秘書時代に責任感と覚悟を身に付けた

──日本大学商学部に進学されます。政治家の書生としての行き先は、すぐに見つかったのでしょうか?

古賀 同じ瀬高町ご出身の参議院議員の鬼丸勝之先生を訪ね、書生にしていただきました。住み込みではありませんが、先生のご自宅のすぐ近くに安いアパートを借りて住んでいました。

 朝、鬼丸家に伺うと、まずは車を磨き上げます。そしてドライバーとして先生の訪問先に随行します。運転手兼秘書ですね。今ではあまり聞かなくなりましたが、当時はまだ書生をしながら政治を志す人はけっこういました。それぞれの先生のもとで秘書をしながら政治を学び、そこから国政や地方議会などに進出していく機会を伺うわけです。

 鬼丸先生は高級官僚出身の議員さんだっただけに、夜の会合が2箇所、3箇所と顔を出すのが当たり前でした。夜10時ぐらいになって「これでやっと帰れるかな」と思っていたところで銀座や新橋に繰り出すことになったりすると、辛かったですね。先生を待つ時間が不規則だということは本当にたいへんです。会合を終えると同時に車を付けなければならないわけですが、居眠りをしていたりして失敗するとひどく叱られたものです。

 そんな時、別の仕事を選んだほうがいいのかなとすごく落ち込みました。大学に通いながら、運転手もしていたあの4年間は本当に修行でしたけど、自分でもよく頑張ったと思います。あの時代の経験を通じて、責任感と覚悟を身に付けることができました。39歳まで秘書として働きながら、政治を学ぶことになります。

 

大平正芳総理との面談

──1979年の衆議院議員選挙に初出馬されます。どういった経緯で出馬のチャンスを掴まれたのですか?

古賀 初出馬は、たいへんな幸運でした。1979年の総選挙は、大平正芳首相が初めて解散を断行された選挙でした。当時は中選挙区制で、福岡県には四つの選挙区がありました。4区は大平先生の番頭、田中六助先生(内閣官房長官、通商産業大臣、党幹事長を歴任)の議席ですが、この時、福岡県3区は、ちょうど宏池会の大先輩である荒木萬壽夫先生(文部大臣などを歴任)が逝去されて空席でした。さらには1区と2区でも宏池会の新人の議席なしの状況にありました。まさに派閥全盛期の当時、一人でも多くの宏池会所属議員が求められたわけです。

 宏池会の候補者として1区は太田誠一さん、2区は麻生太郎さんが名乗りを挙げましたが、3区だけは名乗りを上げる候補者はいませんでした。当時の宏池会の幹部でもあった田中六助先生が私に、3区の候補者に白羽の矢を当てていただいたのです

 「古賀というイキのいい奴がいる。若い時はえらい悪かったそうだけど、あいつならひょっとしたら『出る』と言うかもしれない」と。田中先生の要請に、私は好機到来、待ってましたの心境です。もちろん「ぜひやらせてください」と即決しました。私には地盤も看板も鞄もナシ、ゼロからの出発ですから、太田さんや麻生さんとは比べようもありません。彼らとは見劣りするどころの話ではないわけです。

 それでも田中先生は、「わかった。大平さんに会わせるから釣書(経歴書)を書いてこい」と。こうして大平先生に面談いただけることになりました。

 大平先生は「1区の太田も2区の麻生も貴方には悪いけど、家系も系譜も申し分ない。しかし政治は、あなたのように貧苦を知っている者がいることは大事なんだよ。恥ずかしいことじゃないぞ。君みたいな生き様も政治には必要なのだから。よし! 宏池会でオレが責任を持つ。自信を持ってやれ!」とおっしゃっていただいた。あのときは身震いしましたね。まさに私の政治家への夢が目標にできた大転換でした。

 私はよく「派閥の申し子」なんていう呼ばれ方をされますが、大平先生や田中先生から機会を与えていただいことで政治家になれたわけです。ですから私は、まさに派閥の申し子だと思っています。今振り返ると、最初の選挙は予想を超える厳しさと苦難の連続でしたね。太田さんも麻生さんも立派な自民党公認の新人候補者として出馬しましたが、最初の関所である自民党公認の選考で私は無所属候補として選挙を戦うことになるのです。

 

戦没者の遺族の皆さんの平和への祈り

──党の公認がないとは言え、大平首相に認めてもらったのはすごいですね。

古賀 田中六助先生は、厳しい戦いを強いられる私に「1万5千や2万じゃダメだぞ。次に繋げるために命がけで3万票は取ってこい!」と命じられました。選挙運動は2カ月足らずの短い期間の中でしたが、終盤にもなると手応えを肌で感じることができました。選挙というのは、こんなに楽しいものかとさえ思えました。本当にそんな感じでしたね。

 結果は次点で落選しましたが、わずか4500票差でした。負けはしましたが、負けた気はまったくしなかった。次は絶対に勝てると手応えを深めた選挙でした。

──最初の選挙では有権者には何を訴えたのですか?

古賀 平和です。「おふくろのような戦争未亡人を再びこの国では絶対にださない。これがオレの政治だ」とそれだけを繰返し訴えました。最初の選挙では5万2535票を獲得できました。この数字は生涯忘れることができません。この票は戦没者の遺族の皆さん方の平和に対する祈りだと私は受け止めました。

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