『公研』2023年1月号「私の生き方」

 俳優 長塚京三

 

とにかく日本ではないところへ行きたかった

──長塚さんの役者への道は、早稲田の演劇科から始まったのですか?

長塚 子供時代から活劇、西部劇とかたくさん見ていたから映画の勉強をしてみようと思って早稲田の演劇科に入った……と思うでしょ? 実はそうではないわけ(笑)。本当は別の大学の文学部に行こうと思っていたのだけれど、最後に受験した演劇科も合格したから、まともな文学部より面白いかなと思って決めました。けれど、入ったら全然アテが違うんだよね。映画のことを教えてくれる訳でも、演劇のことを教えてくれるのでもなかった。普通の文学部の勉強でしたから、がっかりしました。今と違って情報も少なく、リサーチ不足でもあった。だから結局一番のめり込んでしまったのがサークル活動としての学生劇団。僕はあまり演技はしなかったけれど、裏方が楽しかった。
 19歳そこそこでしたから脚本まではやらせてもらえませんが、録音・音響・大道具だとか先輩のための下働きみたいなことをしました。「すごく楽しい、演劇やっている!」と、何か大したことをしている感じがして、のめり込んでいた。だからその頃、授業にはあまりに通えていませんでした。そんなことをしているうち、大学紛争で日本の大学が全てロックアウトになってしまった。稽古場も校内にあったから入れず、やることがないから「じゃあちょっと外国でも行こうかな」と、大学もやめてしまいました。

 知らないうちに中退していたから親は嘆いていましたが。

 

──1969年からソルボンヌ大学に留学。なぜフランスを選ばれたのですか。仏映画に憧れていたのでしょうか。

長塚 中学生、高校生になってくるとフランス映画も見始めてはいましたから漠然とそういうこともあったかも知れないけれど、あんまり深い根拠はないですね。とにかく日本じゃないところに行きたかった。何をするかとかは特になくね。行こうとなってからフランス語を勉強しましたが、向こうではほとんど通じなかったですね。留学するにしても、あの時代的なもので今考えれば手続きなどもめちゃくちゃでした。

 学校ではフランス文学を勉強して、現地ではアルバイトで通訳をよくやりました。あんまりいい通訳ではなかったけれど(笑)。それでも結構お声がかかってね。フランスから外国に出張へ行かされて、アルジェリアで通訳としてアルバイトをしたこともありました。石油コンビナートをつくる日本人の技術者さんたちと、現地の技師さんや労働者さんとの間に入って通訳をする仕事です。砂漠の真ん中の工事現場で作業着とヘルメットを被ってね、いい経験をしましたよ。

 

アルジェリアの石油コンビナートで通訳を

──石油コンビナートの技術を長塚さんが橋渡ししていたのですか?

長塚 石油コンビナートが稼動する前の、タンクを置く土台をつくり始める最初の段階でした。1カ月そこらしかいなかったから、タンクを土台に乗せるのは見られなかったのですが。

 現地では、僕と日本人のエンジニアさん3人くらいで、日本の会社が用意してくれた1軒の宿舎に住んでいたけれど大変でした。なかなかお風呂に入れなくて。宿舎の給水や給湯設備はあるのだけどほとんど作動していなくて、たっぷりしたお湯でお風呂に入ることができない状態でした。水が出るか出ないかは、ラジオで「今日は何時から何時まで水が出ます」という予報があるから、それに合わせて蛇口を捻っておいてから仕事に出かけるんですが、お湯の蛇口を捻っておいても帰る頃にはもう冷めて水になっているし、溜まっていなかったこともあってね。だから、休みになると海まで行きましたね。北アフリカだから地中海のすぐそばだったんです。ずっと洗っていないから髪の毛がバリバリで、土埃で色も茶色くなってきて……。今の若い人たちには想像がつきにくいかもしれないけれど。そういう環境だったから比較的報酬はよくて、たくさんもらえました。

