『公研』2021年7月号「対話」

首相の権限は強くない?

 手塚 新型コロナウイルスの世界的な感染拡大が始まってから、1年半以上が経過しました。今まさに東京オリンピック・パラリンピックが開幕しようとしていますが、予断を許さない状況が続いています。ワクチン接種も始まり改善が見られていますが、収束に向かうかどうかは未だにわからないのが現状です。コロナ対応は進行の最中にあるわけですが、今日はこの間を通じて見えてきた日本の統治スタイルや行政のあり方について考えてみたいと思います。
 竹中さんは、昨年『コロナ危機の政治』を出版されました。ここでは新型コロナが蔓延した第一波の時期を中心に、政府の対応について一早くまとめられていますが、この時の問題意識はどういうものだったのでしょうか?
竹中 東日本大震災と福島の原子力発電所の事故は、今回と同様にたいへんな危機でしたが、あの時は一市民として右往左往するばかりで、政治学者として記録に残すことは思いもしなかったんです。その後ずっとそのときの態度を反省していました。
 我々は、オーラルヒストリー(当事者・関係者による口述歴史)を研究手法にしていますから、リアルタイムに起きていることを同時進行的に広く記録して残していくことの意義を理解しています。ですから、今回のコロナへの対応もリアルタイムで観察していきたいと考えました。
 一連のコロナ対応を見ていて最初に持った問題意識は、我々が思っていたほど、首相の権限は強くないということでした。90年代の政治改革以降、首相や官邸機能が強化されてきたと指摘されてきましたが、その割にはうまくいきませんでした。最初の端的な例がPCR検査です。安倍前首相が「PCR検査を増やす」と言っても、実際には早いペースでは増えていかなかった。コロナ患者用の病床も首相の指示通りには増えませんでした。安倍首相は昨年の4月6日に「5万床を用意する」と発言していますが、未だに3万6000くらいですから目標に到達していません。
 それから、一連のコロナ対応を通じて、都道府県の知事の発言力が強くなっていると感じました。彼らのプレゼンスが高くなっているのはなぜだろうかとも考えるようになって、そこをきちんと観察したいと思いました。こうした事態が起きている事情を明らかにしたいというのが、『コロナ危機の政治』を書いた背景にはありました。
手塚 90年代から始まった一連の統治機構改革は、地方分権を進めて中央政府の役割を小さくするかわり、内閣機能の強化を含めて首相を中心に政権中枢の指導力を強めようという狙いがありました。そう考えると、今の状況は一連の改革の結果が綺麗に出ていると言えるのかもしれません。つまり、首相の指導力は強化されたけれども、国の役割や権限が相対的に小さくなっているために十分に力を発揮できていないと。
竹中 おっしゃる通りですね。私はここまで国の権限が縮小しているとは思っていなかったので、とても意外に感じました。
 地方分権論者は、今回のパンデミックのような危機を想定したうえで制度設計をしていなかったのだろうと思っています。私は、地方分権を否定しているわけではまったくありません。47都道府県や政令指定都市、市町村で様々な政策を自律的・自発的に立案していくことは、とても意義深いと思います。特に経済政策などはさまざまな試みを通じて、その成果を見極めることもできます。日々の医療や介護についても、そういう発想でいいと思います。けれども、パンデミックのような危機の時には、地方分権的な対応では十分な成果を上げられないのではないでしょうか。コロナ禍が進展にするにつれて、私はそのことを強く実感するようになりました。
手塚 地方自治体は、管轄する区域内のことにしか対応できない弱さがありますね。コロナの感染拡大を封じ込めようとすれば、人の移動を制限しなければなりませんが、今回はせいぜい県を跨いだ移動を自粛するように要請するのがせいぜいで、禁止することまではしなかった。もし人が移動しければ、自治体の中だけで完結しますから対応できたかもしれません。けれども人の移動を封じられないとなると、個々の自治体でできることは限られますから、そこは国がやるべきだったのかもしれませんね。
竹中 新型コロナウイルス感染症のように広範に感染が及ぶ場合、感染対策は広域での対応を前提とする必要があると思いますが、そういう体制になっていないのではないでしょうか。
 このことは、どこが保健所を設置しているのかを見ていくとわかりやすいと思います。保健所は都道府県、政令市、中核市、特別区(東京23区)などが管轄していて、それぞれが検査の権限を持っています。そうすると、検査に対応する最小ユニットは、特別区まで降りてしまうことになります。ずいぶん狭いユニットで感染症に対応することになっているわけです。

