好奇心を満たしたくて選んだ社会学

──京都大学文学部哲学科に進学されています。

上野 この大学を選んだのは消去法です。まずはとにかく両親がいないところに行きたいというのが第一条件でした(笑)。私が18歳の時に一つだけ進学したい大学がありました。東京にあるICU(国際基督教大学)に行きたかった。私はクリスチャン・ファミリーで生まれ育ちましたのでキリスト教に馴染みがあったのと、当時、国際的な教育を受けることのできるリベラルな大学として知られていたからです。

 ところが父は、東京は娘が住むところではないと突っぱねます。彼が私に与えた選択肢は三つ。二つは自宅通学をするか、さもなければ兄がすでに関西の大学に通っていたため、兄と同居するか。つまり、保護者のいないところに娘がいてはいけないと。5歳上の兄は保護者のような存在でしたから。

 三つ目は寮のある女子大です。父が私に行ってほしかった大学は神戸女子大学で、パンフレットが机の上に置いてありました。自宅通学は嫌、女子大は嫌、そうなると兄のところから通学するという選択肢しか残りませんでした。ですから京都大学を選んだまでです。

 

高齢者施設での取材風景@ホームホスピス宮崎「かあさんの家」

 

──文学部哲学科で何か学びたいことがあったのでしょうか?

上野 これも特にありません。とんでもなく世間知らずな子どもだったので、働いてお金を稼いで生きていくということをまったく教えられずに育ってきました。大学で資格を取って経済的に自立をして生きて行こうという考えはなぜだか持っていませんでした。しかし、幸か不幸か、私は非常に好奇心の強い娘でした。では自分の好奇心を満足させるにはどんな学問がいいかと考えた時に、語学は嫌い。文学は好きでしたが大学に行ってまで勉強するものではないだろうと思いました。歴史は古文書を読むのが嫌で選択肢から外れます。消去法で考えていったら、残ったものが社会学でした。思い返してみると本当にいいかげんな選択ですよね(笑)。

 当時は、ちょうど社会学という学問が勃興し始める時代で、全国の大学で社会学部や社会学科が設立されていました。社会学は聞いたところによると生きて動いているものを相手にする学問だと。それを聞いて、海のものとも山のものともわからないが、私の好奇心を満たしてくれそうだと直感的に感じたので、社会学を学べる哲学科への進学を決めました。

──ご両親の反応はいかがでしたか?

上野 父親も社会学がどんなものかよくわかっていなかっただろうと思います。ただ、娘は何をやってもよかったので、口出しはしてきませんでした。私も社会学が何かわからず、父もわからないまま進学を決めたと。社会学なんて極道の延長ですから。それでも新しい学問に興味を惹かれたのです。

──極道の延長というのは……?

上野 社会学は何の役にも立ちませんから、極道です。だって好奇心を満たしても何のお金にもなりませんよね。女の子でもお金をきちんと稼ぎたいのなら、当時だと語学力を鍛えたり、教員免許を取ったりして、生きていく技を身に付けろと言う人もいましたが、私は怠け者だったので(笑)。

 

全共闘運動で大学のあり方を問う

──在学時期が全共闘運動の真只中です。上野先生も学生運動に参加されていたそうですが、きっかけはございましたか?

上野 1967年の山崎博昭くん事件がきっかけでした。私と同期生で同じ大学同じ学部の山崎博昭くんは、佐藤栄作の訪米阻止運動に参加した一人でした。10月8日に羽田空港への突入を図る学生らと機動隊が衝突し、その闘争の中で山崎くんは亡くなりました。その山崎くんの追悼デモが京都大学で行われました。

──上野先生にとっても衝撃が大きかったのでしょうか?

上野 やはり自分と同世代の京都大学生が命を挺して亡くなったことは非常にショックでしたね。山崎くん追悼デモが私にとって初めてのデモで、そこから全共闘運動にも参加します。

──全共闘運動は何となくではなく?

上野 そうですね。とにかく大学がつまらなくて、不満を感じていました。入学してみたら大学がここまでつまらないものかと驚きましたよ。300人ぐらいの教室で一方通行の授業をして、古い講義ノートで同じことを繰り返すだけの講義。私の時代は大学がエリート教育から大衆化に移る転換期でしたので、ものすごい数の学生を収容していました。私学などは定員以上の学生を採用して、半分はキャンパスに来ないことを見越してマスプロ授業をしていました。何もしなくても卒業できるほど大学が腐っていたのです。

 そんな状況の中で、全共闘運動は東大医学部の学生不当処分に対する抗議から始まります。最高学府と言われていた大学の人々が、保身に走る姿を目の前で見たのです。じゃあ、自分たちはここで何を学んでいるのか、黙っていてもエリートになれるこの社会は一体何なのかと多くの学生が疑問を持ちました。

──上野先生は具体的にどんな活動を?

