電話越しに2時間続いた兄の説教

──金工作家として活動を開始してからも、一番上のお兄様は宮田さんの作品に対してずいぶん厳しい意見やアイドバイスを述べられていたそうですね。

宮田 そんなにカッコいいもんじゃない。ただ怒鳴られていたんですよ。電話越しに2時間以上も説教されたこともありました。それを我慢して聞いていました。有り難い助言だとは思っていませんでした。でも不思議なんだけど、僕は抵抗しなかった。兄には、「オレのほうが正しい」という何か原点になるようなポイントがありました。僕は兄が考えている原点については納得できていたから、喧嘩にはならずに聞くことができたのでしょう。

 結局、作品というのは、今現在までの自分の生きざまの証明だよね。だから、作品はそれ以上にもそれ以下にもならないわけです。でも、自分が求める理想像とあまりにかけ離れていたりすると、そこに言い訳や妥協が生じます。「時間に間に合わないから仕方がない」とか「金がないからこの材料でいいや」とかね。兄からすれば、それが気に入らない。僕が油断しているところを必ず見抜いて、そこを突いてくる。「お前はここで終わるのか」と言いたかったのでしょう。今にしてみれば、「お前はもっとできるはずだ」と伝えるために怒っていたのだと思うけどね。

──期待しているからこそ、叱っていたわけですね。

宮田 あの頃はそんなふうに受け止めることはできなかったね(笑)。兄のことを知っている先輩諸氏は、今の僕の仕事について「兄が見たら喜んでくれたんじゃないか」と言ってくれました。けれども、彼らは兄がどれだけ怒鳴っていたのかを知らないわけです(笑)。ただ、あの時に兄に怒られていたのが効いていたのかなとは思う。そういう意味では、兄は僕に対して正直でした。期待してくれていたのだと思います。

──その後は1979年に現代工芸美術展の文部大臣賞、81年には日展で特選を受賞されるなど金工作家として順調に歩まれていますが、1990年から1年間在外研究員としてでドイツのハンブルグに行かれています。何を求めて行かれたのですか?

宮田 いわゆるマイスター(ドイツ語圏の高等職業能力資格認定制度)の勉強をしたかったんです。最初は鉄の町デュッセルドルフが良いかなと思ったんだけど、当時は日本人だらけでしたから、それを嫌ったんですね。それでハンブルグを選びました。ハンブルグの駅前にはハンブルク美術工芸博物館(Museum für Kunst und Gewerbe)があって、そこへ行きたかったんです。

シュプリンゲン「23-2」

 

ハンブルグの人たちを驚かせた大根おろし、梅酢、米ぬか、なたね油

宮田 ここには、日本の美術品や工芸品がいっぱいあるんですよ。ヨーロッパの人たちは、政変が起きて政権が代わったりすると、物の価値が大きく変動することをよく知っていますよね。日本で言えば、江戸から明治になったときに、それまでは武士の命だった刀がただの鉄棒になってしまったようにね。鍔や馬具、漆器の陶器などに狙いを付けて、ごっそりと買って帰るわけです。それらがハンブルグの港に着くとまずはそこで展覧会を開いて、その後はパリに移動して展覧会を開きます。だから、19世紀末から20世紀初頭にかけてパリで流行したアールヌーボー発祥のきっかけの一つをつくっているのは日本なんです。ドイツ版アールヌーボーをユーゲントシュティール(Jugendstil)と言うのだけど、その作品群は美術館にたくさん収蔵されています。

 僕は、ハンブルク美術工芸博物館でそれらの美術品の補修をやらせてもらいました。ドイツ人たちの保存する方法は日本人のやり方とはまったく違っていて、はっきり言えば全然ダメでした。だから、日本のやり方を彼らに教えたんです。日本独特の工法だけど、金属の最終処理は梅酢だとか大根おろしだとか、米ぬか、なたね油なんかの食材でやるんです。おもしろいよね。そのやり方自体にもびっくりしていたけど、きれいに復元された作品を見て、彼らはとても驚いていました。

 ハンブルグの人たちは背がとにかく高くて、身体がとにかく大きいんです。日本人の僕は、トイレも届かないくらいでした(笑)。彼らは身体も大きいのだけど、自分たちの文化へのプライドも高いので、最初は「日本人が何しに来たんだ」という感じでした。ドイツ語をそんなに喋れないから、きちんと理解していたわけではないけど、そういう感じだったんです。けれども、日本の伝統的な修復法を教えたあとは、彼らの態度が急に変わってすごく尊敬してくれました。「日本人の金属に対する理解はすごい。もっといろいろなことを教えてほしい」と言ってもらえたんです。

