詩を書くことに意味はあるのか

──そのことに悔しさやもどかしさを感じることはないのですか?

谷川 いやいや、もう歳なんだから当然だろうと思っています。無理して書いてもいいものは書けないだろうしね。80代に入ってからかな、自分自身が老いることを意識し始めた頃から、詩を書くことに意味があるのだろうかとずいぶん考えるようになりました。いま現実としてウクライナとロシアが戦争するような大きな事件が起きている。けれども、それを書く詩の言葉が見つからないでいます。

 今は自然に言葉が生まれてきたら、それをちょっと書いておこうという感じですね。もっとのんきな、時代背景など全然関係なく書ける詩があったらいいなと思っています。そうすると、時代からは遅れてしまうことになります。僕は時代の先っちょが書きたいと思っている人間だから、古典的な詩があってもその線で書けないし、その線で書きたいともあまり思わないですね。

──俳句や短歌には文字数の制限がありますが、谷川さんが詩を書いているときは「ここで終わりだな」といった明確な区切りはあるのでしょうか?

谷川 常にはないですね。冗談なんだけど、「締め切りが区切りです」という人は結構いるわけですよ。詩というのは、起承転結があるわけじゃないから、終わろうと思えばどこで終わってもいいわけです。いわゆる起承転結があって、結論が示されて終わるような詩の姿はあまり好きじゃないんですよね。どこか尻切れ蜻蛉みたいに、一種の余韻を残すような終わりのほうがいいなと思っていますけどね。

 

詩は動いているものであって不安定

──書いているときは気持ちいいものですか。また詩を書いていく時には、頭のなかにある程度でき上がっているものを文字に落とし込んでいるのでしょうか?

谷川 自分の気に入ったものが書ければ、たとえ1行でも気持ちがいいです。逆にこうじゃないなと感じながら、書くのは嫌ですね。

 書きたい詩のイメージが最初から頭のなかにでき上がっているわけではないですね。スタートするのに必要な断片みたいなものが出てきたら、そこから書き始められるという感じです。かつて注文に急いで対応しなければならない場合などは、一編すべてを書くこともありました。でも、今はそういう能力はもうありません。時間をあまり気にすることなく、割と気楽に書いています。

──書いたときに気に入った作品は、時間が経ってからも同じようにいいなと感じられるものですか?

谷川 そう思えるようになるのは、時間がだいぶ経ってからだな。この頃は何度も推敲するようになっているので、結構読み返すんですよね。その度に細かく手を入れたりしています。そういうダイナミックな関係で自分の詩を読んでいると、詩が一つの完成した言語形態ではなくて、例えばこうやって人と会話しているときと同じように流動している感じになってくるんですよね。

 以前はもう少しきちんと書いて、そこに完成した詩があるようにしたいと思っていました。だけど今は、日常的なおしゃべりのなかに詩を発見したいという感じにもなっている。動いている感じで、詩を書いていますね。

──短歌や俳句は瞬間を切り取る表現だと思いますが、詩は動いているわけですね。

谷川 動いていてもいいんじゃないかと思うようになりました。以前は、やはり完成形をめざしていたんですよね。だけど今は、逆に中途半端であることが自分の老いというものを表現しているのではないかと思うようになりました。

──詩を書いていると、世界の雛形ができていくような感覚を持ったともおっしゃっていましたが…。

谷川 当時のことはもうよく覚えていませんが、若い頃はそういう気持ちになったこともありました。けれども、今はそうは思っていません。詩というものは動いているものであって、不定であるという感じがすごく強くなっていますから。

──冒頭で北軽井沢の自然がすごく心地良かったというお話がありました。例えばもう一度人生を送れるとしたら、こういう場所に住んでみたいとか、こんな時代に生まれてみたかったなと空想されることはありますか。

谷川 目の前にある現実に実際的に関わることを基本にしているから、非現実な発想はあまりしないんですよ。空想することがあっても、詩に書くことはほとんどありません。生まれつきプラクティカルな、実際的な人間なのだと思っています。もちろん、詩は基本的には絵空事だと認識はしているけど、自由奔放に書けるのかと言えば、日本語という枠がある限りそこでも自由で居られるわけではないと感じています。

──詩を書くときはパソコンを使用されているそうですが、手書きとの違いはありましたか?

