後には、営業を続ける飲食店やパチンコ店に徒党を組んで文句をつける「自粛警察」や、他県ナンバーの車に嫌がらせを行う人々の例が報告されました。これらは国や法律による強制ではなく、市民の自発的な行為という意味では「市民社会」の動きだと言えると思いますが、それにしては他者への排他性が目立ちます。

 日本の中間団体はゲマインシャフト(自然発生的な共同体)的なムラ意識を色濃く残したもので、だからこそ排他的ではあるが、実体を伴っているのだと思います。先ほど宇野さんが例として挙げられた印鑑などまさに典型的ですが、なぜそれが存続しているのか、誰も合理的に説明できないけれども、何となく今も残っているものが少なくない。中間団体でも、こうした古臭いものほど現実的な影響力は大きいと思います。

 先に述べた第三領域としての市民社会論では、むしろ個人の利益や理性的な合意によって維持されているゲノッセンシャフト的な団体──具体的にはNGOやNPOなどがその主要な担い手であると考えられています。

 こうした市民団体はもちろん日本でも活発に活動していますが、それがどの程度社会を動かす力を持っているでしょうか。例えば、監視社会に向かう可能性を孕んだテクノロジー導入について、「ここまでは許容できるけれども、ここから先はやめておいたほうがいい」といった理性的な議論が日本でできるかと言うと、非常に心もとない。このような状況と、これまで述べてきた市民社会の弱さとは相関しているように思います。

 そこで宇野さんにお聞きしたいのが、「人権」というものの捉え方についてです。ギャラップ・インターナショナル・アソシエーションが世界30カ国の人々を対象に実施した国際世論調査の中に、「ウイルスの拡散防止に役立つならば、自分の人権をある程度犠牲にしてもかまわない?」という質問がありました。調査が3月9─22日というヨーロッパの国々で感染が急速広がっていった時期に行われたこともあって、この質問に「そう思う」と答えた人は30カ国平均で75%いました。特にイタリアの93%をはじめ、ヨーロッパの国々でかなり高いのに対して、日本は32%と30カ国中最も低かったのです。

 この結果をどう見るべきか。一見「日本人は人権意識が高い」ように見えますが、私にはむしろ「人権」というものの捉え方が日本と、欧米社会とでは違うことを示しているように思えます。

 欧米で「人権をある程度犠牲にする」という時に人々が想像するのはまず「行動の自由の制限」で、「感染を防ぐために選択の幅が狭まるのは仕方がない」という意味で捉えているのだと思います。それに対して、日本では「人権が制限される」と言うと、言論が厳しく制限された中国のような社会をイメージし、「それは嫌だ」と脊髄反射的に回答しているような気がします。

 実際に今回、政府からの自粛要請が出た後、多くの店舗が閉店することで選択の幅が狭まり、県をまたぐ移動など行動の自由が大きく制限されましたが、この状況を「自分たちの人権が奪われている」と捉えた人はほとんどいなかったように思います。

宇野 これは非常に考えさせられるデータですね。まず、ヨーロッパにおける人権の捉え方に関してはおっしゃるとおりだと思います。先ほど来、「市民社会」という抽象的な言い方をしてきましたが、市民社会の根底にあるのは個人と社会、あるいはパブリックとプライベートを峻別する中で、個人とは多様であるという認識です。個人が多様な利害と多様な信念を持つ中で、いかにそれらを折り合わせていくか。国家の介入なく、自らが多様な意見や考え方を調整していくのが市民社会で、これが近代社会の理念でもありました。

 逆に言えば、個人の権利である人権は当然、非常に重要で、近代社会はどうあるべきかという議論の大前提であると同時に、どこかで折り合わせていかなければいけないものでもあるわけです。

 特に今回のような危機の時に出てくるのが、公共の利益です。行動の自由という個人の権利をある程度制限してでも、公共の安全を高めるという方向にヨーロッパでは議論が進みました。これは、「今回は危機だから、人権をここまで制限することを許す」という「加減」がわかっているということでもあります。さらに、個人の自由をどこまで制限し、公共の安全をどこまで重視するかというせめぎ合いが争点となるという感覚も共有されていたと思います。