 でも学生のアルバイトの身だし、もう夏休みが終わるから大学に戻らないといけなかったので、そろそろ辞めて帰ろうと思ったんです。そしたら日本人の技術者さんたちに「長塚くん、もっと居てくれよ!」って言われて。みんなで仲間になっていたから、結構楽しかったのです。反面、もう砂漠はちょっとうんざりで振り切って帰らせてもらいました。

 他にも、あるとき「一人でヨーロッパ観光したいから」と日本から来た
おじいさんを案内したことがありました。ロンドン、ローマ、スイスとか僕自身あまり行ったこともないのによく案内したなと(笑)。しかもイタリアとかイギリスはフランス語も通じない。イエスとかノーはわかりますけど……。後から調べて知ったのだけど、案内したおじいさんは僕の中学校の友達の叔父さんだったんだよね。僕の仕事を斡旋してくれた旅行会社に「長塚くんというのがもしいたら、案内してもらいたい」と問い合わせがあったらしいのだけど、仕事が来た時に旅行会社は何も言わなかった。だから僕の観光案内におじさんも我慢できたのかもしれない。でもね、親子みたいなもんで仲良く旅をしている感じでした。案内していて楽しかった、懐かしいことですね。

 

思いがけない人とデビュー作のオーディションへ

──1974年ジャン・ヤンヌ監督の仏映画『パリの中国人(原題:Les Chinois à Paris)』でデビューされます。出演されることになったひょんなきっかけとは?

長塚 僕にフランス語など教えてくれていた先生がいたのだけれど、彼女は映画界にお友達がたくさんいて「今度中国人役の出る映画をつくるのだけど、誰かいい人を知らないか」と相談を受けたらしいんですね。「それじゃあ、」って話でお声がかかって……。けど、僕は「えー、やだな」と思って。当時はフランス映画の東洋人役というと「謎の中国人」といった役柄が多かったから。けれどせっかく誘ってもらったし、オーディションへは行くだけ行ってみようかなと。

 ちょうどその時、仲の良かったフランス人夫婦のところに田舎の実家から10歳くらいの甥っ子が遊びに来ていた。でも彼らは忙しかったから、僕が何日間かその子を預かっていたんだよね。だから監督に会いに行く時、小さな坊やを一緒に連れて行って良いかと聞くと「もちろん」と言われたので、一緒にシャンゼリゼ通りにある映画会社へ行きました。オーディションではいろいろ話をして、台本を見たらちゃんとした役だったし監督も僕を気に入ってくれた。「僕でいいんですか?」と言いながらもその場で出演が決まったのだけれど、家に帰ってきたらその坊やが納得しなくてね(笑)。「なんでおにいさんが映画に出るの? 信じられない。普通ありえないよ」って。確かにそうなんだよな。

 今思うと、そのチビちゃんがいたから監督も打ち解けてくれたのかも知れない。田舎の子で方言もあったりして、とても愛らしい子でした。きっと今はもう4050歳くらいだと思いますが、あれから一度も会っていません。そんなふうにして冷やかし半分、どうなるのかなと思いながらも映画の撮影に入りました。

 

仏の抵抗運動を描いたレジスタンスもの

──映画『パリの中国人』はどのような作品でしたか?

長塚 フランスは幾度となく占領されている国だから、その抵抗運動が所謂「レジスタンスもの」と言われるフランス映画の一つの伝統のジャンルになっていました。軍事侵攻があったときに、政府はどういった対応をしたのかが絶えず問題になります──例えば戦犯の問題、ナチスドイツにどういう姿勢をとったのかとか。本当の抵抗者は誰か、つまり誰が本当の愛国者なのかということでもある。こういった様々な不満を、当時皮肉を込めてパロディにしていたのです。フランス人はそういったものが好きだから。この映画もそのジャンルの一つで、急に外国から攻められたらどう振る舞うかを風刺して描いています。

