『公研』2023年1月号「対話」 ※肩書き等は掲載時のものです。

今やあたりまえのものとして存在する時間。

日本人は時間とどのように歩んできたのか? 

日本標準時子午線が通る明石市立天文科学館で、井上館長と早指しの名手糸谷八段に日本人の時間感覚について語っていただく。

 

 

明石市立天文科学館館長 井上毅氏   × 八段・棋士会副会長 糸谷哲郎氏

 

時間にルーズだった日本人

井上 本日は「日本人と時間」をテーマにお話していこうと思います。私はもともと天文が好きで明石市立天文科学館に勤務し始めました。明石市と言えば、東経135度の日本標準時子午線が通る街ですよね。当館はまさに標準時子午線の真下に建てられていることもあって、次第に天文と時間のつながりを意識するようになりました。そんなこともあって、日本人が今のような時間感覚が形成されるきっかけとなった「時の記念日(1920年に制定)」についても研究を始めることになり、時間のおもしろさにどっぷりハマってしまいました。

 また、私は子どもの頃からの大の将棋ファンなんです。テレビなどで対局を観ていると、記録係が「10……20……1、2、3、4、5」と刻み込むように残された持ち時間を読み上げますよね。将棋はまさに時間との戦いでもあります。今日はそのようなお話をできることをとても楽しみにしていました。

糸谷 ありがとうございます。大学院でハイデガーの研究をしていたこともありますので、時間については哲学の視点からも少しお話しできればと思います。

 まず、日本人は時間に正確な国民性だとよく言われますが、この時間意識はどのようにでき上がったのでしょうか?
そもそも、はるか昔は時間というものすら意識していないですよね。日が昇って暮れてという程度の認識で1日という概念もなかったのでしょうか。

井上 暦が生まれてから、1日というものを意識するようになりました。まず、日本で初めて時を人々に知らせたのが、飛鳥時代に天智天皇がという水時計を使って時を計ったときです。日本書紀に記されています。

糸谷 日本で初めて時計が使われた日ということですね。

井上 そうです。飛鳥時代には古代中国から律令制度が入ってきて、日本が国のかたちを整えようとした時代でもあります。暦もこの時代から使われていますし、時間に基づいた出勤退勤も導入されるなど、少しずつ時間の文化が日本に定着していきます。江戸時代になると日本人はわりとゆったりした時間感覚を持っていたようです。そのことを象徴する話として、明治維新の頃に日本を訪れた外国人が日記に「日本人が時間を守らない」という愚痴をこぼしていた記述があります。

糸谷 江戸時代の頃は世界からまったく違う印象を持たれていたのですね。そこから今のような時間意識になっていったのは、やはり時計の普及などが影響しているのですか? 

井上 いくつか段階を経て現在の時間意識に至るのですが、まずポイントとなったのが、明治維新によって西洋の時刻制度が導入されたことです。特に鉄道の影響は大きくて、人々は鉄道を利用するために、駅にある時計と時刻表で列車の発着時刻を確認しました。これが、時計の時間を意識し始める最初の段階です。その後、明治19年には日本標準時が定められました。それまでは場所によって時刻の基準が異なり、例えば大阪駅と東京駅の時計が違った時刻を表示しているなど、国内で統一する標準時はありませんでした。しかし、それだと電車の運行時間にもズレが生じてしまいます。英国グリニッジ天文台を通る子午線を本初子午線とするといった国際的な取り決めがおこなわれたことを契機に。日本標準時が定められました。この頃からさらに鉄道も普及しはじめ、日本人は「分」という単位を意識するようになります。

 

現代時間感覚に繋がる時展覧会

井上 日本人が現在の時間感覚に直接的な影響を与えたのが、1920年に開催された時展覧会がきっかけで制定された「時の記念日」です。この時展覧会というのが、非常におもしろい展覧会でした。

 時展覧会は、東京教育博物館(現国立科学博物館)の初代館長で、日本の博物館の父と呼ばれる、棚橋源太郎氏が仕掛けたものです。当時の博物館は収蔵品をただ陳列しているだけの施設で、展示に工夫がありませんでしたが、棚橋は今ではあたりまえとなっている特別展の開催を日本で初めて実施します。その第一弾となったのがコレラ展です。当時、横浜港から入ってきたコレラが日本中で大流行していました。コレラの正しい知識を広めることを目的に開催された展覧会ですが、これが人々に大当たりします。閑散とした博物館に約5万人が来場したのです。そこで、テーマ性を持った展覧会に手応えを感じた棚橋は同年に生活改善展を開催し、これも大盛況となります。そしてこれがきっかけで生活改善同盟会というのが発足し、同盟会