権限とキャパシティー

 手塚 『コロナ危機の政治』の中では、「権限」と「キャパシティー(能力)」という二つの側面から今の状況を整理されていて、とてもわかりやすいと思いました。政府がある政策を実施しようとしても、権限がなければそれを行うことはできません。あるいは権限があっても、執行能力がなければ結局はできない。できないものはできないわけです。また、権限と能力が揃っていても、覚悟がなかったために政策を打てないケースもあり得ます。うまくいかなった時に後から批判されることを恐れて、やらないことを選択するといった場合です。
いま例に挙がったPCR検査は、権限があっても能力がないケースだったと言えるかもしれません。やりたくとも社会にキャパシティーがなければやりようがない。逆に病床数に関しては、社会のなかにキャパシティーはあっても確保するだけの権限が少なくとも今の法令上はないケースと考えられます。他にもいろいろなケースがありますから、ここの切り分けはきちんと行っておいたほうがいいですね。
 それでは新型コロナウイルスの感染拡大の局面で、ポイントになったいくつかの課題を「権限とキャパシティー」の側面から順番に見ていこうと思います。まずは検疫ですね。最初の課題になった検疫所の水際作戦はどう見ていますか?
 入国禁止措置は今では当たり前になりましたが、最初はそのための根拠条文を見つけることに苦労した経緯がありました。結局、この人物が入ってくると国内の公安状況に不安が起きる可能性があるという入国管理法の規定を根拠とすることで入国禁止をかけました。もっと早くやるべきだったという声はありましたが、この根拠付けに時間がかかったわけです。
 欧州から日本にやってくる人への入国制限は、明らかに遅かったと思います。結果的に見れば、2020年2月の段階でイタリア北部では感染が拡大していました。けれども「中国がたいへんなのはわかるけど、イタリアはどうしたのだろう」という感じで、日本はイタリアを対岸の火事として見ていました。実際はイタリア北部以外でもすでに欧州はかなり酷い状況でしたから、3月頭ぐらいには入国禁止にすべきでした。禁止できたとしても日本国内は第一波に見舞われたでしょうが、そこまで酷いことにはならなかった気がしています。
 権限の問題は、誰がその権限を持っているのかを整理しなければなりません。今回のケースで国が持っているのは、基本的にはいま話題に出た入国制限、検疫それから緊急事態宣言です。このうち検疫については、権限はあったがキャパシティーがなかった例だと思います。検疫所には1000人くらいしかいません。欧州からは毎日1万人以上もの入国者がいるので、すべてをさばくことは難しいです。
 手塚 次は検査ですね。PCR検査についてはどうでしょうか? 管轄がまちまちだったために権限が分散していたという指摘がありましたが、PCRについては最初からキャパシティー不足だった印象です。今でも足りていませんから、これだけ時間が経っても、増えていかないことのは不思議ですね。
竹中 最初の頃は、明らかにキャパシティーがありませんでした。今では1日約20万件まで増えていますが、急速に増強するという状況ではないです。
手塚 当初、検査を増やすべきとする主張と、検査をすればいいというものではないという主張の両方が見られました。PCR検査をめぐっては、一連のコロナ対応の政府の考え方や方向性が象徴されていた側面もありますね。ここについては後でもう少し考えたいと思います。
竹中 次に整理すべきは、感染した人たちをどう治療すべきかという課題ですね。未だに特効薬はありませんから、酸素呼吸器や場合によってはステロイドを使用するなどの対処療法で治療することになります。この時に問題になったのが病床数です。病床の確保は、都道府県が責任を追うことになっていますが、彼らは強制的に徴用する権限はありません。あくまで病院に対してお願いベースでの話になります。国は都道府県に対して「準備するように」「計画するように」と繰り返し通達を出しましたが、都道府県にも権限がないので大変だったのではないかと思います。
 私も医療関係者に少し取材しましたが、総合医やICU(集中治療室)を扱える医師が少ないといった話をよく聞きました。ただし、専門病院をつくってそこで集約的やればより効率的に診療することができたと私は思います。
手塚 大阪市は十三市民病院を新型コロナウイルス感染症の専門病院にしましたね。
竹中 東京もようやく、都立広尾病院、公社荏原病院、豊島病院を実質的なコロナ専門病院にしました。第4波は専門病院を活用し、乗り切ったとも言われています。コロナに本気で向き合うのであれば、感染して軽快した人は民間のクリニックで後方支援に当たってもらうような考え方もあり得るはずですが、そうしたかたちでの効率化が十分図れたのかどうかは疑問です。
手塚 確かに人の配置や物資なども含めて総動員で一気に対処するという発想は、今に至るまでありませんでしたね。他国では、野戦病院をつくるようなやり方で集中的に対応したところもありましたが、日本はそこまではやらなかった。
竹中 感染者の隔離も課題になりました。隔離する権限を持っていたのも保健所の設置者ですよね。
手塚 感染症法の立て付けでは、保健所が認定して、病院で隔離するのが原則です。ただ患者が増えましたから、すぐにキャパシティーが足りなくなりました。病床がなければやりようがない。
竹中 このため、自宅療養してもらう人も出てきました。しかし、自宅待機を強要することは困難ですし、本当に自宅待機を続けているのか確認することは難しいという問題がありました。自宅療養の場合、家庭内感染が広がるリスクは大きいです。また、飲み会に行った人もいたという話すらあります。
 次に課題になったのが、感染していない一般人も含めた移動制限です。感染爆発を起こさないためにも人々の自由な行き来を制限することが求められましたが、これはキャパシティーではなくて権限の問題ですよね。権限を持っているのは都道府県で、やるのかやらないかの話になってきます。