 ある朝、フランスの国民が目覚めたらパリの街が緑の制服を着た中国軍にどういうわけか占領されていたという、少しSF寄りのコメディです。武器を使うような軍事的な衝突は表現にはありません。フランス人は、中国軍に対してナイトクラブやカジノに連れまわし、疲れさせることで銃で戦わずして中国軍を撤退させることに成功する──といったおとぎ話みたいなことです。

 フランス映画の名作『女だけの都(原題:La Kermesse héroïque)』(1935年公開・監督ジャック・フェデー)にもあるように、軍事的に占領された時に女性を前面に出して、占領した側が出て行かざるを得ない状況をつくって抵抗を描く。この作品も正面からの武力抵抗はしない表現でした。そういった作品が枚挙にいとまなくあったわけです。だから当時『パリの中国人』を観にきた人たちは、その流れを汲む作品の一つと捉えて楽しんでいましたね。

──長塚さんの役柄は?

長塚 僕は、中国軍の将軍を演じました。まだ20代だったから、若い将軍という役でした。一般的に将軍とは「年配でイカツくて怖い人」というイメージがありますが、この映画では意外性をついて、ヒョロっとした若者が大きな軍を引き連れている。皆その将軍が一番偉いと思えないのだが実際には偉いからヘコヘコする──そういう面白さ、喜劇ですよね。

 当時売れた『When the Chinese』(1966年 Robert Beauvais著)を原作にして制作された映画で話題の大作だったから、オールスター映画みたいなものでたくさんの有名な役者が出演しました。ミシェル・セロー、ニコール・カルファン、ダニエル・プレヴォー、マーシャ・メリルなど、小さな役でもいろいろな人が出ていて、何シーンか一緒に撮影に臨んだ役者さんもいました。

──役づくりで何かご苦労された点は?

長塚 あんまりご苦労はしてないんですよね。先ほどお話したように、出演が決まった時もお会いするなり、「探していた役そのままが近くにいた、君で行こう」という感じでしたでしょ? 演技的に何か苦労するといったこともなかったんです。

──日本のご両親やフランス語の先生の反応は?

長塚 両親は何だかよくわかっていなかったですね。紹介してくれたフランス語の先生は、マネージャー的に演技指導したり評価をするような人ではないので「楽しめたならよかった」という感想でした。公開最初の日に先生と二人で一緒に観に行きましたね。その日は、シャンゼリゼの大きな劇場にレッドカーペットが敷かれて、いろいろ招待客が来ました。大々的にやりましたね。

 

映画『マイラブ』に出演

──話題作に出演されたその後、フランス映画には出演されなかったのですか?

長塚 1シーンだけ出演したことがあります。同74年に撮影したクロード・ルルーシュ監督の映画『マイラブ(原題:Toute une vie)』です。たまにテレビで放映されたりすると、ふと出てくるのでびっくりされます。ルルーシュ監督はダバダバダ……♪の音楽で有名な映画『男と女』の監督です。

──それは知りませんでした。『マイラブ』はどのようなきっかけで出演したのですか。

長塚 『パリの中国人』を観てプロデューサーが声をかけてくれたのだと思います。ルルーシュ監督に会いに行って。それも「あぁ、OK!」と、決まりました。テレビ画面の中に出てくる、日本人ニュースキャスターという、小さな役でしたから、郊外の撮影所に行って1日で撮影は終わりました。ルルーシュ監督は自分でカメラを回してしまうような人で、そんな監督の撮影風景も見られたし面白かったですね。

 

仏映画に出演したことが日本で話題に

長塚 こんなふうに映画には出演しましたが、だからと言って俳優になろうと思ったわけではなくて、一つのいい経験だったと思っていたくらいでした。そもそも僕は学校のお免状を取りたいと思っていて、その論文がまた結構大変で……。映画を撮り終える頃はちょうどその論文の佳境に入るような時期でしたから、そっちに集中していたこともあります。映画は、それはそれで楽しかったということです。

──その後なぜ日本に戻られたのですか?