明石市立天文科学館に所蔵されている『誌上時展覧会』の表紙

は「時間を正確に守ること」という項目を掲げます。この項目を受けて開催されたのが時展覧会です。展覧会では珍しい時計や資料が展示され、約20万人が訪れます。この盛り上がりを人々に知らせる記念として誕生したのが時の記念日です。この記念日は、先ほどでてきた天智天皇が日本で初めて時計を使った日を現在の暦に直すと6月10日ということで、この日に時の記念日が制定されました。

糸谷 20万人という来場人数の多さに、人々の関心の高さがうかがえますね。

井上 当時の通俗展覧会の来場者としては過去最高人数でした。さらに言うと、この時の記念日によって日本人は「秒」を意識するようになります。時の記念日のセレモニーでは、正午に時報の大砲がドーンと鳴り、各地でそれに合わせて鐘が鳴ったり工場が汽笛を鳴らしたりと、東京が響きの都になったと言われています。また、東京教育博物館に集まった学生たちが、正午のタイミングで風船を飛ばしたという記録があります。これは、日本人最初のカウントダウンイベントだと言えるでしょう。今では普通となったカウントダウンですが、初めて秒を意識したという意味でも時の記念日は非常に大きな意味を持ちました。その後、ラジオの普及によって秒がより日常のものとなり、戦後には高性能な国産時計が流通するなど、そういうことも手伝って現在の国民性が形成されたのです。

 最近だと、日本の鉄道が20秒早く出発して謝罪をしたというニュースがありました。日本のメディアは時間を守れなかった失敗としてネガティブな報道の仕方をしましたが、BBCがネットでこのニュースを報じたところ、掲示板で「日本の鉄道は正確だ」「日本に行ったら何でも時間通りでびっくりした」というポジティブな反応が返ってきました。日本人の時間意識を表した興味深いエピソードです。

糸谷 ここ百数十年で日本人の時間意識がひっくり返ったのですね。初めはあまり正確ではないと思われていたのが、段々と時間意識が育まれていって現代に至ると。やはり時間というものは、ある程度固定のものとして与えられているとはいえ、場所によって感覚は違うものですよね。

井上 そうですね。時間に正確な国、ルーズな国というのはよく語られますし、日本人は時間に正確な国民性だと言われています。しかし、それは本当に正しいのでしょうか。例えば、日本人は始業時刻をきちんと守りますが、終業時刻にはルーズのような気がします。一方、欧米は終わる時刻だけはきっちりしていると聞きます。あとは、海外で仕事をした経験がある人から聞いた話ですが、ある国で遅刻してきた従業員に理由を聞いたら、「家で用事をしていた」という答えが返ってきて、それが理由として受け入れられる国もあるということに、びっくりしたそうです。これは、自分の時間と社会の時間、どちらを大切にしているのかという問いに繋がってきます。

糸谷 日本はどちらかと言えば、社会の時間を優先する人が多いということですね。ただ終了時間はあまり優先しない。 

井上 そうですね。終了時間を優先しないことは、社会の時間に自分を合わせてプライベートの時間を削ることを許容しているということです。時間の使い方にはいろいろな意見があるところでしょう。

 

この世で一人なら時間は必要ない

井上 では、そもそも時間はなぜ必要なのか。極論として、自分一人だけがこの世に存在していたら時間は必要ありません。つまり、社会を成立させるための共通の刻みとして、時間や時計が必要なのです。外国の方が明治時代の日本人が「時間にルーズ」だと文句を書いていましたが、両者に共通する時の刻みがなかったのでこれはしょうがないことなのです。相手を軽んじているわけではなくて、外国の方と比べて時間を刻む幅がとても広くて、許容範囲も広かったのだろうと思います。

糸谷 そうですね。今でこそスマートフォンや腕時計など、時間を計る器具が身の回りにたくさんありますが、百数十年前には家にすら時計がありませんよね。だから明るくなったとか、ここに日が沈んだとか大まかな指針で判断することになります。そうなると、正確性なんてとてもじゃないですけどムリです。

