芸術家などめざすものか
──きょうだい全員が芸術関係に秀でているというのもすごい話です。
宮田 5歳になったときに、親父とおふくろの前に正座させられたことがありました。目の前に白い扇子とそろばんが置かれて、「お前はどちらをとるか」と聞いてくるんですよ。僕は迷わずに扇子を取りました。それから、扇子と足袋を入れた布袋を下げてお袋や姉たちと一緒にお能のお師匠さんのところへ行って、仕舞を習うことになりました。
──7人きょうだいのなかで「そろばん」を選んだ人はいたのですか?
宮田 誰もいない(笑)。
──5歳の儀式は佐渡に伝統的に伝わってきたものなのですか?
宮田 たぶん他の家でもやっていたと思う。佐渡には能舞台が30以上もあるからね。能の舞台に立つ人も多くて、芸術を見る目が肥えているんですよ。どの家にも掛け軸や色紙が当たり前のように掛けてあります。僕の初舞台は、小学校1年生の時でした。能を習ったおかげか、僕は小さい頃から担任の先生などから「所作が良い」と褒められていたんですよ。藝大に入学してからも、飲み会のときなんかにずいぶん役に立ちました。今の人たちはどうかわからないけど、大学に入ると飲みますよね。藝大ではバカ飲みするだけではなくて、芸をするんです。しょうもない芸なんだけど、僕はそれがうまいらしい。動きのキメなんかが「他の人とは違って決まっている」と言われたりして皆に喜んでもらえました(笑)。小さい時に能をしていたのが生きているわけです。まぁ、お調子者ですね。
──才能溢れるお兄さん、お姉さんたちに影響されて、宮田さんご自身も若い頃からアーティストを志望されていたのでしょうか?
宮田 僕は6人の兄や姉たちにずっとコンプレックスを持っていました。実家には彼らが描いたデッサンもありましたから、兄たちや姉たちとの実力の差を嫌がうえでも思い知らされていました。あぜんとするほど上手いわけですよ。学校の先生や近所の人からも、「お兄さんやお姉さんたちはあんなに絵や字が上手なのに……」と言われてきましたからね。ツラいですよ。次第に絵を描くことが楽しくなくなっていきました。だから、芸術家などめざすものか、と思っていたんです。
それでもとても不思議なことに、高校2年生を終える頃には自分もやはり藝大に進みたいと考えるようになりました。工業デザイナーをしていた2番目の兄の影響もあって、自動車のデザイナーに憧れるようになりました。あの頃の日本車のデザインは、本当にカッコ良かった。アメリカ車の良いところを抽出して、日本に合ったコンパクトにまとめて独自のデザインとして昇華させていました。僕もその第一線でやってみたいと思っていました。
僕はブルーカラーとホワイトカラーの両方の仕事をやれる人間になりたかったんです。例えば、自分がデザインしたものを現場の人たちにつくってもらうにしても、「いや違うんだ。そうじゃなくて、こうするんだよ」という具合に自分で修正できたらいいなと。設計図ばかりでは3次元ができないじゃないですか。僕はその両方できる人になりたかった。それが藝大に入ってからの夢でした。
おしゃれで色彩感覚に優れた母
──7人の芸術家を育てられたお母様はどんな方だったのでしょうか?
宮田 とにかく手先が器用で、それに色彩感覚が抜群に良かった。母や姉は春になるとセーターをほどいて大釜で糸を染め直して、また編んでいました。そうすると、毎年違う色やデザインのセーターを楽しむことができる。厚紙を縮緬の風呂敷で包んで帯代わりにして利用してみたり。限られた着物や帯を上手に組み合わせて着たりしていました。とても、おしゃれでしたね。
母の器用さと色彩感覚は、一番上の兄に完璧に伝授されていましたね。そのあたりに関しては、父よりもおふくろのほうが優れていたと思うね。だからと言って、お袋は父に「こうやったら」とか「こうやるともっといいのになるよ」といったことは絶対に言わなかった。そこはすごいなと思います。僕なんかカミさんに「何やってんの」といつも言われていますから(笑)。
──ご著作のなかに、日展の締め切りが迫るとお父様とお兄様の間で火花が散るような緊張感があったとありました。親子でありながらライバルでもあったのだとすれば、理想的な師弟関係のようにも思えます。
宮田 理想を超えてましたね。後ろ姿を見てると、もうほとんど一触即発のような感じでした。小さかったから、そういうときは怖くて工房には入れなかった。作風は全然違うし、お互いが高みに到達することを競い合ってめざしているような感じがしました。
──お兄様が父上を超えていく局面はあったのですか?
宮田 我が家の家風なのかもしれませんが、同じような作品を一子相伝ではやらなかった。だから、そういう判断はできません。芸事でも一子相伝の場合、よく「何代目は良かったね」というふうになりますよね。でも、父と兄の場合は、母体は同じ金属だったけど、表現する目的や方向性がお互いに違っていました。お客様も二人の違いをそれぞれに楽しんでくれていました。そこはありがたいことだとも思いました。
父は「蝋型鋳金はこうやるんだ!」というスタイルで、兄は「蝋型はここまでやれるんだ!」という感じでした。同じような言葉だけど全然違います。二人ともその違いをよくわかっていましたね。
佐渡から東京へ
──高校卒業後は、藝大進学に向けて東京の美術予備校に通われます。故郷の佐渡島を離れるときはいかがでしたか。
宮田 昔は佐渡から新潟に渡るのもたいへんでした。「船待ち」と言って、荒れた海が収まるのを待たなければならないことがよくありました。小さな連絡船でしたから、信濃川の河口で高波が立つとそれを越えられなくなります。すぐ目の前に新潟が見えているのに、佐渡へ引き返すことがありました。その逆もありました。そのときは港のそばにある船待ち専門の宿をとって、船出を待つことになるんです。物理的にも心理的にもとても遠いところへ行く感じでしたね。
東京ではすでに金工作家として独立していた一番上の兄貴の目白にあったアトリエに住まわせてもらいました。屋根裏の部屋を用意してくれていたんです。
──東京にはすぐに馴染めましたか?