長塚 74年学生最後の夏休み、就職のこともちょっと考えてみようかなと思って日本に一時帰国しましたが、日本では僕が映画『パリの中国人』に出たことがニュースになっていました。文藝春秋とか夕刊フジに取り上げられたらしく、それを読んだTBSテレビのプロデューサーが、ちょっと面白そうだから今度始まる連続ドラマに声をかけてみようと思ったみたい。キャスティングも急いでいたらしく僕に連絡を取ろうとしたのだけど、その時僕は日本に帰国したばかりで友達と遅くまで飲みに出たりしていたものだから……。テレビ局の人たちはあちこちに電話したらしいんだけれど捕まらない。最後の最後に僕のいるところを突き止めて「探したよ」とかかってきた時は夜中12時近かった。「今だったらまだ担当の人たちがTBSにいるからすぐ行きなさい」と言うので、まさかとは思いましたが急いで洗面所で顔を洗って行きました。──お酒で顔も赤かったから。プロデューサーが待っていてくださって、話をしたら「君でいこうか」とその場で決まったわけです。今度は田舎のチビちゃんはいなかったけれど(笑)。こっちは酔っぱらっていたからもうフラフラでした。特に演技審査をしたわけではなくただ話をしただけだったから、何が良かったのか。僕は日本に様子を見に来ただけだったし、向こうに帰って「フランス文学の勉強をちゃんとしなくちゃ」と思っていたので、役者にならないかと声をかけられるとは思いもよらなかった。フランスの友達や先生にも、さよならの挨拶もしてなかったしね。でも、もう撮影が始まるって言うから……。だから僕はいつもそんなです(笑)。流れるままというか、流されるままというか、運がいいというか。なんていうか、いろいろなことが起きる。

 これが日本で初めてのテレビドラマ出演でした。フランスでも日本でも、役者をする上で変わりはなかった。撮影でもみんながよくしてくれて、「あぁ、いい世界だな」と思いましたね。

──激動の1974年でしたね。

長塚 そういう年めぐりだったのかもしれませんね。『マイラブ』を撮影し終えて8月に日本に帰国して、9月にTBSドラマの撮影が始まった。いろんなものが、くるときはまとめてきちゃう(笑)。

 

 

仏文学から時代を読んだ論文を書く

──帰国前、フランスで大変な思いをして提出されたという論文ですが、ご研究内容は?

長塚 昔のことでだいぶ忘れてしまいましたが……。「従僕役」の時代的な変遷についての考察です。いわゆる昔の貴族に仕える男の召使をフランス語でヴァレ(valet)と言います。「従僕」とかそういう意味ですが、これがフランスの古典演劇に一つの役柄として定着してるのです。

 モリエール(Molière)の喜劇『スカパンの悪巧み(仏語原題:Les Fourberies de Scapin)』と、少し後の時代の作家アラン=ルネ・ルサージュの『チュルカレ(Turcaret)』、さらに近代の作品で、カロン・ド・ボーマルシェの『フィガロの結婚』──これはフィガロの身分がヴァレです。これら3作品の仏戯曲を取り上げて、作品の中に出てくるヴァレの役柄を、時代の流れと共に変遷を見た内容でした。

 最初は、ご主人様の言いなりになっていて、向こうを向いている間にちょっと蹴っ飛ばしていたりすような役柄だったのが、時代を追うごとに社会的に目覚めてくる。最後のボーマルシェのヴァレなんて完全にご主人様に面と向かって反抗するわけです。フランス革命などに繋がっていく民衆の意識をヴァレという使用人に焦点を当て、民衆として社会的にある様々な問題に気づいていく、意識が高まっていく、その変遷を作品の中に兆しを見つけて一つの流れとしてまとめていきました。