井上 2時間ぐらいの幅があったら十分それで社会が成立していたんです。例えば、江戸時代には夕方になったら鐘を鳴らす習慣があって、その音を聞いて人々は一つの時の刻みを認識していました。時計もない時代ですので、「暮れ六つ」になったら鐘を鳴らしていたのです。暮れ六つというのは日が落ちて手のひらのしわが見えなくなる時を指します。さらに厳密に言うと、暮れ六つは季節ごとでバラバラです。とても大まかな時間基準ですよね。しかし、江戸時代は、現在のようにカチっと決まった時の刻みではなくても、問題なく社会が成り立っていました。みんなが暮れ六つというのはそういうものだという共通の認識があったからです。共有する時間刻みが同じであれば幅がどうであれ問題はないのです。例えば、「沖縄タイム」と言うように、沖縄の人は比較的ゆったりとした時間幅を使用していますが、沖縄のコミュニティはそれで十分成立しています。

糸谷 むかしはゆったりしていた時間幅が、時計の普及や技術の進化などによって、だんだん狭くなってきたのですね。それが、現代人はせかせかしていると言われる所以かもしれません。

井上 そうですね。一方、時計の進化は様々な分野に変化も与えました。一つ例を挙げると、時計の進化が100メートル走の記録にも影響を与えたことです。1920年の時展覧会で100メートル走の記録が展示されていて、当時の日本記録は「11秒5分の2」、世界記録は「10秒5分の3」でした。現在は、ウサイン・ボルト選手の「9秒58」で、約100年で1秒もタイムが更新されました。おもしろいのが100年前は最小目盛りが5分の1ずつ、つまり0・2秒だったのです。技術が進んで公式のタイムは100分の1秒、勝負を分ける場合は1000分の1秒まで正確に計ることができます。勝負は0・2秒刻みから0・01秒刻みになりました。それだけ計測の精度が高くなると、0・01秒に相当する要素が明確になり、努力のしがいがありますよね。時計の進化によって人間の努力をより詳細に可視化することができたのです。これは記録の更新にも大きな影響があったのではないかと思います。

 昔と比べると1秒というのは現代人にとってかなり豊かな時間になっています。ネットのサイトでも0・1秒でおもしろそうかそうでないかを判断して、そのサイトに留まるか移動するかが決定されています。そういう意味で、現代人の時間感覚はかなり間が詰まってきていると感じますね。 

 

持ち時間最長30時間の対局

井上 では、将棋の時間について糸谷さんにお伺いします。江戸時代に誕生したと言われる将棋ですが、持ち時間という枠組みが導入されたのはいつ頃でしょうか?

糸谷 大正14年に初めての持ち時間制が施行されたらしく、初めは最長8時間だったそうです。それ以前は、そもそも持ち時間というものが存在せず、何時間考えてもいいですし、いつ考えてもよかったです。しかし、そうなると膨大な時間の対局がでてきてしまいます。持ち時間30時間で7日間に分けて行われた対局もありました。日に4、5時間とはいえ、これほど長時間の対局はイベント的に1、2戦行うぶんにはいいですが、日常的にあったらとてもじゃないけど身が持たないですね。

井上 今だと最長で9時間でしょうか。

糸谷 名人戦の9時間が最長で、今でもある二日制です。名人戦は昔の名残を受け継いでいるのだと思います。1日目は午後の6時半になったら指し掛けとして、2日目に指し継ぐというかたちです。

 将棋の持ち時間は、昔と比べるとかなり縮小傾向にあります。昔は、タイトル戦だけでなく一般棋戦でも持ち時間が7時間やそれ以上のものもありました。ただ長い対局だと結構ゆっくりと指していたそうです。朝の10時から指し始め、しゃべりながら進めて徐々に集中してくる。今だと朝から真剣に進めるので、ゆとりはあまりないのかもしれません。

井上 私が学生の頃読んでいた、河口俊彦(棋士・将棋ライター)先生のエッセイでは、棋士のみなさんが軽口をたたきながら指している様子が書かれていました(笑)

糸谷 そうですよね。だから、朝はコーヒーをすすり、「最近どう?」とか言いながら少しずつ進めて、夕方になってくると「よし、ここから勝負」と次第に集中し始める流れがあったようですね(笑)。持ち時間がたくさんあったのでジャブジャブ使っていいだろうということだったのでしょう。昼にはケーキとコーヒーが出ていたという話も聞きました。

井上 対局の際にケーキが出るのは、その時代にルーツがあるのですか?

