木久扇 僕は、先生のお宅では三畳間をあてがわれていて、空いた時間にはひたすらチャンバラ漫画を描いていました。よく鏡にポーズをとって、「おのおのがた!」なんて台詞を声に出しながら、いろいろな役を演じて漫画を描いていたんです。そんな書生暮らしが4年経ったときに、清水先生が「お前は器用だから落語もいけるかも。これからはテレビの時代になる。しゃべれて漫画が描けたら売れるぞ! ちょっとやってみないか」と勧められた。僕がいろいろな声を出して演じているのを知ってらしたんですね。先生が「ちょっと」って言うので、僕も軽いから「いいですね!」とすぐに返事をしました。
──即答されたのですね。
木久扇 大先生がそう言うのだから、そうなるんだろうと思えました(笑)。清水先生は、同じ鎌倉に住んでいた文化人と交流がありました。川端康成、小林秀雄、大佛次郎、今日出海、横山隆一、横山泰三といったすごい先生方でしたからね。そんな清水先生が言うのですからね。
先生は落語も好きで、落語家さんとも行き来がありました。そうしたら、たちまち江戸前の芸風の桂三木助(三代目)師匠に宛てて紹介状を書いていただきました。「今日はうちのことはしなくていいから、この手紙を持って三木助師匠に会ってこい。もう連絡してあるから」と。すぐに鎌倉から田端にあるご自宅を訪ねました。
奥の座敷に通されると、夏だったので糊のきいた浴衣を着て、立て膝をついた三木助師匠が待っていました。日舞(日本舞踊)の師匠だった人ですからね、たたずまいがかっこいいんですね。師匠は「お前さん、そんなに落語が好きなのかい」と聞かれたんですよ。僕は清水先生に、落語をやって漫画が描けたらテレビに出られると言われて、やってきただけだから別にそんなに好きじゃない。でも、正直にその通りに言っちゃまずいなと思って「大好きです」と答えました。すると「ああ、そうですか。最近では私の落語は何を聞いてくださりましたか」と聞かれました。初めて会ったわけだし、そんなの知らないんですよ。
僕は、柳家金語楼師匠のことは知っていました。映画にもよく出ていましたからね。それから三遊亭歌笑という新作をやられる師匠は好きでした。でも、それくらいのもので、あとは落語なんかほとんど知らなかったんです。
困りましたが、NHKラジオによく三遊亭金馬(三代目)師匠が出ていて、「相変わらずの落とし噺でございます」ってやっていたのを思い出したんです。ある日の放送で金馬師匠は、「饅頭こわい」という噺をやったんですね。その時アナウンサーが「この噺はいろいろな師匠がおやりになっていますが、それぞれ演出が違っていて楽しいですね」と話していたんですよ。「いろいろな」というくらいだから三木助師匠もやっているのだろうと思い出して、とっさに「『饅頭こわい』とか」と答えたんです。
そうしたら「ああ、そうですか。第一生命ホールで私がやったのを聞いてらしたんですか」と。柳家小ゑん(後の立川談志)や三遊亭全生(後の五代目三遊亭圓楽)なんかの若手と一緒に出て、「饅頭こわい」をやったばかりのところだったんです。「若手が勉強している会で私は目立っちゃいけないから、まぁ軽く逃げたんです。そうですか、あの時にいたんだ。ああ、そうですか」とえらい気に入られちゃってね(笑)。
──察しがいいですね。
木久扇 これは本当に偶然なんです。それで「明日からいらっしゃい」と言われたんですね。戻って清水先生に報告したら、「三木助師匠が言うのだったらすぐに行け」と。清水先生という保証があるから安心して採ってくれたのだと思いますが、こうして桂三木助師匠のところに入門することになりました。
林家正蔵師匠に弟子入り
──落語家としての歩みが始まったわけですね。
木久扇 ところが、三木助師匠は癌の手術をして虎の門病院から帰ってきたところでした。入門したものの、師匠はほとんど寝ているんですよ。僕は病気のことを知らないから、お年寄りになるとほとんど寝ているのだな、なんて思っていました。たまに寄席の鈴本なんかに届け物に行ったりすると、同じぐらいの歳の師匠方が元気に歩いていますから、それを「寝ないで歩いている」なんて思っていました。だから、三木助師匠のことは、そういう落語家なんだと思っていました。
実際は、体調が思わしくなかったんですね。師匠は半年後に亡くなりました。そのあいだに「寿限無」と「自らことの姓名は、父は元京の産にして、姓は安藤、名は慶三、字を五光。母は千代女と申せしが…」という延々と長い台詞のある「たらちね」という噺は覚えたんですよ。家の法事があったときに、親戚の前でその落語をやったらウケて3000円をもらったんです。人を笑わせてお金をもらえるんだと思ったできごとでした。
──その後は林家正蔵師匠(八代目、後の林家彦六)に弟子入りされていますね。どういった経緯があったのでしょうか?