なぜ「ゼロ・コロナ」を早々に諦めたのか?

手塚 ざっと見てきましたが、この間の対応は全体としてチグハグだった印象を私は持っています。飲食店には休業や時短要請を出しておきながら、状況が少し改善するや「GoToトラベルキャンペーン」を始めるあたりは、一体何だったの? という感じでした。
 特に気になったのは、安倍前首相や今の菅首相をはじめ政府の責任ある立場の人たちから現実的な予測や中長期的な見通しが示されなかったことです。希望観測的な発言はたくさんありましたが、今起きている危機的な状況を直視するようなものは少なかった。もちろん感染症が相手ですから、コロナの推移について確実な見通しを述べることはできません。ただ、現時点での認識をはっきりと語ったほうが良かった気もするんです。
 ここはやはり東京オリンピックの開催を控えていることが、大きなくびきになった印象があります。今の菅首相などは典型的ですよね。「安心・安全の大会にする」とか「コロナに打ち勝つ」とか、そうしたことばかり言っている。その一方で、尾身茂さん(新型コロナウイルス感染症対策分科会会長)は「今の状況でやるのは普通ではない」とか「やるなら強い覚悟で」と真逆のかなり強い意見を述べています。国民の「オリンピックはどうするのだろう? 大丈夫だろうか」という当然抱く疑問に対して、政権が楽観的な言葉でしか応えていない。
竹中 GoToトラベルキャンペーンは、明らかに矛盾していましたね。元々はコロナ収束後に、大打撃を受けた経済を早急に回復させることを目的に打ち出された施策でした。けれども、政権としては少し収まった時にやったわけです。これは一部業界の意見が強かったからではないでしょうか。特に観光業界の相当ダメージ受けましたからね。けれども、世論から大バッシングを受けて、今はあまり口に出されることもなくなりました。
 東京オリンピックの開催については、厳しい判断をする人が相対的には多かったと感じています。私は、東京オリンピックの開催があってもなくても、政権のコロナ対応はこれまでのように長期戦になったと思っています。なぜなら、今回の新型コロナウイルス感染症対応の根拠となっている「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の長期計画には、対応は感染ゼロをめざすのではなく、長期戦でいくということが書いてあるからです。
手塚 長期的に感染の波を沈めていくということですね。今回は、コロナを完全に封じ込めることを早々に諦めていたように見えました。
竹中 「ハンマー&ダンス」と呼ばれるようになりましたが、人々の行動を制限し感染者を抑える施策(ハンマー)と、感染者が減ってきたら行動制限を緩和する施策(ダンス)の二つを繰り返すと、長期計画に明記されています。最初から完全制圧をめざしていたわけではなかったんですね。
手塚 2009年に新型インフルエンザが大流行した時の水際対策の失敗と、そのことへの批判が効いているのだと思います。あの時は水際作戦を徹底しようとしたが、結局できなかった。それで水際で防ぐことはできない「ムリだ」と総括されることになった。
 今回も水際戦略は、早々に放棄することになりました。この春から新たに感染が拡大しているデルタ株の国内での流行が明らかになってからも、対策は後手に回っていました。
竹中 「ゼロ・コロナ」という言葉もありましたが、これを使うとSNSでは「コロナ脳(新型コロナウイルスを過剰に恐れる心理状況)」なんて揶揄されて、バッシングされる始末でした。でも、シンガポールなどはゼロ・コロナをめざしてほぼ成功しているわけですよね。中国もそうです。
手塚 そうですね。最近になって決壊してしまいましたが、台湾もずっと上手くやっていました。
竹中 当初は、権威主義国家でなければゼロ・コロナを達成できないなんて盛んに言われていましたよね。けれども、民主国家のオーストラリアやニュージランドは押さえ込んでいます。
手塚 そうですね。PCR検査と水際対策を徹底してやりました。
竹中 結局日本は長期戦で行くという当初の戦略通りにやって、結果としてその通りになったわけです。今は新型コロナウイルスのワクチンの有効性が確かめられて接種が始まりましたから、めざすべき目標が定まりました。けれども仮にワクチンができずにいたら、ずっと同じこと=ハンマー&ダンスを繰り返していたような気がします。
手塚 ゼロ・コロナを掲げると少しでも感染者が増えたときにものすごい批判を浴びることになりますから、政権としては目標にくいところもあるのでしょうね。成功・失敗のラインを明確にしたくないと。
竹中 おっしゃる通りです。特に厚労省はそういう政策は取りたくないでしょうね。これまでもいろいろな政策について批判されてきましたから。
手塚 新型コロナが顕在化する直前には、毎月勤労統計の不正問題でも叩かれていました。ほとんど満身創痍の状態です。
竹中 彼らからすれば、ゼロ・コロナを実現するための政策ツールを直接持たされているわけでもないし、十分な予算と人員が与えられているわけでもないから、とても「やってやろう」とは思えないですよね。さらに言えば、実力行使型の行政を日本人が許容するかどうかといった難しい問題との兼ね合いもあります。ハンマー&ダンス的な手法で抑えていくしかないと思っていても不思議ではないですよね。
手塚 その通りだと思いますね。早い時点で、集団免疫を獲得することを着地点として想定していたような節がありますね。
竹中 ただ、有効なワクチンが開発されたとも限らないし、集団免疫の獲得にはかなり長い時間がかかってしまう。それにブラジルのマナウスの例では集団免疫に到達したはずなのに、また感染が大流行してしまうケースも出ている。