糸谷 どうなのでしょうか。今はタイトル戦だけ出ますが、昔は一般棋戦でも出ていたらしいです。昔の将棋は結構ゆっくりやるものだったのでしょう。

 それから、持ち時間の長さだけでなく、計測方法も変わっています。今はチェスクロック方式とストップウォッチ方式の二つ計測方法がありますが、元々はストップウォッチ方式だけでした。ストップウォッチによる計測は記録係が棋士が一手指すのに消費した時間を計測し、消費時間のうち「秒」は切り捨てされるので、分単位での計測になります。例えば、一手指すのに1分59秒かかったとすると、秒は切り捨てなので計測係が持ち時間から減らすのは1分だけです。仮に59秒で一手指したとすると、待ち時間は減らされません。記録係が秒まで把握するのが大変なのが、秒を切り捨てる理由の一つではないかと思われます。これがストップウォッチ方式です。

 一方で、チェスクロック方式は秒単位の切り捨てがありません。そのため、1分59秒消費したら、1分59秒持ち時間が減ります。秒単位で正確に計れる時計が生誕したため、この方式が生まれました。一台のチェスクロックに2個時計がついていて、両者の持ち時間が表示される仕組みです。

井上 チェスクロックは画期的な装置だったんですね。

糸谷 そうだと思います。また、計測方法によって同じ持ち時間でも実際に使える時間が変わってきます。

井上 持ち時間を使い切ったらそこで終了というわけではなく、その後は一手につき決まった時間で指さなくていけない「秒読み」の世界に入るわけですね。

糸谷 そうですね。しかし、秒読みもストップウォッチ方式とチェスクロック方式で違いがあります。ストップウォッチ方式だと6時間、つまり360分の持ち時間だとすると359分消費した時点で、そこから一手につき60秒という秒読みのブームが始まります。残りの1分は、使い切ったら時間切れで負けとなってしまいます。一方で、チェスクロック方式は、例えば早指し戦の場合に持ち時間10分、秒読み30秒だとしたならば、10分きっちり消費した後に30秒の秒読みが始まります。

 

長考は時計から解放されている時間

井上 秒単位の世界だと、棋士のみなさんにとって1秒は長く感じますか?

糸谷 そうですね。集中していて読んでいる量が多いので、普通の1秒と比べると体感として長いです。とは言っても、秒読みが長いと感じる人はあまりいないですね。多くの棋士が「もっと時間があってくれ」と思っているのではないでしょうか(笑)。見ているほうは「まだ30秒か」と感じると思いますが、指しているほうは「もうか!」という感じです。主観と客観の時間認識の違いが理由だと思います。

井上 観覧者は客観的に見ているということでしょうか? 

糸谷 それもあると思います。あとは、観ている人が棋士のどちらかのファンだと、それによっても時間が長く感じるか、短く感じるかが変わってくるのではないでしょうか。しかし、当然自分が指しているときは短く感じますので、そういう意味では普段より濃密な時間が流れているようには感じます。普段の時間より頭が動いているからだと思います。

井上 長考しているときの時間の進みは感覚にどうですか? あっという間に感じます?

糸谷 確かにずっと頭を動かしているので時間は早く経ちやすいですが、あっという間ではないですね。まず、楽しい長考と苦しい長考があるので、そこでも時間の感じ方は違ってきます。どの手を選んでも良さそうだなと考えている時と、厳しい状況でどうしようと悩んでいる時では、時間経過の感じ方がちょっと違います(笑)。

 むしろ、普段よりかなり集中しているので時間を気にすることがあまりないかもしれません。そういった意味ではある種時計から解放されている状態なのかもしれません。とは言ってもどこかで自分の持ち時間とはお付き合いしないといけないので、「いま何分ですか?」とかは聞きます。哲学的に言えば、ある意味で非常に実存的な時間と言えるかもしれません。

