中東の目に映る日本の「地政学」的位置【池内恵】

B!

『公研』2024年7月号「めいん・すとりいと」

 

  「戦略」や「インテリジェンス」といった言葉が、うわついた言論の人気商売の市場だけではなく、お固いお役所の計画や、理系の研究開発競争の真剣勝負の場でまで、主要な課題として語られるようになって久しい。私自身はこういった言葉を安易に使うことには躊躇もありながら、しかしどうしても必要な時には使ってきた。「イスラーム」や「中東」について研究し、それを社会的・政策的に活かしていく際には、それが「戦略」や「インテリジェンス」に関わるものであるということを示すべき場面はある。なるべく使うことを避けたいが、しかし必要なら堂々と、ただし控えめに使う、というぐらいの用い方をしてきた。

 これに関連して、最近は「地政学」という言葉が、すっかり過去の禍々しい記憶を払拭され、「危険なグローバル社会でうっかり地雷を踏まないように、各地の事情をしっかり事前調査しておこうね!」ぐらいの、とことん明るい前向きな気持ちで用いられている事例も目立つ。ロシア・ウクライナ戦争で、エネルギーや環境をめぐる理系中心の議論が主導してきた政策が、政治的理由で一気に覆され、全く異なる最適解の提出が求められる、といった事態が、特に理系方面で「もしかして政治とか国際関係って重要なんじゃないですか? 世界では宗教とかナショナリズムとかで重要な政策が決まってしまっていませんか?」といった、人文系社会分野の研究者から言えば「車輪の再発明」としか言いようがないようなかたちで研究分野が「評価」される場面が最近多いように感じる。

 それだけ直近の過去の日本は、合理的な計算で先が予想できるような安定した状態だったのかもしれないし、それを我々は幸福にも「停滞」と呼んでいたのかもしれない。

 そのような世界情勢の揺らぎは、ほんの一瞬かもしれないが、日本の相対的な位置を高めていると感じる。まったくの現場の実感で申し訳ないが、研究対象として向き合っている中東の、特に経済的に富裕なペルシア湾岸アラブ産油国や、イスラエルといった国々からの、日本を見る目は、自信を失いがちな日本国内の言論と対照的に、好意的である。もちろん、日本を覇権をめざす大国とは見ていない。成長著しい、組んだら高い利益を得られるビジネス・パートナーとも見ていない。バイデンかトランプか、プーチンかエルドアンかムハンマド皇太子か、といった鼻息の荒い「肉食」の主導権争いの場に日本は不在である。

 しかし、高齢層に偏っているとはいえ莫大な金融資産を抱え、安全で便利な都市環境を整備し終わり、相対的に高い生活水準を確保し、国際的な比較からは高水準の教育を言語障壁の中で安定的に維持し行き渡らせている日本社会を、賞賛し憧れる人たちは、私の接する範囲では多い。それは国と国の間でも各国の内側でも貧富の差が著しく、不安定と不確実性と激変が通常となった中東の有力国の元気なエリート層・中間層にとっての「ないものねだり」なのかもしれない。

 それだけでなく、米国と中国がそれぞれの内政の矛盾で軋み、米中対立に起因する制約が中東の有力国にとってはビジネスを阻害する要因となる中で、米中の中間で米国寄りの位置で安定的に存立している日本が魅力的に見えてくる場面なのかもしれない。中東諸国にとっては米国と深く結びついて国際政治経済の中での得られる権力や富、中国の圧倒的な規模と成長のいずれも捨てがたく、その両方から過去数十年間、大いに利益を得てきたものの、米中それぞれが選挙や経済的調整で不透明な現在、しばし小休止の止まり木として日本に目を向けているのかもしれない。

 近年のイスラエルと湾岸アラブ産油国との急接近によって得られうると感じられていた、危険だがレバレッジの高い政治的・経済的取引の機会が、ガザ紛争とその周辺への波及によって遠ざかる中で、大きな利益も出ないが危険も少ない日本との関係が、不意に魅力的に見えてきたのかもしれない。とにかく中東の有力・富裕国からの訪問者と提携の提案が引も切らない。私はよく知らないが、これが「地政学」の効果というものなのかもしれない。

東京大学教授

 

最新の記事はこちらから