梶谷 私も同じように感じました。

宇野 それに対して日本の場合は、多様な人間の権利を折り合わせるという発想自体、必ずしも明確ではないところがあります。また、政府の俊敏な対応を妨げる側面が社会にある中で、リーダーシップに対するある種のあこがれ、あるいはリーダーシップ願望のようなものが見られました。そして、現実のリーダーがそれに見合わなければ、激しく批判する。つまり、自分たちで何かをつくっていくというよりはリーダーへの期待の高さ、リーダー願望が強かったと言えます。

 また、今回、国家・行政側が明確な行動基準をなかなか示さない中で、「こういう時期だから自粛するのが当然だ」という「自粛警察」が横行しました。皆、右を見て左を見て「これはやっちゃいけないよね」というかたちで自分の行動を制限しましたが、多くの人はこれを人権問題とはとらなかったように思います。

 自粛要請が続く中で実際は人権がかなり制限され、さらに感染者や医療関係者、あるいは「自粛破り」の人たちに対するある種の差別やバッシングといった、明らかな人権侵害が起きたにも関わらず、これらを人権問題と捉えなかったところに日本社会の人権というものの理解の仕方が如実に出ていたような気がします。

コロナで揺らぐ西洋近代的な価値観の優位性

 梶谷 次に、監視テクノロジーがどのぐらい進むのかという話に移りたいと思います。

 まず冒頭で触れた『幸福な監視国家・中国』に掲載した図をご覧ください(図1)。このは民主主義国家における従来型の市民、議会、政府、NGOなどの間の相互作用のあり方(図の左側)と、近年になり存在感を増しているテクノロジーが介在した市民と統治システムの間の相互作用(右側)とを対比させたものです。

 前者における、生活世界に生きる一人ひとりの市民と議会・政府などの統治システムとの間の相互作用が、いわゆる「市民的公共性」にあたります。

 これに対して後者では、まず市民の行動パターンや思考、そして欲望などがデータとして吸い上げられます。そして、「治安を良くする」「より豊かになる」などの目的に応じてアーキテクチャがきめ細かく設計されることを通じて統治が行われます(「アルゴリズム的公共性」)。人々は無意識のうちに「望ましい」とされる行動をとるようになり、しかもその範囲がどんどん拡大していく(図2)。こうしたストーリーを想定しています。

宇野 巨大な監視権力によって個人情報が吸い上げられていき、ある意味で最適かもしれないけれども、一人ひとりの当事者が自覚しないうちに全体として大きくコントロールされていくわけですね。

梶谷 はい。では、そうならないようにするためにはどうすべきか。近代社会の理念では、市民が「ここまではAIの判断に委ねてもいいけれども、ここから先は容認できない」、あるいは「この情報は国家やGAFAに渡してもいいけれども、あの情報は渡せない」といったことを「市民的公共性」に基づき、議論して決めていくことが推奨されます。

 ただ、正直なところ、今回のコロナ禍における情勢を見る限り、市民的公共性が監視社会化に有効な歯止めをかけられるかと言うと、あまり楽観的にはなれません。

 と言うのは、監視テクノロジーによって個人情報を把握しようとする中国政府の姿勢と、それを部分的に受け入れつつ、民主主義的な枠組みで監視社会化を押し留めていこうというヨーロッパ、アメリカ側の姿勢を見ると、後者が防戦一方で、前者──意識しているのかどうかはともかく──のほうが攻勢に出ている、という印象をどうしても抱いてしまうからです。

 実際に今、中国で仕事をしている日本人も含めて一様に指摘するのは「中国では政府が徹底したコロナ対策を行っているので、日本よりずっと安心だ」ということです。特に現在のように、もしかしたら感染の第二波がくるかもしれないという時に、すべての人が「健康コード」を利用していれば、感染リスクがある人はレストランには入れないし、電車にも乗れない一方で、感染リスクがない人は普通に経済活動ができるので、経済活動にとってもプラスだと考える人が多いわけです。

宇野 「全体的な安全性が高まり、コロナに十分対応できるのであればそちらのほうがいい」と国民の側から求めていると。

梶谷 そうです。これに対して、「個人情報を無制限に政府に渡すのは危険だ」と批判するとして、では、どこまでなら渡してよいのか。そして、情報を開示しないことで感染リスクが上がることをどう捉えればいいのか。答えはすぐには出ないわけです。