井上 哲学においても時間が重要なテーマであることは理解できますが、理系の私からするとどうしても手を付けるのが最後になってしまいます。糸谷さんのご研究対象だったハイデガーの『存在と時間』は存在については多くの人が言及していますが、時間の部分はどうも理解が難しいです。

糸谷 ハイデガーは人間を「現存在」つまり、今の存在と表現するなど、時間に関して注視していました。ハイデガーの考える時間が難しいと感じるのは、『存在と時間』の時間のパートが未完で終わっているからではないでしょうか。ただその中でも言えるのが、人間などの実際に生きている存在は、「現」つまり「今ここ」という概念がないと存在できません。反対に、生きていないその辺の石ころなどは無時間的です。何時であろうが関係ないです。私がこうやって思考して認識して存在するためには、「今ここ」という時間が無いとその活動はできません。なので、死んでしまえば無時間的ですし、生まれる前の時間はない。生きている間、つまり実存している間は時間があると考えられています。

井上 そうなんですよね。時間を認識できるのは生きているものの特徴です。なぜ時間がわかるかというと変化があるからですよね。

糸谷 そうですね。現在。未来。過去みたいなかたちで変化が時間を認識させています。

 

知見の積み重ねが現在の時間の短縮に

井上 時計は時の流れに一つひとつ目盛りを刻んでいくものだという考え方があります。そして、正確な時計はその目盛りの幅が小さくなっています。先ほどお話した100メートル走のストップウォッチの進化なんかもその一つです。

 一方で、人間の時間感覚の目盛りは時計のように一定で同じものでなくても構いません。例えば、将棋の譜面もある種の目盛りと言えますが、見返したときに一手の進みだと、そこにかかった時間が長かろうが短かろうが、譜面で追いかけるときは同じリズムなんですよね。それがとてもおもしろいと思います。

糸谷 一手と言ってもどこを読んでいるかは異なることが多いです。例えば、三つ後の手まで読んで多くの時間を使う場合もあるので、その一手を指すのに50分使ったというより、数手後の変化を読み切るために50分使ったということです。

井上館長監修のガリレオ望遠鏡のレプリカを覗く糸谷哲郎八段。

井上 棋士の方々の頭の中も気になるところですが、おもしろいのがテレビで解説を観ていると解説者の方が盤上には現れなかった変化まで読んでいて、しかもそれが対局者とちゃんと嚙み合っていることです。

糸谷 そうですね。今までの将棋に関する思考の蓄積があるので、何を読むかというのは共通しやすくなっていると思います。やはりそのような共通認識が豊かになればなるほど、対局で「これはダメ」のような判断が一瞬でわかってきます。昔だったら一思考をかなり深いところまで掘って読まなくてはいけなかったのですが、今は大量の情報がありますから。このかたちはこういう筋があってダメ、このかたちにはこういう手があるという情報が、増えれば増えるほどダメなかたちとダメでないかたちがわかってきます。ダメなかたちがわかってしまえば、それを思考から外すことができるので、そのぶん深く読み進むことができる。実際には、そこまでかっちりやっているわけではありませんが、「このかたちはこれ」というようにパターンがどんどん蓄積しているわけですね。対局のときにも、過去の蓄積で似た盤面を体験していれば、「このときはあれでダメだったからこの局面はダメだな」と一瞬で判断できるようになっていきます。

井上 昔に比べるとクリアになっているのですか。

糸谷 そうですね。やはり知見が積み重ねるにつれて、解に到達する時間は短くなります。と言うのも、昔の人たちがずっと考えてきたものを今は常識として学んでいるからです。どこの分野でもよくあることだと思いますが、一昔前に苦労して結論付けられたものが、次の世代ではすでに常識となっているので、さらに深くまで進むことができます。

 技術の進歩による時間の短縮は様々な分野でも見られます。将棋でしたら、AIソフトによってその局面が良いのか、それとも悪いのかという予想がしやすくなりました。多くの分野でも技術の向上によって、実験が非常にしやすくなったということはあると思います。