谷川 使い始めた頃はやはり手書きとは違うなという感覚はありましたが、今はもう手書きは考えられないですね。ブラインドタッチができるわけではないから、そんなに速くキーは打てないけど、それでも手書きとはスピードが違う。それに訂正がいくらでもできるでしょう。今は書き始めても、すぐに「これはダメだ!」と消してしまうことになる。手書きの時代は、消しゴムで消していたわけですが、今はそれだけでもたいへんです。

 それでも、手書きで書きたいと思うときがあるんです。ただ手がぶきっちょだし、歳を取ってからは字を書くのも怪しげになってきました。今でも月に一編ぐらい発表していますが、90歳を過ぎてからは目も悪くなっているし、知的能力も衰えてきているから、自分でパソコンを使うことも少なくなってきました。

──お伺いしにくいことではありますが、3度離婚されています。夫婦の関係を維持していくのは苦手なのかなと。詩人はモテるとも言えますが…。

谷川 一人っ子で生まれ育ってきたから、恋愛して結婚するまでの過程で初めて他者という存在に出会ったという感覚があるんです。僕はお勤めもしたことがないしね。だから自分自身が制限を受けた経験がほとんどなかった。

 書くという行為は、言語を通じて常に他者を意識するわけだから、僕はそこで他者を発見したとも言える。それは言語上のことだから、どうしても抽象的ですよ。けれども、他者というのは具体的な肉体を持った人間だから、そこで衝突したり不愉快になったり喧嘩したりします。自分では、そういう他者を詩で書いたことはなかったのだと感じています。

──肉体のある他者を作品のなかで表現しようとはされなかった。

谷川 僕は詩というのは、工芸品のようにかっこいいかたちで綺麗なものにしたいんですよ。だから、そういう人間のドラマを詩に書くことは、自分にとっては難しいんですね。

──女性に出会ったばかりの頃は、詩の断片のように綺麗なイメージを伝えるのは効果的かもしれません。

谷川 そうですよね(笑)。詩のなかでは綺麗なことをたくさん書いたけど、現実生活の上ではそれは嘘じゃないか、ということはいっぱいありますね。

──動物は好きですか。

谷川 基本的に好きです。少年時代の愛読書の一つが『シートン動物記』でした。あれは話をおもしろくし過ぎていますけどね。動物は弱肉強食で残酷なようだけど、人間が持っているような悪意がないというか、無邪気なところはとても羨ましいですね。

 

 

死は経験しようがない

──『二十億光年の孤独』にある「自伝風の断片」という文章のなかに、幼い頃に夜寝床に入ると「お父さんお母さんが死にませんように、淀のおじちゃんおばちゃんが死にませんように、常滑のおじちゃんおばちゃんが死にませんように、誰も病気になりませんように、神さまどうかお願いします」と祈りを捧げていたという記述があって強く印象に残りました。死の恐怖が幼い頃からずっとあったのでしょうか?

谷川 キリスト教系の幼稚園に行っていたから、よくお祈りなんかをしていました。だから死というと、十字架に架けられたキリストの姿が浮かんでいました。けれども、そのイメージはいつの間にかなくなっちゃっていましたね。キリスト教を信じているわけでもないし、家には浄土宗の仏壇があって、おじいさん、おばあさんの位牌が飾ってあったりしましたから。

 僕は自分が死ぬことよりも、母が死ぬことのほうがずっと怖かったんですよ。今でも、自分が愛する他人の死のほうが怖いです。それは恐怖であり続けたのだけど、いつの頃からか、自分が死ねばそういう心配や恐れはすべてなくなるのではないかと考えるようになりました。だから、死ぬのは怖いのと同時に、楽しみでもあります。

──実際にお母様が亡くなられたときは、どうでしたか。

谷川 誰が死んだのかわからないぐらい、他人の死のように感じられました。他人というのもヘンなんだけどね。小さい頃に、寝床の中で「お母さんが死んだらどうしよう。お祈りしましょう」なんてやっていたのが嘘みたいに、あっけらかんとしていました。死ぬ前に母はボケていたことも影響しているのだと思うんだけどね。

──ご自身の死については。

谷川 僕自身は、死ぬことの不安を感じないでずっと過ごしてきました。90歳になってやっと自分の死というものを嫌でも意識しないといられなくなっています。けれども、いざ死にそうになったときに具体的にどうすればいいのか、といったことしか考えていません。死そのものについては、どうせ経験しようがないのだから、ほっとけばいいと開き直っています。どうすることもできないのだから、どうでもいいやみたいな気持ちになっているんですね。

──ありがとうございました。

 

聞き手 本誌:橋本淳一

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