堅持された強い権限を行使しない行政スタイル

手塚 日本は実際のところ、水際作成を徹底することは可能だったのでしょうか。
竹中 この路線を徹底するのであれば、検疫所の体制を早急にもっと強化して、ホテルもどんどん借り上げることをまずやるべきでした。それでも人員が足りないのであれば、自衛隊を投入する。真剣にやるのであれば、医療面以外の対応、例えば人の輸送などにも自衛隊や警察組織を投入せざるを得ないと思います。
手塚 今回自衛隊は医療の応援とワクチン接種では投入されていますが、それ以外では出てきませんね。警察も夜の街の巡回みたいなことはやりますが、それ以外の実力装置として使うことには抑制的でした。
竹中 日本人は、権力や治安機構への忌避感がとても強いところがありますからね。戦前から治安維持法で自由を抑圧し、戦時中は特攻隊などひどい作戦を実行し、人の命をあまりに粗末に扱ったので、権力を背景にした対策に消極的なのではないかと思います。
手塚 警察もそうですが、他の組織も基本的には実力行使を行うことを前提にはつくられていませんよね。保健所も検疫なども、基本的には強制力をテコにした行政活動はあまりやっていない。
竹中 こういう議論をすること自体が憚られるような雰囲気は、未だにありますよね。感染者を隔離する問題についてもかつてのハンセン氏病患者に対する負の歴史もあって、「隔離」という言葉自体が政治的な意味を持つようになってしまって、人の権利を侵害する政策だと見なされることもある。こうした批判を恐れずにやろうとする人はあまりいないのではないでしょうか。
手塚 歴史な経緯に拘束されていることもあって、なかなか強い対応に踏み切ることができなかったわけですね。強い権限を行使しない行政のスタイルは、今回のコロナ対応でも堅持されたわけです。その是非を考えることは難しい問題ですが、コロナを封じ込めるという目的に対して、その手段の選択肢の幅を狭めたことは否めないですね。
竹中 ご指摘の通りだと思います。もう一つ顕著になったのは、権限の不一致ですね。検査をする権限を持っているのは、政令市、中核市、それから特別区ですが、ここは医療体制に対して責任を負っていません。彼らは検査をせずに感染者が増えたとしても病床確保は迫られません。
 なぜ都道府県知事があんなに一生懸命に移動制限や休業・時短要請を訴えるのかと言えば、とにかく感染を止めないと医療が崩壊するからです。そうなると、批判はすべて知事に向かってくることになります。彼らはそれがわかっているから必死になります。特に大都市圏の知事は、移動制限を行うことでずいぶん存在感が増したと思います。
 和歌山県知事が、検査数を増やすことを一生懸命に取り組み、それを盛んにアピールしてきましたよね。和歌山県知事にはそれができました。 なぜなら和歌山県は、和歌山市を除いたほとんどすべての保健所を統轄しているからです。
 東京都はそういうことはできません。検査の権限は、特別区に降りているからです。やはり権限があまりに分散してしまっている問題はあると思います。東京都知事が検査権限を持っていたら、医療にくる負担を避けるために一生懸命に検査を増やそうと尽力した可能性はあります。もちろん仮定の話なので、実際にどうなるのかはわからないですけどね。

パンデミック対応の指揮系統が構築されていない?