宮田 佐渡弁がなかなか抜けなくて半年ぐらい無口でした(笑)。予備校の画塾は浪人生や高校時代からやっている連中がいっぱいいて、みんなうまい。僕は高校3年生になってからやっと始めたから、それに対抗するのはとてもキツかったですね。
浪人生活2年目から予備校通いはやめました。授業料がもったいないのもあるけど、もっといい勉強の仕方がある気がしていました。池袋に「池袋モンパルナス」というアトリエ付きの貸家群があって、そこに兄の教え子である藝大生の榑松次郎さんが部屋を借りていました。有り難いことに、昼間はアトリエを使わせてもらえることになったんです。次郎さんのお父さんは、藝大を出た洋画家の榑松正利先生なのだけど、たまにアトリエを通りかかることがあると、デッサンのちょっとしたアドバイスをいただけることもありました。夕方になると、次郎さんや同級生が集まって、一杯やりながら芸術談義が始まりました。彼らの話を聞いているだけでも得るものが多かった。藝大に入学したいというモチベーションも高まったしね。
浪人時代はおもしろかったですね。60年代半ばの東京は、「自分のかたちはこうだ!」と自分の生き方をきちんと認識していなければ、あっという間に時代に流されてしまうような激しさがありました。それを「おもしろい」と言うのは適切ではないのだろうけど、それでもやはりおもしろかったですね。
──2浪の末、東京藝術大学美術学部工芸科に合格されます。大学生活は楽しかったですか? よく藝大生は入学すると、周囲に圧倒されて自信を失ってしまうとも聞きます。
宮田 僕は楽しくてしょうがなかったです。昼も夜も楽しくて家にはあまり帰らないで、よく学校に潜り込んで寝泊まりしていました。同級生たちと作品で勝負して、お互いに感じたことを語り合えたことですね。
毎日スケッチして、お互いにそれについて意見を言い合う。毎日が真剣勝負なんです。そういう会話ができたことは至福でした。だから、いい思い出しかない。それに悪いことは、すぐ忘れるようにしているからね。悪い思い出は痕跡だけは覚えていますが、生々しく記憶に残すようなことはしないんです。
僕は教員として藝大に残って学長までやりましたから、ちょうど半世紀、藝大にいることになりました。いろいろな学生に接しましたが、やっぱりキワキワで生きていることが多かった。何かできることがあれば、「寄り添う」ことは意識しました。寄り添い過ぎるとおかしくなることもあるのだけどね。
芸術表現というのは、数値に表れない世界だから「これでいいのだろうか」という疑念に常につきまとわれることになる。「これが最高だ!」と思っている作品を完全に否定されたりすることもある。だから本当にむずかしいのだけど、講評会が終わった後には一杯やりながらじっくり語り合ったものでした。
鉄のカマキリに衝撃を受ける
──宮田さんは鍛金を専攻されましたが、ご専門はどのように決まっていったのでしょうか?
宮田 工芸科は入学から2年間は専門を決めずに、彫金、鍛金、鋳金、漆芸、陶芸、染織などの領域を自由にめぐって勉強します。これを「どさ周り」なんて呼んでいましたが、どんな研究室があるのか見極めたうえで専門を決めるわけです。金工を彫金、鍛金、鋳金というように専攻を細分化して教えるのは、美術大学の中でも藝大くらいでしょうね。
僕は2年の秋になっても進路を決めかねていたのだけど、東京都美術館で開かれていた日展で驚くべき金工作品に出会ったことで迷いが消えることになります。それは針金のような細い4本足で立つ、鉄のカマキリでした。藝大で鍛金を教える山下恒雄先生の「草原の舞踏会」という作品です。長さ50センチほどの細い足は、鋳金の技術でつくったらポキッと折れてしまったと思います。山下先生は鉄の板を熱して叩き、薄くのばしてカーブさせ、中が空洞のパイプに溶接していました。パイプにしたことで鉄の強度が増したわけです。鍛金ならではの繊細な技に感動しました。
私は迷うことなくカマキリ先生こと山下先生の研究室の門を叩きました。先生は若い頃に自動車会社に就職していましたから、工業デザインにも詳しかった。鍛金の技術があれば、机上で設計図を引くだけでなく現場に下りていって自分で溶接して模型をつくり、職人と対等に話ができます。先ほども言いましたが、ホワイトカラー、ブルーカラーの両方の仕事ができる人間になりたい私にとって、山下先生はお手本のような存在とも言えました。
鍛金の研究室棟の作業場には巨大ガス炉や大型高速カッター、1000度近い高温の金属を押しつぶす鍛造機、旋盤・フライス盤などの工作機械が設置されていて、町工場のようでした。研究室は危険物を扱い、制作中は鼓膜が破れるほどの騒音がするので、構内の隅っこに押しやられていました。
大学院を修了した後に、「大学に残らないか」と声を掛けてくれたのも山下先生でした。こうして藝大で助手、講師をしながら、金工作家としても活動する日々が始まります。藝大では学長も務めることになりましたから、結局、半世紀通い続けることになりました。