木久扇 清水先生のところに帰って漫画の世界に戻ってもよかったんですが、もうちょっとやってみようと思ったんです。師匠が亡くなり葬儀が済んだ後に、柳家小さん(五代目)師匠と桂文楽(八代目)師匠がやってきて、弟子たちに「誰のところに行きたいか?」と聞いてこられた。僕は見習いで、寄席にも出ていないから、どの師匠がどういう性格なのか、どんな噺家なのかほとんど知らないんですよ。
けれども、僕はそのときに「林家正蔵師匠」と答えたんです。正蔵師匠は、三木助師匠がいよいよ明日、明後日っていう体になったときにお見舞いに見えた際に、3万円を包んだ小さいポチ袋を「女将さんこれ」と言って差し出されたんです。後で女将さんは、「果物や缶詰ばかりいただいてもしょうがない。これが一番ありがたいのよ」と言っていたのを覚えていたんです。すごく誠実な師匠だなと覚えていたんですね。
ただ、女将さんや他の兄弟子たちからは後でひどく怒られました。落語の世界にも派閥があるんですよね。三木助、文楽、小さんというのは一門で、林家はまた別の一派なんです。百貨店で喩えれば、伊勢丹と三越みたいなものです。「あんた、目の前に来ている文楽師匠や小さん師匠の名前をなんで出さないのよ」と。それでも文楽師匠が話を通して下さって、正蔵師匠に弟子入りすることになったんです。正蔵師匠のところは、小さい子どもさんもいないから子守もしなくて済んだし、三畳と六畳の狭い長家でしたからお掃除も簡単でいいやなんて思っていました。
「馬鹿野郎! 早く食わねぇからだ!」
──木久扇師匠には林家正蔵師匠との日々のやり取りを新作落語にした「彦六伝」がありますね。
木久扇 正月になると鏡餅をお供えしますよね。鏡開きのときに食べるわけだけど、カビだらけだったんです。それで「餅にはなんでこんなにカビが生えるんでしょうか」って聞くと、(正蔵師匠の口調を真似て)「馬鹿野郎! 早く食わねぇからだ!」って。
──(笑)
木久扇 師匠との日常にはこういう逸話がたくさんあって、それを新作落語にまとめたのが「彦六伝」なんです。すぐにカッとなる人で「馬鹿野郎!」が口癖でした。弟子たちが失敗するたびに「破門だ!」って。僕も何度、破門されたかわかりません。翌日は何事もなかったようになっているんですけどね(笑)。
師匠はとても律儀な方で、昭和55(1980)年に先代の林家三平師匠がお亡くなりになったあと、一代限りの約束で名乗っていた八代目正蔵の名前を海老名家にお返ししたんです。「死ぬまで使っていい」という約束だったから、あわてて返すことはなかったんですけどね。それで亡くなるまでの最後の1年は「彦六」と改名していました。
今は三平師匠のご長男──こぶ平の名前でも知られていましたよね──が九代目「林家正蔵」を受け継いでいます。襲名したときは三平師匠の惣領弟子の林家こん平師匠が病気をされていたこともあって、僕が代わりに口上でお手伝いさせていただきました。
僕は自分の人生を振り返ると、正蔵師匠にお世話になるようになったときに運がドンと変わった感じがしているんですよ。お芝居に喩えると、乳業会社の社員から漫画家になって4年経ったらいつの間に落語家になっていた。落語家になったと思ったら、三木助師匠が亡くなって正蔵師匠のところへ行くことになる。ここまでが第一幕という感じですね。
「笑点」のレギュラーメンバーに
──第2幕は「笑点」のレギュラーメンバーとなって国民的な人気者になるところからですね。