 結果として、「中国社会のほうが西側諸国よりもむしろ安全であり、安心感を与えている」と感じる人が増えてもおかしくはありません。そういう意味で、コロナ禍が西洋近代的な価値観の優位性を揺るがしているというのが個人的な感想です。

宇野 そうかもしれませんね。

梶谷 かと言って、中国型の監視社会への動きを肯定するわけにもいかない。だとするなら、「何となく気持ち悪い」というだけでなく、監視社会化に対抗する何らかのポジティブな価値観を打ち出して行く必要があると思うのですが、それが何なのか。自分でも今一つわかりませんでした。

アメリカのダイナミズムを生んだ「プラグマティズム」的発想

梶谷 そこでヒントになったのが、5年ほど前に宇野さんが書かれた『民主主義のつくり方』という本です。この本ではアメリカのプラグマティズムをベースにしてこれからの民主主義のあり方を考えようと提案されています。

 日本で「プラグマティック」と言うと、確固たる理念や信念を持たずにとにかく現実に妥協するような考え方、といった印象がありますが、全くそうではないということがよくわかります。

 特に印象的だったのは、アメリカのプラグマティズムの根っこに、過去の体験や経験を重視して、そこからポジティブなものを創り出していこうとする姿勢があると強調されている点です。人々が社会の中で自由に行動するとお互いにぶつかったり、あるいは手痛い目にあったりしながらさまざまな「経験」をします。一方で、アルゴリズムにより「最適な行動」が決められ、人々がそれに従うようになった監視社会では、そういった試行錯誤の末の「経験」を積むことが極めて困難になるでしょう。そうした社会のあり方は決定的にまずいのではないか。世界中で監視社会化が進みそうな今、私たちにとってのかけがえのない「経験」を見つめ直し、それを守り抜いていくことが必要なのではないか。そのことに、宇野さんのご著作を通じて改めて気づかされました。

 守るべき価値として抽象的な「人権」を前面に出してしまうと、理屈としてはわかるのですが、先ほどのアンケートからもわかるように、私たちにはなかなか実感が持てません。そこで、あくまで具体的な「自分たちの社会の土台となるような経験」こそが、監視社会化の波に抵抗する一つの防波堤になるのではないか、と考えたのです。

宇野 『民主主義のつくり方』に触れていただき、ありがとうございます。今日あの本が話に出るとは考えていなかったのでびっくりするとともに、確かにおっしゃっていただいた角度からアメリカのプラグマティズム的な発想を取り上げることができるなと思いました。

 今のアメリカではプラグマティズムの良い可能性が抑圧されているように見えますが、本来アメリカ社会のダイナミズムを生み出していたのがこの発想です。今おっしゃっていただいたように、プラグマティズム的な発想とは単なる現実主義とか、結果が良ければ全て良しという発想ではありません。私が強調したいプラグマティズム的な発想とは、明確な答えが存在しないことを前提にして、いろいろと試しながら前に進まなければいけない状況の中で、個人や集団が自らの責任で多様な実験を行い、その結果を社会として反省しながら取り入れていこうというものです。これは何か一つの答えがあるという前提のもと、社会全体を賭けて行動するのとは真逆の発想です。

 プラグマティズム的な発想に基づいた社会では、まず小さな単位でそれぞれが自らの信念に基づいて、自分たちの責任の及ぶ範囲内で実験を行います。次に、その結果が社会にフィードバックされます。そして、その情報を共有して、うまくいったものはほかの個人や集団が採用していくことによって、社会が徐々に変化していくわけです。

 社会全体を管理して一気に変化させるのではなく、個別のグループが実験を繰り返していく中で得られた身近な経験に基づいて、ミクロな社会的イノベーションを社会全体として共有していく。これはGAFAのような大企業がビッグデータによって大きく社会を動かすような、あるいは監視権力が社会全体をコントロールするような発想に対抗する一つのビジョンになり得るかもしれません。