 ちょっと難しすぎる課題で、なかなか苦しみまして……。担当の先生からは、まあこんなものかなっていう評価でしたね。提出した論文は3部コピーをとっていましたから、どこかに取っといてくれてると思いますよ。担当教授に1部、学校に1部、自身でも1部どこかに保管してあります。怖くて見れないですが(笑)。

──長塚さんのご著書は余韻のある独特の表現で惹きつけられます。読書家でもおられ、どのような本を読まれているのか気になります。

長塚 いろいろ読みすぎていたから誰ともあげづらいですが、ルイ=フェルディナン・セリーヌは好きでした。最近で言うと7年ほど前に出版されたパトリック・モディアノの作品が面白いなと思って、まとめて読んでいたのですが、その中でも『エトワール広場/夜のロンド』を読みました。

──どのくらいの数の本を所有されているのですか? 

長塚 数えきれませんね。書庫の本も何回か入れ替えていて、古本屋さんにも何度か持っていってもらっているくらいですから。

 

50年ぶりにフランス映画へ出演

──お話を映画に戻させていただきます。昨年は約50年ぶりにフランス映画に出演されました。仏映画『UMAMI』の役柄は?

長塚 三ツ星を取りたいがために家族をも犠牲にする我武者羅で職人気質のフランスの料理人が、家族も失いかけ病気も患った。そんな絶望の中、ふと昔料理の大会で負かされた日本人シェフ(今はラーメン屋亭主)のことを思い出して、人生を左右した味にもう一度挑もうと日本に来る。僕はそのラーメン屋亭主の役を演じました。その亭主も家族に問題を抱えていて、昔優勝の座を争い合ったもの同士あんまり幸せではない。そんな二人が、日本の「旨味」を探求するお話です。共演したフランス料理人役の俳優ジェラール・ドパルデューさんとは、撮影で共に北海道を歩き回りました。

──フランスでも撮影をされたのでしょうか?

長塚 前半は主にフランスが舞台で、僕は後半の料理人が日本に来てからの出演だから、ほとんど撮影は日本でした。ただ、ラストシーンだけフランスで撮影をしましたね。2020年10月のコロナが一番酷かった時です。1シーン撮るのに4泊6日と非常にタイトで、これまでの訪仏で最短スケジュールだったと思います。そんなですからフランスの空港に着くと、パリにも寄らず現場へ直行です(笑)。監督が空港に車で迎えにきてくれて、ロケ地のロワール地方ソミュールというお城が沢山ある街まで連れて行ってくれました。17世紀くらいの古城で、竈のある大きな台所で撮影をしました。

 北海道で撮影がスタートした2020年3月あたりからコロナがどんどんひどくなっていたから、フランスと日本での撮影は遅れて大変でした。映画は34カ国で公開が決まっていますが、日本はまだ公開未定です。

──それはぜひ観てみたいですね。フランスに所縁が深い長塚さんですが、仏映画界で活躍され9月にご逝去されたジャン=リュック・ゴダール監督とは接点が?

長塚 クロード・ルルーシュ監督もヌーヴェルヴァーグ(Nouvelle Vague。「新しい波」の意味。1950年代末に始まったフランスにおける映画運動)ではないから、そういった意味でもほとんど接点はないですね。僕が出た『パリの中国人』のジャン・ヤンヌ監督は役者でも活躍していたから、ゴダール監督の映画に主役として一本出演したことがある。だから撮影のときにゴダールの話は聞いたことがあります。それから、この作品で共演した女優のマーシャ・メリルもゴダールの作品に出演していたから、間接的に関わったことはあって同じ時代にはあったけれど、直接会ったことはないですね。

 僕はヌーベルヴァーグにしてもちょっと距離があったし、ゴダールはすごく天才だなとは思うんだけど、映画には影響されていません。あのような天才は、とことん孤独だったのかなと思います。