手塚 今回のパンデミックへの危機対応を見ていると、迅速に対応するために指揮系統が構築されていなかったのではないかという指摘もあります。国家安全保障会議や経済財政諮問会議のような司令塔機能を打ち出せていないのではないかと。
竹中 自然災害への即応体制は構築されているのに、なぜパンデミックに対してはそれを移植するかたちで対応できなかったのかという気はしますよね。
 組織論的には今回のケースはまずは、安危室(内閣官房内閣安全保障・危機管理)が武漢市からの日本人とその家族の退避の対応にあたります。その後、プリンセス・ダイヤモンド号への対応では、彼らは後景に退いていくことになりました。
 内閣官房の危機管理機能は、阪神淡路大震災に機動的に対応できなかった反省をもとに強化されていきました。災害の時は、ここが都道府県や自衛隊とも協力しながら対策していくわけです。今回も性格的には同じようなケースにも見えますが、うまくいきませんでした。
手塚 災害の場合は2日もすれば被害の全容を把握することができますが、パンデミックの場合、時間が経つごとに刻一刻と状況が変化する難しさがありますね。
竹中 やらなければならないこともパンデミックのほうがずっと多いですね。災害はまずは救助があって、救援物資の送付それから仮設住宅の建築といった感じで当面対応すべきことは限定されています。もちろん復旧・復興は長期戦になりますが。パンデミックの場合は、日本全国での対応が必要ですし、そもそも長期戦にならざるを得ません。検査、隔離などの対策はどこまで強制性を持たせるのかという判断も迫られます。
手塚 そうですね。長期戦になりますから、わからないなりに情報をどんどんアップデートしなければならないですよね。そして、その情報を元に政府の認識を変えながら、打ち出す政策を決めていくことになる。ここには当然、専門家の意見を求められることなります。当初この役割を担ったのが、政府対策本部のもとに設置されたのが専門家会議でした。第一波の後、この専門家会議に替えてできたのが今の新型コロナウイルス感染症対策分科会(会長は尾身茂氏)です。ただ、この仕組みはうまく使われなかった印象を持っています。
竹中 新型インフルエンザ等対策特別措置法の法律を読むと、専門家の意見を聞いて政策を決めると書いてありますね。手塚さんは専門家の意見を反映されていないと見ているのですか?
手塚 当初は専門家会議が事実上、政府の方針に意見する役割を果たしていたんです。そのまま特措法上の基本的対処方針を決定する会議体である基本的対処方針等諮問委員会(現在の基本的対処方針分科会に相当)に移行しても良かったようにも思います。
しかし、政府はそうはせずに専門家会議とは別に、決定の最終段階で話を聞くだけのものとして基本的対処方針等諮問委員会を作ったため、諮問委員会の役割が限定され、単なる承認機関に祭り上げられてしまったところがあります。その一方で、専門家会議も分科会に改組されましたから、途中から、専門家の人たちが政府内のチームでどのような役割を果たしているのか明確ではなくなったまま今に至っているのではないかというのが僕の見立てなんです。
竹中 専門家会議が分科会になったことで、存在感が薄くなったように感じます。なぜでしょうか。
手塚 分科会になってメンバーも増えるし、開催頻度も減りました。もっとコアな人たちだけが官邸に常駐するイメージで本来は構想されていたのだと思うんです。権限を含めて誰が政策に関与しているのかを可視化されていたほうが、政権との緊張関係が明瞭になります。つまり、専門家の提言を政権が受け入れないのだとしたら、その理由を説明しなければならなくなりますから、専門家と政権の関係がもう少し見えたのではないか。
竹中 内閣官房参与のようなかたちで、専門家の人たちを常駐してもらって、「官邸官僚」として行動して政策提言するようなイメージですか?
手塚 パンデミックは長期の対策が求められますから、ずっと常駐することは 現実的ではないかもしれませんが、日常的に諮問に答えていけることが望ましいのではないかと思います。ただ、そうすると本当に政策の過程がブラックボックスに入ってしまうから、やはり会議体としてもそこに存在してきちんと記録に残すことは大事なだと思います。それでもやはり人数は限定しないとそこでの議論が薄まってしまって、結局は特定の人物が主導することになってしまうかもしれません。この仕組みが機能するかどうかは、よくわからないところがありますが、本来はそうした姿を想定していたのだと思います。
竹中 分科会には経済の専門家もメンバーにいますが、発言を見ていると感染対策をきちんとやるべきだ、といった発言が多いように感じます。経済的影響については、別の委員会をつくって検討したほうが良かったかもしれませんね。
手塚 経済は別にあって官邸が両者を調整するのであればわかりやすかったのですが、分科会でまとめたのでよくわからない状況が今も続いている感じではないですか。
 オリンピックの開催をめぐる議論などはまさにそうですよね。オリンピックに関しては議論自体してほしくないし、あまり伺うつもりはないといった雰囲気になっている。ですから、この分科会には権威があって、そこでの提言を無視するわけにはいかないといった存在感を確立することはできなかった。尾身さん個人がそうしたものを背負っている部分はあるのかもしれませんが…。
竹中 やはり政権との摩擦も大きかったのでしょうね。
手塚 原子発電所の事故以来、日本社会において専門家の評判が地に落ちてしまったところがあります。同じように予防接種をめぐっては、厚労省も評判を確立できていませんから、どうしても説得力を欠いてしまう。