 また、ヨーロッパでは、「GAFAのような巨大な監視権力から人権や権力分立をいかに守るか、そして巨大な権力をどうやってチェックするか」というときに、市民社会なり、国際的な法規制の枠組みの有効性が強調されますが、それだけだとやはり守勢になるというのもおっしゃる通りだと思います。

 今回、日本では地方自治体によって多様な対応がとられましたが、今後いろいろな調査が進めば、自治体ごとの実例が集まると思います。そうした情報を共有し、それぞれの地域の実情に合わせながら成功例をお互いに学び合って社会変革に繋げていくというのは変革への一つのモデルになり得るのではないか。

 その際に重要なのが、多様な実験を許す環境です。要するに、社会全体が自粛といった枠組みで一律に規制するのではなく、それぞれの地域ごとにある程度、多様な実験を許す。そして、「うまくいった」「うまくいかなかった」という実例がどんどんシェアされて、「これがうまくいったならうちもやってみよう」というかたちでよい取り組みが拡大していくモデルです。

 今回は中間団体の古臭さが悪い意味でクローズアップされたわけですが、情報化社会に適応する中で、むしろその多様な中間団体が機動的に実験をするような環境を育てていくことが今後は必要です。こうしたことを大都市だけでなく、地方も含めて充実させていくのが日本社会としてめざす方向ではないか。これが今、ご指摘いただいて思ったところです。

失敗しても「次」が準備されている社会の強さ

梶谷 ちょうど知りたいと思っていたところをくわしくご説明いただき、私としても腑に落ちました。コロナ感染が広がる中でも、アメリカ社会がプラグマティズム的な「実験を通じて有効な対策を模索する」姿勢を崩していないというのは私も何となく感じていたところです。

 しかし、アメリカ社会が多大な犠牲を払っているのもまた事実です。中国側から見れば、本来なら習近平政権をかなり批判的に見ているような、リベラルな価値観を持つ人々でも、「アメリカの感染症対策は犠牲者が多すぎる」と考えて、「安心」を提供する中国政府のやり方を支持する人が圧倒的多数だと思います。こういう事情もあって、現在の中国国内では「西側社会をモデルとして社会をより民主的な方向に変えていこう」と考えるリベラル派は非常に厳しい状況に置かれています。

宇野 やはりアメリカ問題は今回のコロナの一つの隠れたポイントで、コロナで13万人以上が亡くなり、かつ白人警官による黒人市民の事実上の殺害事件をきっかけに全国的な抗議運動が進んでいるアメリカは、どう見てもうまくいっているとは言えません。

 それに比べると、中国のほうが感染拡大を止めることに成功したという見方にも一定の分があります。おそらく中国は今回のコロナをある種の成功体験として捉え、逆にアメリカは大きな失敗体験として捉え、その結果、「中国モデルのほうがアメリカモデルよりも良いではないか」と議論が加速することは容易に想像できると思います。

 一方で、アメリカという国には連邦よりもコミュニティが先にできたという特徴があります。もともとアメリカは「タウンシップ」と呼ばれる個別のコミュニティーが先行してできて、その上に州が、さらにその上に連邦ができた非常に分権的な社会です。

 アメリカはリベラリズムの正義という普遍主義を掲げる一方で、実はコミュニティが強く残る社会でもあります。連邦レベルで大統領が何か言ったからといって社会はなかなか動かず、それぞれのコミュニティがいろいろなことをやっています。こうした特徴が良いほうに出るか、悪いほうに出るか。

 多様性という意味ではこれは強みです。一方で、建国以来、国民が拳銃を持つことができるというある種の暴力性や黒人差別が現在も残っています。分権性やコミュニティの強さ、あるいは伝統的、社会的な価値観の負の面が今回、コロナを通じて顕在化しましたが、大統領をはじめとした中央政府は有効な対策をとれていません。

 ただ、アメリカでプラグマティズム的な発想が死んだかと言うと、そうではないと思います。それこそ今回、州ごとに対応はずいぶん違いましたし、コミュニティーレベルでもいろいろな動きがありました。プラグマティズム的な発想に支えられた社会は、変えようとする時になかなか全体がうまく変わらないデメリットがある反面、多様性を保持しているために全部が一気に倒れることはありません。一つの方向性がうまくいかなくなったときに次の方向性が準備されている。それがアメリカ的、プラグマティズム的な社会が持つ強さです。