井上 そうですね。あとは、技術的には同じものを持っていたとしても、視点の置き方の違いで差がつくケースもあります。時間で言うと、時間の目盛りを変えるだけで大発見に繋がったということがありました。例えば、太陽系以外の恒星に惑星を探すというテーマがあります。これは現代天文学の大きなテーマでノーベル物理学賞を受賞した研究です。現在では数千を超える太陽系外の惑星が発見されています。ところが今からの30年ほど前、こうした太陽系外の惑星は全く発見されていませんでした。多くの研究者が、太陽系の木星をイメージして、恒星の周囲を数十年で巡る惑星を想定したのです。しかし、観測の時間間隔を極端に短くすると、なんと木星ほどの大きさの巨大な惑星が恒星のごく近くを4日で巡るという、太陽系の常識では考えられないような惑星が見つかったのです。誰もそんな惑星があるとは思わなかった。

糸谷 見えていなかったのですね。

井上 そうです。観測の時間間隔の目盛りを5年・10年に設定して見ていたら、発見できなかった。おもしろいのは宇宙は一つ例が見つかると同じようなものが100個見つかる世界なので、この発見に倣って多くの研究者が観測を始めました。

糸谷 同じデータでも新たな視点が増えたことによって、ノイズだと思われていたものからも新たな発見ができたということですね。確かに見方一つで大きく変わることは多いです。将棋の世界でも最近は将棋ソフトから与えられる視点によって戦型の評価が変わることがあります。

井上 そうですよね。今では変わってしまいましたが、私が子供の頃には振り飛車戦法では、振り飛車側は角交換してはいけないと学びました(笑)

糸谷 今はもう振り飛車が角交換していますね(笑)。

 

人間の認知を超えたコンピュータの時間

糸谷 さまざまな分野の進歩も速くなっていて、現在の時間スパンはせわしくなっています。それによって人間が豊かになっているのか、豊かさを失ったのかは難しいところです。もっとゆっくり生きていたいという人も多いのでしょうかね。

井上 そうですね。時間の精度が上がることはこれからも重要ですが、やはり正確さ一辺倒になるのも違います。

糸谷 時間の進歩、いつか人がついていけなくなる可能性もあるのでしょうか。

井上 人間が認識できる一番短い時間幅は0・1秒までというラインがあります。例えば陸上でも、0・1秒より早く体が反応したらフライングになります。

 一方で、今はより正確でより精密な時計が登場していますが、それと同時に本当にそこまでの時計が必要なのかという議論が起きているのも事実です。

糸谷 例えばコンマ目が1・2・3・4と移り変わるのを認識できないぐらいの時計だったら、もう人間には必要ないだろうという話ですね。確かに0・1秒ぐらいはストップウォッチでも目で追えると思いますが、それ以上は難しいです。

井上 しかし、人間の認知を超えた技術も必要だという意見もあるのです。例えばGPSです。GPSによって、正確な位置を知ることができますが、その基本原理は時計を使ったものです。宇宙に約30個あるGPS衛星には、それぞれ正確な原子時計が積んであり、時刻情報が発信されています。ある地点で複数のGPS衛星から同時に時刻情報を受け取ると、衛星からの距離によって時刻情報に差がでます。この時刻情報の差からその場所の緯度経度を決定するという仕組みになっています。現在は、受信側の時計の精度の問題もあり、GPSによる位置の精度は1メートル程度が限界です。受信側に小型の原子時計が利用できるようになるとミリ単位で位置情報を得ることができます。すでに腕時計サイズの原子時計が開発されていて、自動運転などの分野で役立つことが期待されています。人間の認知を超えた時間精度の向上であっても、時間を空間に置き換えると、その技術の高さを認識できるという余地が十分にあるのです。今後も時計の正確さと小型化の追求は進んでいくでしょう。

糸谷 そこまでいくと人間の時間というのはコンピュータの時間になりますね。人間はコンピュータを介してでしか、その時間を認識できないです。

井上 おっしゃる通りです。コンピュータという道具がブラックボックスなのか、それともリアルなハサミなどと、同じような道具となるのか。もしかすると、今後はリアルな道具として認識されていく時代がくることがあるかもしれません。

糸谷 人間の最短反応時間なんかも速くなっているのかもしれません。さすがに人間がコンピュータのレベルにまでいくのは構造上難しいですが、人間を超えて技術的にはより高度なものがどんどん出てくると思います。

井上 人間を超えていくことは豊かな社会、便利な社会には必要不可欠なのかもしれません。

糸谷 本来何か人間が持っていた時間からは離れますが、より正確な時間っていうのが今後の技術の発展のためにも必要とされているということですね。

 