──幼い頃は邦画が嫌いで、洋画しか観なかったとか。

長塚 そうですね。日本の映画に僕は出ているからそんなこと言ってはいけないんだけれど……。映画は割と小さい頃から父に連れられて観に行っていましたが、なんとなく子供心には暗いような気がしてね。陰気で沈鬱で、音楽も何かもう一つぱっと気持ちを明るくさせてくれないような気がして。当時見た映画にそういうのが多かったのかもしれません。それこそ外国映画、特に西部劇はただただ痛快なわけです。派手にアクションを飛ばすし音楽も映像も、ものすごく解放感があるから、好きになっちゃった。まだ字幕なんか読めないような歳だったから、感覚から感じていたのだと思います。父は、和洋に関わらず観ていましたが。

 僕は自由が丘で育ったから、この町の映画館で上映した西部劇は大概観ていますね。今の人に話しても話が通じないかもしれないけれど、僕の時代から言ってみれば、「え!?」と思うようなすごいスターが当時チョイ役で出ていたりする頃から観ていました。だから親しみがますます増してアメリカ映画を中心にどっぷり。それでフランスへ留学行っちゃうから、どうなってるんだと(笑)。

 でも、ビデオで観るのと違って幼い頃リアルタイムで名作を観てきたことの強みが後になって結実したかなと思います。BSで『シネマの中へ』という番組も10年ほどやらせていただきました。

 

表現への思い

──最近の日本のテレビやエンタテインメントの受け手と表現者の関係をどう思われますか? わかり易く表現をしすぎていて、受け手側が自由に考えられる余白が少ないと思うシーンを見かけるように思いますが。

長塚 ある意味親切すぎるよね。もっと感じ取る力というか、楽しさなんかが減っているんじゃないかと思うときがある。わかり易さとか素直さとか無理のなさ、みたいなものが第一義的に尊重されているのではないでしょうか。受け手の人もわかり易かったことで良い気持ちを持った一方、何か善意の被害者になっているという。ある種、親切の裏腹なのかもしれない。

 例えば何かの作品でも「こういう感情を伝えたくてつくりました」と全部説明されてしまうと、その後に見た人が自分で考える余韻が少なくなってしまう。僕は、ドラマづくりだったり文章を書く時の意識が、そうじゃないところで学んで、やってきたというのがある。だから「わかりやすさ」があることが前提になっているものづくりに関しては割と疑問を感じますね。その先の世界を知りたいし、想像し、感じたいのであって。僕はそういうことを前提でやっています。

 でも、これから変わるのではないですか。コロナや北のほうで戦争が起きている。──そういう現実だから、自分達が善意の被害者だとは気づいていない人たちは、そこで何かに気づいて変わっていくのではないかと。いわゆる物語の登場人物たちがわけのわからない行動をしている。その現実を突きつけられているわけですから。

 

初めて見るようなものを見せたい

──最近の日本のテレビドラマはつまらないと言われることがあるようですが…。

長塚 うーん、そんなに批判的には見ていないかな。それはそれで時代を反映しているのだと思います。自分がたまに出るものくらいしかテレビを見ていないですし、なんとも言えませんが。今はドラマなども、なかなかつくりにくい状況かもしれないですね。過去にやられたものが山ほどあって何をやってもなんかどこかで見たことあるような、こういう役のこういう表現て前にもあったなと感じることがあるんだよね。「今まで見たことないぞ」という本当に初めて見るような作品や表現が出にくい。だからそれを要求するのもどうかなとは思う。でも映画に限らず仕事をする場合、僕は初めて見るようなものを見せたいし、初めてやるように表現したい。それが、実際に新しいかどうかわかりません。人の目に触れるまでにいろんな人が編集など手を加え、完成したかたちでまた変わるから。