 今、トランプ大統領の下で負の部分がストレートに出ていますが、長期的には振り子が逆に振れるのではないか。そもそも前回はオバマという、トランプとはだいぶ違う大統領を「実験」しました。オバマ大統領は必ずしも成果を上げたわけではありませんが、プラグマティズム的な発想をする人だと思います。これからプラグマティズムという伝統にもう一回戻る可能性があるのが、アメリカの強さではないか。

 逆に言うと、中国は習近平体制が上手くいかなくなった時に、どうやって違う方向へ舵を切り直して行くのか。かつそれを流血や革命ではなく、方向転換することができるかどうか。今とは違う方向へ転換をはかるときに、中国モデルの未来が問われると思います。

 また、世界的にも、今の中国モデルがうまくいかなくなった時に、民主主義やある種の分権性、あるいはコミュニティベースのプラグマティズムといった多様性のある思考が重要であるという揺り戻しが起きるのではないかと思います。

梶谷 私はずっと中国社会を見てきましたが、中国も経済活動に関しては上からの統制で一斉に動くことは実はほとんどなく、小さい地域単位でいろいろな実験を行い、うまくいったら全国に広げるといった、それこそプラグマティズム的な発想がそのダイナミズムを支えている側面があります。最近注目を浴びた深圳におけるイノベーションが典型的な例ですが、零細な企業がどんどん新しいアイディアを試しては失敗し、また試すといったサイクルの中から新しいものが生まれてきています。

 ですから、中国社会でプラグマティズム的な民主主義が育つ可能性が全くないわけではないと思うのですが、感染症への対策、あるいは香港情勢や領土問題への対応といった局面では社会全体が完全に一色に染まってしまう。特に習近平政権の下で、そういった中国社会の「全体主義」的な側面が前面に出てきている印象があります。

 特に心配なのが、外国の影響を徹底して排除する方向に動きつつあるところです。5、6年くらい前までは私たちのような外国人研究者でも農村部も含めて比較的自由な訪問調査が可能でした。しかし、最近では政府が公開を認めていない資料を持っていたという理由だけで長期間拘束されるケースも生じています。

 これは、「外国のメディアや研究者が中国に悪い影響を与えようとしている」という思い込みが政府上層部の中で非常に強くなっていることが反映されているように思います。そういう意味では、中国社会自体には実験を通じた変化を受け入れる余地があるものの、現体制下では悲観的にならざるを得ないのが事実です。

宇野 これも興味深いところで、いま深圳の例が挙がりましたが、中国は本来的には多様な社会ですよね。地域ごとにかなり特性があって、政治的なスタイルも違う。そういった多様な中国の統一を守るために、上から締め付けなければならない側面もあるでしょう。中国はむしろ多様であるからこそテクノロジーを使ってコントロールするという手段に訴えなければいけない、統治の難しい国だというのが大前提でしょう。

 同時に、中国には「さまざまな国際的圧力によって自律性を妨げられてきた」という被害者的なメンタリティが強く残っています。今、対アメリカを中心に国際的な緊張が高まっている中で、周りから見れば中国は大国なので大国にふさわしい優雅さを求めたくなりますが、「海外からきたものが自分たちを妨害する」という防衛的な発想がどこかしらある。そういう意味で、いま中国が香港に示している強い態度は、中国の内在的なものというよりは国内の多様性とアメリカをはじめとする国際関係の緊張感によって生み出されたものなので、ずっと続くとは限らない。状況が変わればまた変わる可能性もあるでしょう。

戦争・戦後の経験に代わるもの

梶谷 日本の状況についてお伺いします。宇野さんは先ほどの『民主主義のつくり方』の中で、戦後を代表する思想家である藤田省三に言及し、彼の発想はアメリカのプラグマティズムと近いものがあると指摘されています。

 藤田は昭和期の戦争および戦後の経験を通じて、社会の激動に揉まれる中で希望を失わず、新しいものを作り上げる人々の姿にその思想の原点を置いた。そこにはアメリカのプラグマティズムと非常に近い発想がある──とのご指摘に、何か視界が開けたような感覚を持ちました。

