「政党のなかに活躍の場を見つけ出せ」

──初当選となった次の選挙は、その7カ月後にやってきます。1980年のいわゆる「ハプニング解散」ですが、初出馬の時の勢いそのままに臨めたことは大きかったですね。   

古賀 早く選挙をやってもらいたいと思っていましたから、私にとってはものすごくラッキーでした。大平内閣への不信任案が成立し、それを受けて大平先生は衆参同日選挙を決断されました。おかげさまで前回の惜敗の余韻が残ったままの戦いができた。この時はトップで初当選を果たすことができましたが、大平先生の急死で当選の報告ができなかったことは返すがえすも残念でなりません。

──宏池会では新人議員をどのように教育されるのですか?

古賀 田中六助先生に直接教育を受けることができたのは有難いことでした。「宏池会という伝統ある派閥は、政策にめっぽう強い。大蔵省を始めとした官僚出身の議員も綺羅星のごとくいる。だから、政策を勉強しても君の能力ではとても追いつけない。君は党務で行け。政党のなかに活躍の場を見つけ出せ」と。それが田中先生の私への最初の指導でした。さらには「国対委員長が目標だ。それが生きている政治だ」と。政党にとって国会を動かすことは一番大事な役割です。それを担えるようになることが当面の私の目標でした。

──党務というのは、国民からすればわかりにくいとも感じています。

古賀 その通りだろうと思います。政党は国の機関ではありませんからね。それに党務に携わることで政治家として輝いたり、光ったりするものでもない。けれども、党務を担う人の存在は絶対に欠かすことはできません。また、総裁が決して独善に走ったりすることがないように、党内を調整することも党務の大事な役割です。

 この役割をまっとうするには、自民党内だけではなく野党にも幅広い人脈をつくる必要があります。人脈づくりは、信頼関係を構築することでもあります。そのためには政治に対する正直さ、誠実さを持つことに尽きます。そこには責任と覚悟が生まれます。党務をやる限り最も大切にしなければならないことは、生きている人たちの人間関係です。それこそがポイントだと私なりに考えました。

 

「加藤の乱」を振り返る

──古賀さんの政治人生を振り返ったときに一つのポイントに挙げられるのが、いわゆる2000年11月の「加藤の乱」ではないかと思います。森政権への不信任決議案に「宏池会のプリンス」とも呼ばれた加藤紘一さん(内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任)が賛同する動きを見せました。

古賀 長い政治活動のなかにはいくつかの節目があって、反省したり後悔したりすることがあるのも事実です。その一丁目一番地がやはり「加藤の乱」だと思っています。今日の日本の政治をここまで混迷させた要因の一つであるのは間違いありません。宏池会の目標は加藤政権の誕生にありました。

 あの時の加藤さんの行動をどのように鎮めるのが一番だったのか、何が必要だったのだろうかとずいぶん考えます。その答えは未だ出ていませんが、あえて「その答えをいま出せ」と聞かれたら、加藤さんはあの局面で一人でも堂々と本会議に出て自らの信念を貫く胆力が求められたのではないでしょうか。

 結果として自民党からのいかなる処分も潔く受けて、その厳しさを打開していく覚悟を持つべきであったと思うのです。仮に自分が同じ立場に置かれたら、毅然と決断したと思います。加藤さんを責めるわけではないけど、「加藤の乱」が政治の貧困を招いたことは残念なことです。

 政治の世界では「もしも」は禁句ですが、仮に加藤政権が実現していたら日本社会の風景は違っていたように思います。「加藤の乱」は国家国民にとって大きな損失であったと思っています。

──尊敬する政治家として野中広務さんを挙げていらっしゃいます。好き嫌いの分かれるタイプの政治家だった印象がありますが、古賀さんはどういったところに惹かれていたのでしょうか?

古賀 野中先生の平和主義ですよ。戦争を知っている者として、どんなことがあっても平和だけは次世代に守り抜いていくという強い信念です。日本を平和の国として後世に残していくために政治をされていました。

 私が日本遺族会の会長になった時に、野中先生と一緒に父が亡くなったフィリピンのレイテ島の戦地を訪れたことがあります。それまで一度も訪れたことがなかった私でしたが、野中先生に背中を押され訪ねました。

 その日は雲一つない快晴でしたが、簡単な祭壇をつくって父が好きだった地元の地酒や亡くなった母の遺影を飾った途端、激しいスコールになりました。すると野中先生は私に、「ほら、来てよかったろうが。息子がやっと迎えに来てくれた。親父がこんなに喜んでくれた。涙雨だ。さぁ親父の魂を持って帰ろう」とおっしゃって慰めてくれました。

 政治というのは、ある意味では権力闘争の繰り返しです。仮に100人を対象とすれば、そのすべてを賛同させることができる政治は不可能です。私にとって野中さんとは、義理人情に厚く弱者に温かく、何よりも骨の髄まで平和主義者でした。一緒に政治をできたことは今でも私の誇りであり、有り難いことだったと感謝しているんです。

 

自由民主党幹事長に就任

──野中さんの後を継ぐかたちで、2000年12月、第39代自由民主党幹事長に就任されます。

古賀 青天の霹靂とはこのことで、私にはそんな能力なんてあろうはずがありませんが、混乱する森政権のなかで役割が回ってきました。ここで死んでも構わないという心境でしたね。森先生に総裁任期の前倒しをお願いするために、私は幹事長を引き受けるのだという覚悟でいました。自民党の政権を守るためには、それが必要だと考えたわけです。そして目前だった都議会議員選挙を勝ち抜いて、参議院選挙に勝ち抜く環境をつくるのが私に与えられた使命でした。

 森政権はえひめ丸の沈没事故や「神の国」発言でメディアからの批判が高まっていく中、支持率は大きく低迷していました。「えひめ丸の事故が起きたあともゴルフをしていた」とメディアは強く批難して、繰り返し森先生がゴルフ場にいる映像が放送されました。実はあの映像は、夏にゴルフに行ったときのものでした。えひめ丸事故とはまったく無関係でしたが、事故と結び付けるかたちで何度も放映されたんです。ああいう報道が許されていいものか、私は今でも大いに疑問に感じています。

 森先生は、前任の小渕恵三首相の急死を受けて首相に就いた経緯がありました。あの時の状況をメディアは「5人組の密談」で誕生した総理だと強く批難しました。実際は党のルールに従って決めたわけですから、何の瑕疵もありません。

 森先生には、総裁選の前倒しを自ら決断して承諾していただきました。長い政治経験がある先生だからこそできた判断だったと思います。このときに私は「古賀幹事長にお願いしたいのはただ一つ。オープンな選挙戦にすること」という下命を受けました。それを受けて、私は従来までの総裁選挙の方式を改めることとしました。地方票を重視することで、広く民意が総裁選に反映されるようになったわけです。

 こうして行われた自民党総裁選挙では、地方票を圧倒的に獲得した小泉純一郎さんが勝利して、小泉政権が誕生しました。小泉さんをはじめとしてメディアを意識したワンフレーズ、ポリティックスの善悪の対立をあおる劇場型政治が大きく台頭したことを考えると、私の決断した総裁選の見直しによる小泉政権の誕生を疑問に思うのです。それから清和会の時代が30年近く続くことになったわけです。

 

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