 でも類型的ではない、どこにも見たことのないものにしかやる価値がないと僕は思っている。だから視聴率をとらなければいけないとか、あるわかりやすさみたいなものを大前提にしなきゃいけないテレビのつくり方、それ自体が問題でね。それをやらされてしまうことになる俳優さんや出演者たちは、残念だよね。視聴率がある番組に出るというのは、逆に対価でもあるからしょうがない。だから、みんなそれぞれ苦しんでいるかな。でも僕たちの世代の人がこのように考えてることとか、なかなか理解されにくいですよね。「じゃあどうしたらいいんだ」ってなってしまうから。

──どこにもない新しいものをつくるために、どこからヒントを得ますか。

長塚 常に何かシミュレーションをしています。それは側から見るとボーッとしているだけなのだけれど。そうやって油断しないことかな。例えばロシアがウクライナに攻め込んだことを予測して、シミュレーションしていた人がいるかもしれない。誰もが国際学者じゃないのだから、戦争なんか予想できないのは当然だけど、頭の中で、ある劇的な状況を汲み取って崩してみたり、何が起こるか誰もわからないことを考える。

 北斎の『冨嶽三十六景』を見るとわかるけれど、北斎もいろいろ考えたのだと思う。悪いことから、そうじゃないことまで。例えば海を見れば多くの人が「海は永遠に静かでキラキラと綺麗だな」と思う。でもそれだけじゃない。津波を想像して怖くなってしまうとか、一つのことから他面的に考えは無限にある。──そのように、ある程度最悪の事態じゃないにせよ、最善の事態にしても、なんか漠然とでもシミュレーションをしていること。考えるからこそ気持ちのシミュレーションができる。心が休まらないからあんまりいいことじゃないかもしれないけど、絶えず何か考えています。モノをつくることに携わっている人間は、やっぱりそうじゃないといけないと思う。それが役者にしても、小説家や絵描きにしても、そういった気持ちのあり方も才能だし、感じる能力だと思う。創造的な才能を絶えず転がしていないと生まれないですよ。これはこういうものだと、たかを括るとそこで終わってしまうし、安心しちゃう。──そもそもこうなると別のレベルの話になると思いますが。

 モノを書いたり、演技をしたり、つくる人間はみんなひと区切りついたところで休んだり、終わったとは思わないんです。ある種「業」みたいなものだよね。

──演技に関していうと具体的には常に何を考えていますか?

長塚 例えば、時代劇で一つの時代のお話でも書く人によって違いますよね。この作家は今回こういう虚構を書いたんだなと。僕は役者として演技をすることで、その虚構をもっといい虚構にすることに全力を傾ける。どう喋るのか、もしくは喋らずに違うことで表現をするのか。そのためにも、まずは自分がその時代の真実を知り、納得した上でやります。その勉強のためには時間を惜しみません。脚本の文章を見た限りのことだけではやってはいけないと思うのです。用意された虚構の言葉と成り行きを「はいはい」ってそのまま演じるような、良い意味でも悪い意味でもそういうお人好しじゃダメだよと思う。だったら「私は流されるままに演じました」と、とことんそういうお人好しを演じることを演じる。それはそれで、その役者が自分でつくり出した本当のことが一つあることになる。

 「ちょっとやりきれなかった、つくれなかったよ」っていう場合でもその現実を隠したり、ごまかしてはいけない。その中で演じてやり切るんだと思う。そういう意味でも、結局適当の中でやらなきゃダメですよね。適当なことが適当と映ってくれたら満足です。

 

常にこれが最後と思って作品に臨む

──やれないと思う役がオファーされた時はありますか?