宇野 プラグマティズムという時に、鶴見俊輔に言及することはあり得ますが、藤田省三に言及する必然性は必ずしもないわけで、そのように読んでいただけたのをうれしく思います。

梶谷 翻って、現在の日本社会はどうか。先ほどお話ししたように、日本で監視社会化が進まない背景には古い共同体的なものが残っていたり、個人情報を管理するシステムの導入が遅れていたりすることもありますが、より根本的に、国家に情報を渡すのが怖いという感覚が共有されている点が大きいと思います。その源泉は何かと言うと、やはり戦争・戦後の経験だと思うんです。

 逆に言うと、いまの日本人に戦争体験以外によりどころとなる「経験」があるのだろうかという思いもするわけです。実際、「リベラル派、あるいは護憲派の知識人はいつまでも過去の戦争の話を持ち出して政府批判をしている」と感じ、それに対して鼻白むような感覚を抱く人たちも増えてきているように思います。このように、もはや私たちは戦後体験に頼ることができないとすれば、監視社会化に対抗するために守るべき価値観や「経験」について、どのように考えていけばいいのでしょうか。

宇野 藤田省三にとって戦後体験とは大きな解放でした。今まで重くのしかかっていた国家の覆いがなくなっった中で生まれた、生活に基づくリアリズムやたくましさ、それよる自律的な秩序形成の可能性を藤田省三は高く評価したのだと思います。

 しかし、藤田が1990年代以降に書いたものは非常に悲観的です。個人の自律性の契機は失われ、安楽さを求めるために、むしろ全体主義的な支配を好んで招きよせているように受け取ったわけです。最期は悲憤慷慨して亡くなった気がいたします。そういう意味で言うと、戦後体験が遠くなり、それを通じて経験した良いものが全て失われてしまったという、いわゆる喪失史観は悲観、絶望にしか繋がりません。

 では、戦後体験に代わるポジティブな例がどこにあるか? 『民主主義のつくり方』の終わりのほうで、私は郷里が島根県であることもあって、島根県隠岐島のの例を挙げました。

 地方の自治体と言うと、人口が減って高齢化が進み、過疎化が進み、財政も悪化して限界集落になっているという一面的な描き方をされることが多く、また多くの地方は実際にそうした状態ですが、中にはその状況を逆手にとって外から若い人を呼び込んで、彼らの知恵を生かすことによって地域の再生をはかっているところもあります。

 これは海士町が突出しているわけではありません。海士町もそもそも温泉街のご主人たちが集まって映画祭などで街を盛り上げている大分県湯布院に影響を受けたのだと言います。そして今、海士町の例は全国的に知られるようになり、「自分たちもやってみたい」という話を、先日も四国の山奥にある自治体で聞きました。

 そういう意味では心ある、やる気のある自治体は「もはや国に頼ってもどうしようもない」と自力でコミュニティを再建すべく、ある種のプラグマティズム的な実験の精神で動いています。そこから生まれる体験が、自ら社会を変えていくという意味で戦後体験に代わる成功体験につながるのではないか──これが『民主主義のつくり方』の結論です。

 今回のコロナを通じて、各県、各市町村で独自の取り組みが行われたという情報がだいぶ入ってきています。これで一気に日本に多様な地方自治の時代がやって来ると楽観することはできませんが、地域ごとの特徴や個性が見えてきたわけです。例えば、良い意味でも悪い意味でも北海道や大阪は独自の対応をとりましたし、首都圏周辺の自治体でも対応にかなり個性が出ました。そして、学校休止に関しても、教育委員会によって対応が違いました。

 今のところ、まだそれをポジティブなモデルにするところまでは至りませんが、今後、どうやって今回のコロナみたいな問題に対応するか。国全体で大きく管理することも重要ですが、地域ごとにきめ細かな対策を打っていくことがやはり重要だと思いますので、コロナをきっかけに地域における実験が浮かび上がってくることを期待しています。

