「女房の言い分に耳を傾けろ」

──そうですね。結果として女性の地位向上につながっています。

上野 それは結果でしかありません。私が『家父長制と資本制』を出したときに、ある男性の哲学者の方に面と向かってこう言われたことがあります。「上野さんの本を読んで、うちの女房が常日頃言っていることがようやくわかったよ」と。それを聞いて私が何を感じたと思いますか?

──「研究したかいがあった」とかでしょうか?

上野 いいえ! 私の本を読む前に女房の言い分にきちんと耳を傾けろよ、です。女房の話は聞かないのに、私がエビデンスと理論を以て語ることでようやく聞いてもらうことができたということですね。女の言うことは愚痴かヒステリーとしか受け入れられません。ただ、男性は筋道を立てて理論的に話すと聞いてくれる傾向にあります。そこで、きちんと順序立てて論理的に解き明かして、「あんたたちがやってきたことはこんなことだよ」と男に言ったら腑に落ちたわけです。

 そのために、私は女の経験を男言葉に翻訳しました。学問の言葉はすべて男言葉でしたから、男言葉を学ばなければ男の耳には届きません。最近では、女言葉が学問の世界にたくさん入ってきましたよね。例えば、セクシュアルハラスメントやドメスティックバイオレンス、性暴力などという言葉は、男の世界にはありませんでしたから。「いたずら」や「からかい」と言われていたものをセクシュアルハラスメントに、夫による妻の「躾」と言われていたものをドメスティックバイオレンスに置き換えました。言葉からもわかりますが、男と女とでは見ている世界がまったく違ったのです。

──上野先生は八ヶ岳の麓で色川大吉さん(歴史家)の最後を看取られています。3年半の介護を支えたことは簡単なことではないように思います。

上野 やはり介護保険があったからできたことです。私は司令塔をやっていただけですから、別にオムツを変えたりしたわけではありません。ケアマネジャーさんからの連絡を受けて、キーパーソンの役割を果たしました。

──なぜ司令塔を引き受けたのでしょうか?

上野 私は色川さんをたいへん敬愛していましたし、何より私を信頼してくださっていました。家族とも離れておられて、あの方にとって私がもっとも身近な存在だったので引き受けるのは自然なことでした。

 他人ですから大変なことはたくさんありましたよ。銀行が相手にしてくれませんし、最終的に入院することはなかったのですが、もし入院することになったら身元保証人にはなれなかったでしょう。日本は家族主義の社会ですから。

 

弱者の武器は言葉

──上野先生は社会が変化する時、理念が先行するとお考えでしょうか?

上野 思いません。現実のほうが先に進みます。女がこれだけ働きに出て、自分の財布を持つようになり、夫や親の許可なく物が買えるようになった。こんな変化は理念ではなく現実の変化です。考えてみてください。世の中には美しい理念がたくさん存在します。人権、SDGs、「誰一人取り残さない社会」など。しかし、その理念に沿って社会は変わっていますか? いませんよね。理念で世の中が変わったことはほとんどありません。

 男は論理的な生き物で、女は感情的な生き物だとよく言いますが、私は男が理論で動くと思ったことは一度もありません。では、男は何で動くのか。彼らは利害で動きます。男が利害で動くことを知っていたら、男のふるまいが非常によくわかります。

 弱者の武器は言葉です。利害に対抗するために、理論を積みあげてきたのです。

──そうなると性差別などの課題は、当事者である女性にしか響かないのではと思ってしまいます……。

上野 ちょっと待ってください。当事者って女だけですか? そんなことありませんよね。女と関わらずに生きていける男はほぼいません。その女が変われば男は変わらざるを得ません。

 さらに、女に一定のふるまいを押し付けてきたのは男なのですから、性差別は女の問題ではなく、むしろ男の問題だとこれまで女性学は突き付けてきたのです。ジェンダーに関係しない男女は誰一人いません。男も女も、誰もがジェンダーに縛られている。お互いに縛り合ってきたのです。

 男も当事者ですから、「オレには関係ない」と言うことはできないのです。そう言わせないために、エビデンスと理論を示して、男がやっていることはこういうことだよと提示し続けてきたのです。自分たちの問題から目をそらさないでくれと。

 

ネオリベラリズムが生んだ幻想

──2019年東京大学入学式の祝辞で「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください」というメッセージが印象的でした。批判はありましたか?

上野 もちろんありました。特にネオリベラリズムの考えを内面化した人たちからの批判です。この世代は良いことがあったら自分の努力と能力のおかげ、悪いことがあったら自分が無能なせいだと考える傾向があります。

 そしてこの考えは、この30年間にむしろ強まっていると感じます。私たちが学生の時代には、「社会が悪い」と主張しました。しかし、今の子どもたちは「自分が悪い」と自分を責めます。

 それを痛感したのは2000年代に入ってからですね。上野ゼミ生にメンヘラー(メンタルヘルスに問題のある人のこと)、とりわけ自傷系の子たちが増えたのです。その子たちは「社会が悪い」と思えたら、自分自身を傷つけないで済んだはずです。きっかけは就職活動です。就活に失敗すると、全人格を否定されたような気分に陥ってしまい、自分には生きる価値がないと短絡しがちです。

 このネオリベラリズムは、「女性も男性と対等にフェアな競争に参加できる」という幻想を女の子たちに抱かせます。実際にはちっともフェアではないのに。それがバレた出来事が東京医科大学の不正入試問題です。こういう差別は医科大のみならず、さまざまな分野で今でもざらに起きています。しかし、女の子は自分の能力が足りなかったのだと自分を責めるのです。

 ネオリベラリズムの原則は自己決定・自己責任、それが女性にも強く内面化されていることを感じますね。それがエリート女性のプライドを支えていますから、自分の弱さを認めることができなくなってしまう。すると弱い人を見ると嫌悪するのです。私は弱くない、こんな人たちと一緒にしないでほしいと。エリート女性からはそういう弱さ嫌悪(weakness phobia)を感じます。

2019年東京大学入学式で祝辞を述べる上野氏

最初と最後は誰もが弱者

──祝辞でも弱さについて、「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」だとおっしゃっていました。

上野 考えてみてください。DVを受けている妻に、「抵抗して反撃をしろ」と言えますか? そんなことをやったが最後、もっとひどい目に遭います。介護を受けている寝たきりの高齢者に、「虐待されたらやり返せ」って言えますか? 強者と弱者の関係は非対称的です。しかし、抵抗できないからといって不当な差別や抑圧を受けるいわれはまったくありません。

 すべての人が社会的にも身体的にも強くあることは100%不可能です。それだけでなく、どんな強者もいずれは弱者になっていきます。加齢はどの人にとっても平等に訪れます。人生の最初と最後は弱者であることを免れません。だから、弱者が弱者のままで尊重される必要があるのです。

──ありがとうございました。

 

聞き手 本誌:薮 桃加

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