長塚 自分がやりたくない役はお断りさせてもらっています。例えば悪い役一つとっても、何か意味があっての悪役しかしていない。来た仕事をするか否か判断する基準がどこかが難しいけれど、依頼が10本あったら成立するのは2本か3本です。断るとなったときに、きちんとした理由をマネージャーに求められるけれど、自分の中にある基準の線を説明するのはなかなか難しい。その線が僕自身だから。

 昨日は次につくる映画の監督との打ち合わせがありましたが、1時間半の予定が3時間に……。劇中で、「こういうシーンでこういう歌をこんなふうに歌ったりしたらどうかな」と伝えるために歌まで歌ってしまったりね。こんなふうに撮影前にしっかりと話をしてから現場に入ることができるのは、年を重ねてできる有難さもあります。

 ここ何年かは、常にもうこれが最後と思って作品に臨む。この映画、撮影、執筆、何もかもがいつここで終わってもいいような気持ちで臨むから、多分それが相手に伝わるんだと思います。でもそれも変と言えば変だけどね。これが最後のインタビューになるかもしれないっていうと押し付けがましくなるけれど、本当に一期一会ですから。

 出演が増えて〝波に乗る〟経験は僕も多少あるけれど、流されてしまう怖さがある。「これが最後、だから本当にやりたいことだけをやろう」とはできず、踏ん切りがつかないまま流されるようなスタンスでお芝居をすると、どんどん役者の影が薄くなるというか、伝わるものも伝わらなくなる。流れるとは、だんだん低いほうに行くことです。そうすると、どんどんいい人になって、どんどんわかりやすくなってしまう。自分でも「それでいいか」と思ってしまうことが一番恐ろしいことだと思います。

 世間のイメージや好みとかいろいろよくわからないものがあるけれど、「長塚なら、伝えなければいけないことは確実にちゃんと伝えてくれる。だから一緒にやろう」──そういう関係でありたいし、評価であってほしい。

 

ボーッと考えていた空想が時を経て……

──先ほど、一つのことから無限に考えるとおっしゃっていましたが、いつからですか?

長塚 そうね、昔から空想癖がありましたね。僕は家族が好きだから3人家族いつも一緒にいました。小さい頃自分の部屋はなかったから、家の片隅で一人でずっと空想していました。とんでもない、あり得ないようなことから日々の日常あったことまで。

 あるとき、ボーッと考えていたことを一度だけノートに書いたことがあって。それを父が見つけて「この子はバカなんじゃないか」と愕然とショックを受けていましたね。まさか、僕も読まれると思わないから……。でも空想を書き起こすと何か違うものになっちゃうような気がして、他にほとんど書くことはしなかった。漠然と空想しているほうが自由で楽しいしね。そういった空想は何も生み出さないように見えるし、たぶんリアルタイムでも生み出さなかった。でも、それが何かの具合でちょこっと出てくるんだよね。

 映画の撮影なんて、生き馬の目を抜くような忙しさで殺気立ってやるわけです。あのとき、ボーっと考えていた坊主が、何故こんなところにいるんだろう──と思うときがある。「ああでもないこうでもない」、僕はどういう人生を送るのかなとか、漠然と全レベルに渡って考えていたわけです。親が心配するほど勉強もしないで。でもその考えていたことが、時を経て「映画やらない?」と言われたそのとき、ポッと出てきた。

──最近はどのように過ごされていますか。

長塚 そうですね、読書もしますし朗読も。あと最近はこうやって人と話をするのが一番楽しいというか、いいなって思うようになりました。一時期は人と話をしなかった、大体僕はあんまり話さなすぎるから。話もしないで理解されるわけがない、それはいけないんじゃないかなと思うようになって。

 ただ僕は割と、やって、それを見てもらって、わかってもらうという大原則があるから。ごちゃごちゃ理想論を言ったところで結局、見てください、読んでください、そしてわかってくださいと。そういう感じです。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 並木悠

 

ご経歴
ながつか きょうぞう:1945年東京都生まれ。早稲田大学文学部演劇科中退。パリ大学ソルボンヌ在学中、主演映画『パリの中国人』で俳優デビュー。主な出演作に、ドラマ『金曜日の妻たちへⅡ・Ⅲ』『ナースのお仕事』シリーズ、『篤姫』、『眩~北斎の娘~』、映画『ザ・中学教師』『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』など。主な著書に『僕の俳優修業』『破顔』など。

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