専門家は理想論を語るべきだった?

竹中治堅氏・政策研究大学院大学教授

竹中 今回は専門家が行政に忖度したとしか解釈できない発言があります。このために信用が少し損なわれたのではないでしょうか。専門家はまずは理想論を語って、完璧な感染対策を打ち出すべきでした。日本はクラスターが発生した箇所を重点的にPCR検査する戦略を打ち出しましたが、これは理想論ではないですよね。押谷仁先生(東北大学大学院医学系研究科教授)の講演などでの説明をよく読むと、「大規模PCRが望ましいが、現実には実施できない」「クラスター戦略は次善の策だ」とおっしゃっています。キャパシティーがあれば、すべて検査するのが一番いいと述べられています。
 しかしながら、「『日本モデル』の力を示せた」と首相にまで言わせてしまったために、クラスター戦略を転換できなくなってしまったのではと思っています。専門家は理想論をズバズバ言えばいいのに、妥協点を自分たちで見出してそういう発言をしてしまった。専門家はキャパシティーのことは考えなくてもよかったというのが私の意見です。
手塚 ただ公衆衛生の専門家の人たちはウイルスや感染症の研究者ではなくて、実際に社会でどうマネージしていかに感染を抑えるかに主眼がある分野とも言えます。WHO(世界保健機関)などでやっている作業はそういう話です。なので、半分は実務家でもある。でも、確かに理想論を言う人たちがいなくなったところはありますね。
竹中 当初、心配されたのはPCR検査の数を増やすと、偽陽性がたくさん出ることで病院がパンクするということでした。でも偽陽性であれば、もう1回検査すれば、ほとんど弾けるはずなんですよね。結局、最後はキャパシティの問題です。専門家の皆さんは、厚生労働省の言い分に対してやはりかなり忖度してしまった気がしているんですけどね。
 船橋洋一さんが理事長を務めているアジア・パシフィック・イニシアティブの検証委員会の報告書で指摘されていたことですが、厚労省は大規模なPCR検査をすることがいかに良くないかを訴える正確性をかけるペーパーを議員会館などで配っていたそうです。
 手塚 医系技官(医師免許を有する行政官)の問題ですね。彼らは検査に人々が押し寄せてくる事態をものすごく嫌がった。なぜそこまで嫌がったのかはよくわからないんですよ。
竹中 「1億総検査」という事態になることを恐れたのではないですか。彼らは実質的には自分たちで検査する権限はありませんが、検査数を上げることには政府与党にコミットさせられることになる。実際に検査するのは政令市や特別区ですがそこを動かせるだけの力もない。しかし、実績が上がってこない状況になると、「健康局は何をやっているのか」と批判されることになる。そういう状況に追い込まれることを過剰に恐れた気がします。
手塚 1億総検査はムリだろうと最初から思い込んでいた可能性もありますね。そんな時代がやってくるとは露も想定していなかったのかもしれません。ところが他の国がやり始めて、「なんだやれるじゃないか」という雰囲気になってきたことに焦りを感じたのかもしれませんね。
竹中 そこは彼らの発想を知りたいですよね。最初から検査に人が押し寄せることを嫌がって、検査そのものの意義を否定したのであれば困ったことです。
手塚 2009年に新型インフルエンザが流行した際に、発熱外来に人が大量に押し寄せてそこで感染が広まった経緯に過剰に対応した側面はありますね。今回とても評判の悪かった37度5分以上の熱が出ても4日間は家にいてくださいというお願いも、そのことが念頭にあったとされています。
竹中 健康局長と医政局長は、何を考えてきたのかきちんと説明すべきですね。彼らの論理もあるはずですから。
手塚 一番の問題は医系技官のトップである医務技監だと思いますね。本当はこうした事態にためにつくった役職のはずですが、少なくとも今回は国民の前には出てこなかった。
竹中 その役割は尾身さんが担っていた感じがします。政治主導とは言え、役人も国民の前に出て説明することは責任感を持ってもらう意味でも必要だろうと思いますね。手塚さんから見て彼らはどういうエトースを持っている人たちなんですか。
手塚 世の中から怒られたくないということはあるでしょうね。まぁ医系技官は、医者なのかお役人なのかで言えば、基本は役人ですから。批判されたくないというメンタリティは強くあると思います。

