「あんな誠につとまっちゃか」

──小泉改革は何だったのか、郵政民営化の成果は上がっているのかという検証はきちんとする必要はあるのかもしれません。

古賀 私もそう思います。政治の閉塞感は常に「改革」という言葉が吹き荒れてきます。改革によって政治が変わることを期待するのですよ。

 けれども、それだけで政治をやっていいのかどうかはきちんと考えなければなりません。改革を進めることで日本の大切な歴史と伝統等残すべき大事なものが忘れ去られてはならないと思います。だからこそ、残すべきことの見極めが必要なのです。

 改革を推し進めるよりも、残すべきことには数倍のエネルギーの結集を要するものです。政治が苦よりも楽を求めてはなりません。

──ひとたび改革の流れができると、立ち止まって考えることが難しくなってしまう。

古賀 細川護煕さんの連立内閣が誕生したときも「政治改革」一色になりました。政治改革に期待したわけですが、結果として選挙制度改革に終始し、小選挙区制、比例並立制の導入が実現しました。100%の制度は存在しません。時間をかけて中選挙区の良し悪しを議論することが必要だったのではないかと思っているんです。

 国鉄の分割民営化にしても同じことが言えると思います。今では在来線はほとんどが無人駅になってしまっています。その現実を目の当たりにすると、民営化の難しさが浮き彫りとなっています。東日本、東海、西日本、北海道、四国、九州の六つの分割がよかったのかどうか反省です。

──運輸大臣(第72代)、自民党幹事長と出世されていきます。お母様はご活躍をどのように見ていらっしゃいましたか?

古賀 母は私が運輸大臣になる2年前に他界しました。ただ私が建設政務次官になったときに初めて新聞で名前を見つけた母は、「あんな誠につとまっちゃか」と隣近所のおじさん、おばさんに少しは自慢気に、一方では本気で心配していたという話を聞きました。正直、少しは母に孝行できたかなと嬉しかったことを覚えています。

 母は私が国会議員になっても、60歳過ぎまで自転車での行商を続けていました。私が「もう外に出るのはいいじゃないの」と言いましたが、戦争未亡人の根性でしょうね。「自分は自分で生活をする」と聞き入れてくれなかった。足腰が弱ったあとはさすがに行商はやめましたが、それでも自宅の前に小さなプレハブの乾物店を開いて仕事を続けて、82歳で亡くなるまで店番を生きがいにしていました。

──2009年には民主党に政権を奪われることになります。当時は麻生政権でしたが、自民党内の状況をお聞かせください。

古賀 麻生総理の早期解散での勝利を見据えたものだったと思います。麻生総裁のもとで総選挙を戦うという期待が党内にはありました。その期待が麻生政権を誕生させた背景だったように思います。

 そういう状況のなかで麻生政権が誕生したわけです。ところが当時を振り返るとリーマンショック後の我が国は金融経済危機の最中にある中、果たして政治の空白が許されるものなのか、麻生さんは悩みに悩んだ末、経済の立て直しを優先されました。その判断の良し悪しはべつとして、結果衆議院議員の任期満了選挙に追い込まれ、自民党は大敗し、下野することになります。

 

岸田首相は政治の王道を歩むべき

──今まさに宏池会の後輩、岸田首相が、解散総選挙を断行できるかどうかという局面にあります。先輩としてご助言はありますか?

古賀 議員のバッジを外してもう12年目になります。引退した私が今の政局に意見を申し上げることなど僭越ですよ。

 それでも一言反省を込めて言わせてもらうと森総理のときは総裁任期を前倒しして、任期途中の表紙替えで小泉政権が誕生し、清和会の時代が続くわけです。私は岸田首相は任期をまっとうし、国民に堂々と信を問う政治の王道を歩むべきだと思うのです。

──宏池会の解散という秘策は、古賀さんが岸田首相に伝授したのではないかと勘繰る人もいましたが…。

古賀 それは絶対にありません。先ほども申し上げましたが、私は派閥の申し子です。宏池会に産み育てられたことが政治の原点であり、私の政治人生のすべてです。伝授など到底あり得ません。

──今回の「政治とカネ」の問題で清和会の議員には処分が課されました。総裁選での再選をめざすには、禍根が残るかたちです。

古賀 1980年に大平内閣への不信任案が可決されて、憲政史上初めての衆参同時選挙を大平総理が決断されるわけです。たいへんだったのは、自民党の公認の扱いをめぐって大激論が始まったことです。田中六助先生をはじめ多くの先生は「総理の命運を左右した内閣不信任案の採決をボイコットする議員を公認するなんてとんでもない」と怒り心頭でした。大平先生は総裁として全員を処分なしで公認候補としてお認めになるのですね。

 今回は「政治とカネ」の問題がありますから一概には言えませんが、自民党は我が国が持っている一つの大切な公的財産です。独善を避け広く党内外の意見を吸収できる国民政党であるべきです。

後援会と約束した「30年計画」

──2012年に政界を引退されたときは、まだ72歳でした。麻生さんを始めとして同年代の議員のなかには現役の方もいますから、古賀さんの決断は早かったようにも思います。

古賀 39歳の若さで皆さまのお力のおかげで国政に送ってもらいました。実はそのときに後援会に「30年計画」の考えをお約束致しました。最初の10年間にめざしたのは、当時の中選挙区制における激しい厳しい選挙戦を勝ち抜くことのできる強力な組織づくりです。私の後援会は日本一と自慢しております。

 次の10年間の目標は、中央政界での活躍です。1996年の運輸大臣就任を皮切りに、国会対策委員長、自民党幹事長等、先人、先輩、同僚のご支援で中枢で活動できたのは感謝です。

 そして最後の10年間の目標は、政治家としてゼロから生み育て支えていただいた皆さんへのご恩返しです。平和な国に生まれたことへの感謝、自然豊かな人情あふれる故郷への感謝です。2012年に72歳となり30年計画の終わりを迎えるにあたり、何の迷いもなく現役引退を決意し、後援会との約束を果たすことができました。

──世襲の是非についてはどうお考えですか。

古賀 決して世襲だからダメだとは言いません。しかし、世襲が当たり前になってしまうことや「良いことだよね」という風潮は少し違うのではないか、年々世襲化が進み政治家が家業の有様を呈しているのは人材の劣化を招く恐れがあるのではないかと心配です。

 来年は戦後80周年になりますが、国際社会が激変する時代です。政治家も多様な人材が求められています。若い世代の人たちに政治への関心を高めてもらい、政治への志を期待したいものです。そのためには国民の政治への信頼回復は急務で不可欠です。

 

平和の尊さを未来に継いで欲しい

──ウクライナやパレスチナでは今でも戦争が起きています。世界では未だに戦争未亡人や親を失う子どもたちが存在しています。

古賀 映像を見てると本当に心が痛みますね。戦後日本の政治と外交は、一つの円ではなく日本国憲法と日米安保、この二つの焦点を持った楕円形であり、その二つの焦点が引き寄せあって一つの円にならないのが選択肢であったわけです。

 平和に対する日本の国の考え方を国際社会に、世界に発信を続ける努力が大切です。日米同盟の強化だけに突き進むのは楽なことでありますが、危険なことではと心配です。日本のリーダーには戦前の国策の誤りを確認し、歴史認識を一層明確にして、戦争の愚かさ、平和の尊さを未来に継いで欲しいと心から願いたいものです。私も平和の語り部はこれからも続けてまいります。

──ありがとうございました。

 

聞き手 本誌:橋本淳一

 

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事