『公研』2024年6月号「私の生き方」
こが まこと:1940年福岡県山門郡瀬高町(現:みやま市)出身。65年日本大学商学部卒業。大学在学中より鬼丸勝之参議院議員の秘書を勤める。80年第36回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選。以後、連続10回当選。96年運輸大臣、98年自民党国会対策委員長、2000年自民党幹事長、02年日本遺族会会長、07年自由民主党選挙対策委員長などを歴任。著書に『憲法九条は世界遺産』など。
合同慰霊祭と喪服の母
──1940年生まれ。福岡県瀬高町(現みやま市)のご出身です。瀬高町はどんなところですか。
古賀 私の出身は瀬高町ということになっていて本籍もそこにありますが、出生したのは田川郡金田町(現在の福智町)です。父は7人のきょうだいの末っ子で、上は女性ばかりなんです。6人女の子が続いて、7番目に父が生まれたんですね。
3番目のお姉さん夫婦は、金田町で漬物屋を経営していました。田川は炭鉱の町ですから、塩分は炭鉱労働者にとって欠かすことのできない栄養素です。父と母は姉夫婦と一緒に働いていて、そこで私が誕生したわけです。瀬高にある本家は長女と次女が守っていました。
金田町にいたのは2歳までなので、記憶はまったくありません。昭和17年の秋に父が出征したときに、母は5歳の姉と2歳の私を連れて瀬高の実家に戻ります。瀬高町は筑後平野のど真ん中にあって、町の中心には矢部川という清流が流れています。絵に描いたような農村地帯ですよ。物心ついてからはここで育ちましたから、ここが私の故郷の風景ですね。
──お父様の出征のことは覚えていますか。
古賀 父が出征したときは2歳でしたので、記憶は一切ありません。父に関して私の記憶に残っているのは、戦後の1946年に町で合同慰霊祭が行われた後の場面です。私が6歳くらいの頃です。式に出席した母を迎えに小学校の校庭に行ったんですね。母が白い布に包まれた棺を持って、貸切バスから降りて来ます。棺には「陸軍兵長 古賀辰一。昭和19年9月30日フィリピンレイテ島にて没す。」と広報が記されていました。
この場面はなぜか鮮明に覚えています。母は黒い喪服に包まれていましたが、とっても綺麗だなと思った印象があるんです。その後は、行商に出て苦労している母の姿しか覚えておりません。
──行商ではどのような商品を扱っていたのですか。
古賀 乾物類や干物ですね。野菜や魚などの生ものはとても扱えませんから、鰹節、塩鯨、いりこ、それから缶詰などが中心でした。母は朝に家を出ると、その日の売り上げが目標に達するまで頑張るのみです。帰宅時間が決まっているわけではなく、ほとんどは陽が落ちて暗くなって帰ってくるのです。
郷里の有明海に沈んでいく夕陽が一番嫌いなんですよ。風景としてはすごく綺麗で、その夕陽を見るために観光客がわざわざ訪れるほどです。しかし、その夕陽は子供の頃の母の帰りを待つ寂しい記憶を今でも思い出すんです。友だちと一緒に遊んでいても、夕飯の時間になると家族が待つ家に帰っちゃう。私の場合は、家に帰っても母がいないわけです。だから夕陽が沈んでだんだん暗くなっていく光景は、寂しい気持ちになりまして、一日のなかで一番嫌なんです。
──少年時代に社会を意識するきっかけとなるような出来事はございましたか。
古賀 小学校の5年生のときだったと思いますが、ある晩母が裸電球の下で1枚の葉書に一生懸命ペンを走らせていたことがありました。今まで書き物をしているところなど見たことがなかったので、不思議でした。
「何を書いているのか」と聞くと、母は「お父さんは戦争で亡くなったでしょう。うちと同じような家庭は全国にいっぱいあるのよ。戦没者遺族に対して国に支援をお願いするハガキよ」と言いました。
当時は、予算編成の前にそれぞれの地元の国会議員の先生方に、公務扶助料の増額をお願いしていました。要するに、陳情の一環ですね。今はこうした手順で有権者の皆さんと議員がつながる信頼関係は、ほとんどなくなりましたけどね。
この時に母だけではなくて、同じように戦争未亡人になった人が日本にはたくさんいることを知りました。そして、この時にまだ漠然とはしていましたが、政治というものが人のためになるものだと関心を持ったことを覚えています。
番長として喧嘩で明け暮れた高校時代
──少年時代に夢中になったことは?
古賀 中学校時代はバスケットに熱中しました。生きがいみたいなものでした。今は日本人の平均身長は飛躍的に伸びましたから比較になりませんが、戦後当時は身長164センチあれば平均以上でしたから結構活躍できた。楽しかったし、頑張りましたね。
私は小学校、中学校までは優等生だったんですよ。それが地元の山門高校に進学してから大変貌を遂げるのです。自分で言うのは恥ずかしいのだけど、要するにケンカで明け暮れた番長に変身したんです。高校時代のことにはあまり触れたくないです(笑)。
──喧嘩が強かったとか。
古賀 強かったかどうかは別ですが、どんなにぶん殴られても絶対に弱音は吐かなかった。相手がどんなに強そうで大きな相手でもひたすら向かっていった。高校1年生後半から2年生のときは本当によく暴れました。ところが、3年生になった頃にはもう暴れる必要がなくなっちゃったんです。なぜなら、私の名前を聞くだけで「あいつと喧嘩したらたいへんなことになる」と、あまりにも地元では悪名が知れ渡り、誰もが相手になるのを避けたんです。
──地域を征圧したわけですね(笑)。しかし、どんなことで揉めるものですか?
古賀 俗に言う「眼をつけたな!」というところから、喧嘩になるわけです。実感としてはわからないだろうけどね。要するに若者達のエネルギーの爆発だけで、そこには理屈はなかったんではないか。単純なことなんです。
私が進学した山門高校は元々は女学校だったのが、戦後に共学になったことで女子生徒が多くて、男子生徒は少ないし大人しい校風でした。それでよその高校からよく虐められたものです。誰かが「やられた」という話を聞いたら、こちらとしてはしめたものです。報復として一気呵成に喧嘩ができますから(笑)。そういう日々を過ごしていたら、3年生になる頃には相手がいなくなってしまった。
高校時代は、苦労する母に孝行どころか悲しい思いをさせた三年間、後悔することの多い時代だったなと思います。一方で子供を信じる母の姿、決して見捨てることのなかった先生方の温情、そうした魂のふれあいに感謝です。
大阪の金物問屋に丁稚奉公に出る
──将来についてはどのように思い描いていたのでしょうか。
古賀 高校時代はそんな崖っぷちの荒れた日々を過ごしていましたが、政治へ関わりたいという思いは持ち続けていました。そんななか、恩師であった先生が「あなたの境遇から、あなたが描いた政治家への道を可能にするためには、思い切って国会議員の書生として、お母さんに経済的な負担をかけずに政治の勉強をする道を選んだらどうだ」と助言してくれたんです。
いつかは政治家をめざしたいという思いを母に伝えました。いつも我がままを聞いてくれた母がこの時だけは大反対。そう考えるのは無理もないことですよね。母の願いは学校の先生、市役所の職員、親子が安定して生活するのが一番の望みだったのです。苦労の連続だった母には無理のないことです。母は伯父さんや叔母さんたちからは、ことあるごとに「あんたの育て方が悪い。あんたがちゃんとしないから」と責められていましたから…。
結局1年間は、知人の紹介で大阪にある金物の問屋に丁稚奉公として働き、最終的には母の説得に成功して書生の道を歩くことになります。