上野 大学の回答を求めて当局と団体交渉をしたり、クラス討論をしてストライキに入ったり、バリケード封鎖をしたりしました。当時はベトナム戦争の真っ最中でしたから、ベトナム反戦を掲げて路上デモもやりました。

 当時の大学進学率は平均14%、男子で20%と非常に低いものでした。進学率が2割を超すと大学の大衆化が始まると言われていて、男子にとってエリート教育が終わる転換点だったのです。一方で、当時女子の大学進学率は5%ほどでした。

──当時大学に通う女性は、相当なエリート女子だったわけですね。

上野 いいえ。女子はエリートになる道が塞がれていましたから、大学に行ってもエリートにはなれません。大学に進学した時点で女性の将来は終わってしまいます。なぜなら、大学に4年在籍している間に婚期を逃すからです。私の時代の結婚適齢期は23歳と言われていましたから、女性は卒業式のときに、左の薬指に婚約指輪があることが永久就職先を見つけたことを意味しました。女子大学の教員は結婚のお膳立てもしていたほどです。今となっては考えられない話ですね。

──大学へ進学した女性でも結婚以外の道がなかったのでしょうか?

上野 就職では、大卒女子はたった二つの選択肢しかありませんでした。教師と公務員です。企業は大卒女子を採用してくれませんから。先ほど、結婚適齢期は23歳だったと言いましたが、高卒の女性を採用すると23歳まで5年間働いてもらえますが、大卒女性を雇っても1、2年で辞められてしまいますよね。給料は高いわ、すぐに辞めるわで、何の役にも立ちません。おまけに頭も高い(笑)。企業にとって得なことなどなかったのでしょう。今と違って企業は大卒女性の使い方を知りませんでした。

 大学に男子宛ての求人はおもしろいように来ていましたが、女子には来ません。だから、大学に行った途端、女の子は就職も結婚も不利になる世の中だったのです。女子が有利な就職や結婚をしたいのなら、短大に行くのがベストでした。企業が社員のお嫁さん要員として雇ってくれましたから。

 

「食いっぱぐれがない人生はつまらん」

──先生は女性が大学に入ることの厳しさをわかった上で進学されたのですか?

上野 いいえ。よくわかっていませんでした。甘やかされて育った世間知らずの娘だったので(笑)。働いて稼いで頑張って生きて行こうなんて考えたこともなかったですね。

 そんな私でも、いくつか選択肢に上がってきた職業があります。一つは医者です。もし、自宅から通える金沢大学を選んでいたら、たまたま成績が良かったので医学部に入っていたことでしょう。ただ、医者である父の働きぶりをジーッと見て、医者はつまらん商売やなあと思いました。父が医者の仕事をこう言うのです。「患者さんたちは暗い顔をして自分のところにやってきて、明るい顔になった時には出ていく。だから、患者さんと暗い顔の時にだけ付き合うのが医者という商売だ」と。こういう影響もあったのかもしれません。後から考えると父が職業人として患者さんから信頼される医者だったことは理解できましたが、家族にとっては独善的で支配的な父親でした。

 それに、医者になると人生のレールがサーッと敷かれるような感じが私にはしたのです。一生が見えてしまいます。先が見えて、食いっぱぐれがない人生はつまらん。どうやって生きていくか計画的に考えたことはありません。なんだか本当に世間知らずで自分でもこんなことを言っていて恥ずかしいですね(笑)。

 二つ目が公務員か教師になる道です。大卒女子の就職先はこの二つぐらいだと言われていたのですが、私は学校が好きではなかったので、どうしても教師にはなりたくありませんでした。なので、その退路を断つために意図的に教職免許は取りませんでしたし、公務員に至っては思いつきもしませんでした。

 結果として大学教師になりましたが、大学教師は教員免許がなくても就ける唯一の教育職だからです。なりたくてなったわけではありません。ただ、大学教師になって良かったと思うのが、小中高の生徒は教師を選ぶことができませんが、大学だけは学生側に選択権があることです。上野ゼミが開かれていても、嫌なら来なくていいのですから。ゼミの志望者がゼロという年もありました。

──学部を卒業して大学院に進まれたのはなぜでしょうか?

上野 とにかく就職をしたくありませんでした。私たちの世代は、入院期間が長くなると社会復帰が難しくなることに例えて、大学院進学を自虐的に「モラトリアム入院」と呼んでいました。まさにそれです。トータルで12年間ほど大学に在籍していましたね。

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