ワクチン行政をめぐって

竹中 新型コロナワクチンの接種が始まりました。手塚さんはワクチン行政を専門分野にされていますから、気になったことを伺っていきます。今言われているのは、なぜもっと早くに決断できなかったのかという点です。
手塚 実際にはなかなか難しかっただろうと私は思います。昨年の段階では、海の物とも山の物ともつかないところがありましたから、他の国の様子見をしていた側面はありました。今から考えれば、非常に出来のよいワクチンであることがわかっていますが、最初の段階ではそこまではわからなかった。厚労省や専門家の人たちも含めて、それだけのリスクは取れないでしょう。
竹中 イスラエルはなぜそのリスクを取れたのですか?
手塚 感染状況が日本よりずっと酷くて事態が逼迫していたからだと思いますね。日本はそこまで悪い状況ではなかった。
竹中 国内治験はやはり必須なのですか。省略することも可能なのではないかという気もします。
手塚 過去にも治験をすっ飛ばして使用を開始したケースはあります。1960年代にポリオ(急性灰白髄炎・小児麻痺)に大流行した際には、ワクチンを緊急輸入して、脱法的に全国の子どもたちへの接種を行った。なので、もちろんやろうと思えばできるんです。ただしそれは大臣が責任を取ることを明確にしたから、できたところがあります。そうした政治的な決断、覚悟がなければできることではありません。
竹中 日本人は、ワクチンに対して苦手意識が根強くあるとも言われていますね。
手塚 実際に効くことがわかればみんな打つわけです。今回のケースも最初はワクチン接種にネガティブな意見も見られましたが、次第に信用を得ていきました。ワクチン接種は最初からゼロリスクを求められると厳しいところがあります。それは土台ムリですが、それでも決めなかればなりません。その時に担保されるのはやはり評判なんです。十分な評判が確立されていれば後で何か起きたとしても、「あれだけの組織が頑張ってもできなかったのだからしょうがない」と社会の側が許容するわけです。そうでなければ、リスクを伴う決断はできなくなる。
 長期的な話ですが、そうした評判の構築に厚生労働省はこれまで失敗してきましたから、今回のワクチン接種にしても否定的な意見がどうしても出てくることになる。
竹中 厚労省は何でそんなに失敗してきたのですか。
手塚 野蛮なことやってきた経緯は否定できませんね。予防接種に関して言えば、何か問題あっても「問題はない」と言い続けて、隠蔽してきたことは紛れもない事実です。2009年の新型インフルの流行の後には予防接種をまた拡大してきたのですが、子宮頸がん(HPV)ワクチンをめぐって、また評判を落としてしまったところがある。
  竹中 あれは本当はやったほうがいい政策のなのに、因果関係が必ずしも正確ではない症例をもとに、積極推奨を止めてしまったという理解は間違っていますか。
手塚 いずれにしても、積極的勧奨の差し控えという中途半端な態度をとり続けているのは問題です。ただ、あの時点で定期接種化するには早すぎたように思います。多くのワクチンは、任意接種をある程度続けた後に、定期接種化に踏み切ることが多いですから。
2009年の政権交代前の選挙公約では子宮頸がんワクチンの導入を与野党問わず掲げてましたが、予防接種を政治の道具にすることは弊害も大きいと個人的には考えています。
 今回の新型コロナウイルスワクチンに関して言えば、接種体制の構築までに時間かかっていることのほうが大きな課題だと思いますね。
竹中 ファイザーは2月中には承認出していますが、本格接種は結局5月からでした。
手塚 なかなか現物が入ってこなかった問題もあるし、成人の集団接種はここ数十年やったことありませんから、当然ノウハウが蓄積されているわけではないから仕方がないところもあります。ただ全国にある地方自治体ごとにシステムをいちいち構築するあたりは、とても効率的ではないですよね。
竹中 昨年、特別定額給付金として10万円を配布しましたが、あの時も市町村がやりましたよね。最後の事務は市町村がやることになることが多いです。持続化給付金については民間に委託することになりました。
手塚 そこには中抜き構造があるという話になり、批判が起きた。
竹中 早く配ろうとすれば、あれしか手段がなかったわけですから、理不尽だなとも僕は感じました。結局、実施部隊としては、市町村の体制は十分なのかとも思います。
手塚 どこも人員を減らし尽くしていますから、余力がないの現状だと思うんです。市町村の仕事は増えている一方で人はむしろ減っているわけですから、「やれ」と言われてもノウハウもないし即応は難しいのが実情ではないでしょうか。ここは平時の課題になりますが、国なりが音頭をとって、システムに関しては標準化をめざす努力をしたほうがいいことは間違いないでしょう。