 そもそも在外研究で日本を出たときは、日本を見切っていたような気持ちがあって、新しい刺激を海外に求めていたところがありました。けれども、逆に日本人であることの誇らしさを知ることになったんです。日本人というDNAを自分で発見することができた。「かわいい子には旅をさせろ」と言うけれど、本当にそう思いましたね。

──日本人はモノづくりに誇りを持ってきましたが、製造業が衰退していることもあってかつての自信を失いかけている印象もあります。

宮田 そこは時代によって変わってくるから仕方ないところもありますよね。高度経済成長期には日本はモノづくりで豊かになっていった経験がありますから、元気がなくなっていると感じられてしまう。今は変革期だと思っているから、この先の時代は変わっていくのだと見ています。けれども、どんな時代になっても日本人の器用さやモノづくりを通じて蓄積してきたことは、我々のバックボーンになっていることは間違いないでしょう。新興国が豊かになっていけば、今度は必ずこだわりのあるモノを求めてくるようになる。そういうときに、再び日本のモノづくりの良さは、世界から見直されると思います。だから、僕はまったく悲観していません。

 

イルカの跳躍を見て勇気をもらう

──作品のモチーフにイルカを多く用いていますね。イルカを題材にした「シュプリンゲン」(飛翔)シリーズは宮田さんの代表作になりました。何かきっかけになるようなことはあったのですか?

宮田 ハンブルグから帰国してから、自分のふるさとである佐渡をモチーフに創作しようと思って佐渡に帰省しました。けれども佐渡の文化は完璧で、どこにも自分には付け入る隙がないように思えたんですね。それで打ちのめされるような気持ちで、佐渡をあとにすることになったんだけど、帰りのフェリーでイルカのことをふと思い出したんです。「そうだ! オレ、受験のときイルカに出会ってる!」って。

 初めての藝大受験のために佐渡から連絡船で上京するときに、甲板から寄り添って進む黒い背中が見えたんです。なんだかわからなくて、船員さんに聞くと「ああ、イルカだよ」って。驚いたね。イルカを見るのは初めてだし、夏のイメージがあったから。それがカッコいいんだよ。びゅんびゅん飛ぶみたいに海を蹴っていくように泳いでいく。

 あのときは藝大受験に受かる見通しもなかったし、将来どうなっていくのかまったく見通せなかったからものすごく不安に感じていましたが、イルカの跳躍を見て勇気をもらったね。僕を見送ってくれたみたいでね。この海でイルカの群れを見たのは、後にも先にもあれ一回キリでした。

 「シュプリンゲン」はこのときの記憶が元になっているんです。でも、それをどうやってかたちにするかずいぶん悩んで考えました。それで思いついたのが、目を入れないことでした。目は感情や思いを映す大事なポイントで、造形の最後の仕上げです。でも目を入れてしまうと、喜怒哀楽の一つしか伝えられないですよね。だから、目を入れなければ、見る人の思いを懐の深い母のように、すべて温かく受け止められると考えたんです。

 

溶けていく氷、蓮の葉のうえを転がる朝露

──「シュプリンゲン」はまさに飛翔するような躍動感があって軽やかな印象を持ちました。素材は何を使っているのですか?

宮田 屋外にあるものはステンレス、アルミニウム、チタンが多いです。イルカをつくる前の作品は、鉄を使っていました。その頃に表現したかったのは、溶けていく氷の流麗な様子とか、朝露が蓮の葉のうえを転がっていくところとか。ああいうのが綺麗だと感じていて、鉄を使って作品にしていました。

 それを4ミリぐらいある分厚い鉄の板でつくっていくんです。皆さんは鉄の板の厚みの感覚はわからないと思いますが、4ミリの鉄板はまず手では曲がりません。鉄を熱して叩いていくんです。鉄は熱いうちに叩けば自由にかたちをつくっていけます。銅もよく使いました。一番柔らかいのは銅なんです。熱すると柔らかくなるのだけど、叩くと硬くなる。その特性をうまく利用していきながら、自由なかたちをつくっていました。

 でも外に設置することを前提にしたモニュメントやパブリックアートに魅力を感じたこともあって、アルミやステンレスなどの耐候性のある素材に代わっていきました。

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