速いストーリー展開がエンタメの流行に

糸谷 最近は多くの場面でどんどん間がなくなっていると言われます。個人的には、特にエンターテインメント系は全て忙しくなっていると感じます。小説でも描写が減って内容量が増え、物語が進むペースがかなり速くなっています。風景描写が減る代わりにストーリー部分が厚めになっているということです。

井上 つまり丁寧な描写があってそれを頭に浮かべた上でストーリーに進むというより、筋書きをササッと追いかけるほうが好まれる傾向があるということでしょうか。

糸谷 そうですね。最近だとパターンで風景を認識させる傾向があると思います。最近増えているファンタジー系の小説もそうですが、あるファンタジーの類型みたいなものをすでに多くの人が共有しているので、説明がなくても風景が勝手に思い浮かぶのです。そうすることによってストーリーに重きを置いて書くことができるのではないでしょうか。

井上 漫画でも、いま異世界転生系が流行っていますが、異世界転生のフォーマットをみんな知っていることが前提でストーリーがどんどん進んでいきますね。

糸谷 共有していることを前提とするので、その分の描写を省略できているからストーリーに傾注することができているのかなと。

 あとは、映画でも情景の描写が好まれなくなっているのかなとは感じます。ハリウッド映画では何分毎にアクションシーンのような、人を惹きつける場面を入れるという手法を聞いたことがあります。いかにして観る人の興味を離さないかに重きが置かれている。確かに昔の映画を観ていると風景描写が今と比べると長いです。今の映画はストーリー展開が速い印象があります。

井上 やはり現代人は時間あたりにやろうとすることが増えてきて、時間の密度が濃くなっているのですね。

糸谷 そうですね。情報を吸収する量は実際に増えているのかもしれないです。情報を収集する手段が多様になってきているので、時間あたりの情報収集量や認識量が増えている。

 あと、ストーリーは情報として捉えるべきものだと多くの人は認識していますが、小説の風景的描写は情報ではなく詩に近いものがあります。詩は短い行でそれ以上のものをつくる営みです。そういう意味では、詩的なものを読むためには読み込むためのある程度の時間が必要なのです。時間的効率を求める現代人にとって、そこがネックに感じるのではないでしょうか。

 ジョン・マクタガードの『時間の非実存性』の解説で永井均先生が、「詩というのは情景を描写するとき、その情景描写以上の意味が込められている」と述べていました。俳句もそうですけど、ただ読んで得た情報だけではなくて、それ以上に広いものをどこから持ってくるかということが詩では重視されます。それは、そういうものに奥行きを出すためにはみんなの故郷のような、ある程度の共通の認識も必要ですし、そしてそれを味わうための時間的余白も必要です。

 しかし、現代では例えば夕暮れの河川敷的な共通認識を持っていなくて、例えば異世界転生やゲームのような光景が共通言語になっているのかもしれません。そういった風景描写が情報として落ちている。ストーリー部分は読む人みんなにとって新しい情報なので、共通認識を持っていなくても情報を取り込むことができます。

井上 これまでの小説だと風景描写もストーリーも同じように盛り込まれていましたが、現在の小説は詩的な風景描写が抑えられていて、結果として読者の時間の節約になっているんですね。

糸谷 そうですね。短い時間で効率よく情報を摂取できる。いわゆる行間のようなものがない。多分そういう風景を想起するために必要な時間的余白を削っているのかもしれないです。

 やはり、この時間的効率を求める姿勢というのは、時間あたりで分解できる能力が上がってくれば上がってくるほど、「分解しきらないと退屈だ」という思いに繋がります。この時間でこれしか情報がないというように。そうなるとYouTubeや映画を倍速で見る人が出てくるのも納得できます。

井上 情報を取りたいから速く見るということですね。なので、情報を得ることを目的としていない音楽なんかは倍速で聞く人がいないですよね。

 

映画を情報と見るか、作品と観るか

糸谷 視覚と聴覚は少し違う気もしますが、見るものをどう捉えているのかというのがポイントになると思います。アートとして捉えているのか、それとも情報として欲しているのか。映画の場合も結末を速く知ることを目的にしているのなら、倍速で観ることに意義を感じます。しかし、その場合、一つの作品として味わうというより、映画鑑賞を情報収集の手段と捉えているのでしょう。