世界全体で抑え込めなければ問題は解決できない

宇野 コロナを経験した世界はこれからどこへ向かうのでしょうか。コロナで交通が分断されたことで、これまでの「グローバリズムで国の壁がなくなる」「国ごとの違いはほとんど無くなる」といった世界が全て平準化されるかのごとき言説にブレーキがかかっています。ただ、人の行き来が衰えるというある種の鎖国状態に近い状態が短期的には続くのかもしれませんが、長期的に見ればグローバリズムの流れはいずれ回復するでしょう。

 また、今回のコロナで国ごとの対応が非常にクローズアップされ、それぞれの国の問題点が明らかになりました。先ほど日本で政権批判が激しいという話をしましたが、裏を返すと、これは台湾など外国のシステムがうまくいっているという情報を皆がよく知っているということでもあります。どの国のどのシステムがいいかと比較する発想が非常に強くなっています。こういう意味で、今回、国家がクローズアップされたのが印象的でした。

 かつ、感染症は自分の国が抑えたところで、世界のどこかで封じ込めに失敗すればグルリと回って第二波、第三波というかたちで必ず返ってくる。「やはり世界は一体である」という一体感を皆、強く感じたと思います。

 つまり、自国の統治システムを国際的に比較してその良し悪しを議論する視点が育ち、世界が繋がっていて、結局、世界全体で抑え込めなければ問題は解決できないというグローバルな連帯意識も芽生えました。

 ですから、今、各国の違いが出てきますが、プラグマティズム的な発想で、それぞれの中で実験している結果をポジティブに学び合うことによって、より良い感染症対策をとれる。やがて知恵を共有する方向に発想が変わってくることに期待したいと思います。

 今回のコロナ危機がもたらしたものは、世界はやはり繋がっているという意識です。繋がっている中でそれぞれ学び合いながら、全体として対応していかなければいけない。これを「グローバルな連帯意識」とまで言っていいのかどうかわかりませんが、鎖国していてはどうにもならないという発想が、長い目で見れば強化されるのではないか。その中で中国に対してもやがて変化するだろうし、アメリカも先ほど言ったように、今のままいくとは思えないので、もう一回振り子が戻ってくるところがあるのではないか。

 今、非常に難しい状況にある中で、グローバリズムは全て止まっているように見えますが、やがて次のフェーズが来る。私は、今回のコロナ危機は世界をこれまで以上に繋げる側面もあると感じています。

梶谷 将来への希望が湧いてくるようなご提言をありがとうございます。グローバル化が進む中でもプラグマティズム的な発想に立ち、互いの経験から学び合う姿勢が大事だというご指摘には私も完全に同意します。

 その意味で、コロナ禍への対応にあたっては、特に台湾や韓国をはじめとした近隣アジア諸国において、人々の過去の「経験」が大きな役割を果たしたことを改めて強調しておきたいと思います。たとえば、台湾では2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)の、韓国では2015年の中東呼吸器症候群(MERS)の際の苦い経験が今回の対策に大きな役割を果たしたと言われています。

 また、台湾と韓国はともに軍事独裁政権下における粘り強い民主化運動の末に民主主義を勝ち取ったという共通の「経験」があり、その経験が、政府が個人情報と監視技術を用いた感染対策を進める中で、市民の側がその濫用を許さない、一種の防波堤の役割を果たしているように感じています。

 日本に住む私たちも、自らの社会における過去の経験を振り返ることの重要さはもちろんですが、近現代を通じて大きな影響を与えてきた近隣アジア諸国の人々の「経験」に改めて向き合うことが必要とされているのではないか。そのことを今回の対談を通じて感じた次第です。(終)

宇野 重規・東京大学社会科学研究所教授
うの しげき:1967年生まれ。96年東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。東京大学助教授、同准教授などを経て2011年より現職。著書に『民主主義のつくり方』『政治哲学へ──現代フランスとの対話』『トクヴィル──平等と不平等の理論家』など。
梶谷 懐・神戸大学大学院経済学研究科教授
かじたに かい:1970年生まれ。96年神戸大学大学院経済学研究科博士前期課程修了。96-98年中国人民大学留学(財制金融学院)。博士(経済学)。神戸学院大学准教授、神戸大学大学院准教授などを経て2014年より現職。著書に『中国経済講義──統計の信頼性から成長のゆくえまで』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』、『幸福な監視国家・中国』(共著)など。

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