木久扇 「笑点」には、立川談志さんに気に入られてレギュラーになったんです。僕が前座で働いていたときに、夏の日に「暑い、暑い」と言いながら談志さんが楽屋に入ってきて、「一席やったから風呂にでも行くか」って言ったんですよ。上野の下町のお風呂屋は3時から始まるんですね。僕は、昼席がはねてから帰りにお風呂に行く習慣があったから、石鹸箱とタオルと剃刀をいつも持っていました。「談志さんこれ」って僕がそれを差し出したんです。そうしたら談志さんが目をみはって、「お前なんだこれ?」「いつもお風呂行くんで、自分の分があるんです」「驚いたな。こういうやつは知らねえや。へえー驚いた」って。信長の草履温めて出した日吉丸じゃないけど、それで気に入られたんです。
寄席で高座返しという前座の仕事があって、次の演者が上がる前に座布団をひっくり返して演者の名前を書いた紙の札を返すんです。談志さんが高座に上がるときは、高座返しの役割は僕で、「おい、木久蔵いるか」っていつも呼ぶんですね。そんなこともあって「笑点」に僕が引っ張られたわけです。
「笑点」は、全体が長屋の設定になっているんですよ。司会者が大家さんで、他のメンバーは長屋の店子の関係になっています。それぞれ役割があって、田舎から出てきた権助の役はこん平さん、小言幸兵衛の隠居が歌丸さん、キザな若旦那は小圓遊さん。大喜利ではそういう役に沿った答えを求めていたんです。この演出を考えたのが談志さんです。いい答えには座布団をあげたり、悪いと取ったりするルールも談志さんの発案でした。
談志さんは、「木久蔵は与太郎だよ。その線で行ってみな」って。落語に登場する与太郎は、間が抜けていて失敗ばかりしているおバカなキャラクターです。今もそれをずっと続けているわけだけど、与太郎をやり続けて良かったですね。嫌だと思ったことは一度もないんです。それにおバカは、とっても得なんですよ。大喜利で手をあげて指されてから「なんだっけ?」と問題を忘れちゃっても、木久蔵だからしょうがないって許される(笑)。流れと関係なく「いやん、ばかーん」なんて歌い出したりもできる。バカという看板は、僕に自由を与えてくれたんですよ。
「笑点」は開始当初にいっぺんコケている
──今年の3月をもって「笑点」から勇退されることを表明されています。約55年にわたって人気番組であり続けたというのはあらためてすごいことです。
木久扇 「笑点」は開始当初にいっぺんコケたんですよ。始まったときは、まだカラーじゃなくて白黒放送でした。元々、日曜日の5時台は人があまりテレビを観ない時間帯なんです。晩御飯の支度やなんかをしていますからね。日本テレビはその時間帯を開拓しようと、番組を大事にしていたんです。視聴率をよくしようと、談志さんはブラックユーモア路線で行こうと提案されたんです。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」っていうのありますよね。そういう感じのひねりのある、いわゆる冷笑というやつですね。談志さんは、「新しいからウケる。みんなでやろう」と提案したんです。後にビートたけしがやり始めて人気が出ますが、あれは談志さんからなんです。けれども円楽さん、歌丸さん、小圓遊さんはそれに反発したんですね。日曜日の夕方にやるのだから、みんなに笑ってもらえるわかりやすい笑いのほうがいいと。
それで談志さんだけが残ってメンバーを変えたら、視聴率が一桁になっちゃって、それで日本テレビが慌ててメンバーを組み替えた。司会も談志さんから当時人気のあった前田武彦さんがやることになりました。前のメンバーがみんな戻ってきて、この時に僕だけがレギュラー入りしました。