井上 私は映画を2倍速で観ることに、どうしても疑問を感じてしまいます。やはり、間があることによって受け手は物を考えて想像をめぐらせますよね。私もプラネタリウムで解説をするときも意識して間をとっていますが、映画などの全てのコンテンツは間も含めての作品だと思うのです。 

糸谷 私も映画に時間的効率は求めないので理解が難しいですが、レジュメを朗読している動画などを倍速で見ることはあります。レジュメの朗読は情報を得る行為なので、とりあえず全部聞ければいいというときには倍速にします。それと同じ感覚なのかなと思いますね。

井上 私の娘が予備校の授業動画を時々倍速で観ているのと同じですね(笑)。そもそも倍速というボタンがあることが驚きですが。

糸谷 同じ時間で情報摂取量が多い人もいますから。私もそのタイプかなとは思いますが、認識能力や処理能力が速い人だと、退屈になってしまうのではないでしょうか。話す速度がゆっくりだと退屈してしまう。

 

──学生時代に単純作業のアルバイトをしていましたが、なぜここまで時間が経つのが遅いのだろうと感じたのを覚えています。現代人は退屈な時間をなるべく減らしたいという思いがあるのかもしれません。映画にしてもYouTubeにしてもコンテンツを最初から信用していないので倍速で観たりする。ハズレが混じっていたら時間がもったいないと感じるのでしょうか。

糸谷 一つのコンテンツをゆっくりじっくり食べるというよりは、たくさんのコンテンツを吸収している気がします。基本的に映像は小説などと比べて情報量が多いです。そういった理由で映像コンテンツがどんどん増えていっているのではないでしょうか。

 

ふり返ると体感が異なる退屈と充実

井上 また退屈で言うと、退屈って変化がない状況のこと言いますよね。そして、退屈な時間は長く感じるのに後から振り返ると何も残っていないことが多い。一方で、あっという間に過ぎた時間のほうが、思い返すと長く充実した時間に感じる傾向にあります。記憶がたくさん積み重なっている充実した時間は、一つひとつの出来事や変化があるので、その処理をしているうちにその場では時間の経過がとても速く感じます。しかし、時間の刻みがたくさんあるので思い返すととても豊かな時間に思えるのです。他方で、「1時間じっとしてなさい」という変化のない状況だと、その場ではとても長く感じますが、時計をチラチラ見た記憶などしか残らないです。そういう意味でも、速く過ぎた時間のほうが後から思い出すと長い時間に感じるというのがおもしろいですよね。やはり、時間とは記憶の積み重ねということなのですかね。

 さらに、未来も現在の延長を想像するのではなくて、おそらく過去の記憶を頼りに未来を想像するので、未来も結局は過去の記憶の積み重ねなのではないでしょうか。

糸谷 これは実存的な時間と関係してきますね。未来というのをどう位置づけるかです。必ず来るものだと思うか、まだ確定しないものだと思うか。

井上 天体観測をやっていると、未来は必ず来ると実感することが多いです。日食のような天文現象も予測通りにやってきます。予想外の出来事もありますが、未来はこうなると確実に言えることが多いのが天文の世界です。よく天文仲間同士で「2361年の3月8日に明石で皆既日食が見られるからここに集合ね」とか冗談を言い合います(笑)。人間社会の未来は予想ができませんが、天文現象はかなり正確に予測できるので、こんな冗談を言えるのです。

糸谷 将棋は一局ですら未来がどうなるかわからないので、そういう意味では、あまり未来を信用していないかもしれないです。

(終)

 

井上 毅・明石市立天文科学館館長
いのうえ たけし: 1969年生まれ。名古屋大学大学院理学研究科修了。旭高原自然活用村協会を経て、1997年より明石市立天文科学館学芸員、2017年より現職。著書に『時の記念日のおはなし』、共著に『時間の日本史』など。山口大学時間学研究所客員教授。
糸谷 哲郎・八段・棋士会副会長
いとだに てつろう:1988年広島市生まれ。98年日本将棋連盟・新進棋士奨励会入り。17歳でプロ棋士になる。森信雄七段門下。2006年度新人王戦優勝、新人賞・連勝賞受賞。14年竜王獲得。大阪大学文学部卒、同大学院文学研究科修了。共著に『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』。

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