公衆衛生庁をすべき

手塚 最後に今回の経験を踏まえて日本の統治構造について今後改善すべき点について考えてみたいと思います。
竹中 今日は保健所の管轄について何度か言及しました。繰り返しになりますが、ここの権限が分散していることはパンデミック対応に遅れをとった大きな原因だと見ています。感染症の検査体制については、やはり国が直接実施部隊を持ったほうがいいのではないかと考えています。そのために公衆衛生庁を創設してもいいのではないかと思います。国が出先機関となる保健所を全国に持っておくわけです。
手塚 地方自治研究の用語で言えば、分離型ですね。国が特定の機能を担う出先機関を全国に展開させると。逆の発想が、融合型です。それぞれの地方自治体に様々な機能を持たせて、大概のことは自治体にやらせようという考え方です。
地方分権改革が進められた時には、分離的な発想についても議論されていたんです。地方にできることは任せるが、できないことはやはりありますから、そこは国がきちんとやるべきでそこを混ぜるのはよくないと。けれども、国が持ち続けた機能を地方に移譲するかたちで地方分権は推移していった経緯があります。
竹中 まさにその通りで、今回のコロナ対応では融合型の弱点が露呈したところはありますね。
手塚 人口減少の時代に全国津々浦々を網羅するだけの人員を抱えることは可能でしょうか?
竹中 そこは課題になりますね。税務署と同規模の組織をつくるとなると5万人以上が必要になりますが、問題は平時に何をしてもらうかという問題も出てきます。
手塚 例えば、一般行政組織や国立病院などに勤めている人たちに緊急事態の際には、保健所と働いてもらうような融通を効かせたスタイルもあり得るのではないでしょうか。要するに、応援に行くというレベルではなく、他の行政機能を一旦ストップしてそちらに投入するような使い方ですね。これは政治的な決断になりますが、社会的に余剰人員を確保できない状況であれば現実的な考え方にも思えます。
竹中 その場合でも所属は国の機関にあるほうが大事だろうと思います。危機の際に指揮権を発動して別の組織の人に言うことを聞いてもらうのはたいへんですよ。人事権がありませんからね。
 金銭的誘因を用いるのか、ある程度の強制力に依るのかは検討が必要であるものの検査を拡大するための方策を講じるべきだと思います。今回パンデミックを経験し、諸外国の例も知られるようになり、以前に比べれば広範な検査を許容する向きも増えてきたように思います。もちろん、拡大策は日本が民主主義国家あることを踏まえて考えなくていけないことは当然です。今回のコロナ危機を契機にして、より実効性のある検査体制の確立に向けて具体的な議論が活発になることを期待しています。(終)

竹中治堅・政策研究大学院大学教授
たけなか はるかた:1971年東京生まれ。東京大学法学部卒業後、大蔵省入省。スタンフォード大学政治学部博士課程修了。Ph.D.(政治学)。政策研究大学院大学助教授、同准教授を経て、2010年より現職。専攻は比較政治、日本政治。著書に『コロナ危機の政治――安倍政権vs.知事 』『戦前日本における民主化の挫折一民主化途上体制崩壊の分析』『首相支配一日本政治の変貌』など。
手塚洋輔・大阪市立大学大学教授
てづか ようすけ:1977年東京生まれ。東北大学法学部卒業。同大学大学院法学研究科博士課程中途退学。2008年東京大学より博士(学術)取得。東京大学先端科学技術研究センター特任助教、京都女子大学現代社会学部准教授等を経て、2017年より現職。専攻は行政学・公共政策論。著作に『戦後行政の構造とディレンマ――予防接種行政の変遷』『変貌する日本政治』『はじめての行政学』など。

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