世間はみんなを普通の人にしようとする

──有名になるのはどういう気分ですか。

木久扇 街を歩いていても、「あれ、木久蔵さんよ」という声が聞こえてくる。最初は落ち着かないものだけど、名前が売れるのは仕事が来ることですからね。「笑点」のおかげで「入金」が増えたのは事実ですから。やっぱり清水崑先生の「漫画と落語家をやったら儲かるよ」という見立ては正しかった。

 ただ、僕は落語家になっても漫画を描いていました。読売新聞は、近藤日出造さんや塩田英二郎さんが漫画の連載をやってらしたんですけど、僕は小さいカットを描かせてもらっていました。文化部の部長さんが落語好きな人で、おもしろがって使ってくれたんですよ。予備校の参考書の絵なんかも描いていました。1枚3000円くらいの画料でやっていたんです。けっこういいアルバイトになっていました。NHKの「日本の話芸」のオープニングの絵は、僕が30年ぐらい描いていたんですよ。

 漫画と落語の両方をやっていて得したこともあると思っています。一発ギャグは、漫画を描いているときにフレーズがパッと浮かぶことがあるんですね。これは他の落語家にはできない。僕の強みですね。

──最近では芸能人にスキャンダルがあったりすると、SNSで過剰な批難を受けることがあります。

木久扇 世間のおかしいのがね、みんなを普通の人にしちゃおうとするんです。昨年は市川猿之助さんの事件がありました。僕も彼のお芝居を観たことがありますが、女形も立役も上手で、溌剌としていて、いいなと思っていました。いろいろな役ができる人はね、化け物なんですよ。しかも、それを大勢の人の前でやるわけです。それができる人と普通にお勤めしている人を、同じようにとらえても仕方がないと思うんです。

 もちろん人間はみんな平等というのは基本だけど、才能というものは、みんな違っていて同じではないんです。それができる人は世間から責められることがあっても、「それが何だ」っていうくらいの反発心があってもいいんじゃないですかね。そう思うんですが、やっぱりネットのSNSで集中砲火を浴びたりするのはツラいことではありますよね。

 

「全国ラーメン党」を結党

──木久扇師匠は漫画家、落語家に加えて実業家でもあります。「木久蔵ラーメン」誕生の経緯をお聞かせ願います。

木久扇 僕は食品科を出ていたから、同級生はみんな食品関係の仕事をしているんですよ。製菓やハム製造、製粉会社なんかですね。クラス会があったときに一杯やったあとにラーメン屋にみんなで行ったんです。「これさ、人がやっているところで『うまい』と言って金払って食ってないで、自分たちで店やったほうが儲かるんじゃねえか。スープ屋がいるし、粉屋がいるし」という話になったんですね。「お前はテレビで宣伝係をやってくれればいい」と。

 たまたま横浜で喫茶店をやっている友人がいたんですね。「カップルがお店に来て、お代わりもしないで2時間も長居されてちっとも儲からない」と言うんで、居抜きでそのお店をラーメン屋にしたんです。

 同時に、昭和57年には「全国ラーメン党」を結党しました。僕が会長で、副会長が横山やすしさんです。前の年に『なるほど・ザ・ラーメン』という本を出版したんだけど、ページが余ったからそこに「全国ラーメン党結成! 党員募集。」と書いたんですよ。そうしたら、入党申し込みが560通も来たんです。成り行きで「全国ラーメン党」という機関紙も発行しました。「全国ラーメン党 決起大会迫る! 5月1日のメーデーは麺デーだ」なんていう記事を書いたら、メディアから取材も殺到する大盛り上がりで引っ込みがつかなくなった(笑)。

 こうしてノリと勢いで始まったんですけど、全国ラーメン党が盛り上がったおかげで、自分好みの味に仕上げた木久蔵ラーメンをつくって販売することができたし、店舗の拡大にも貢献してくれました。一番多いときは27軒までチェーン店が増えたんです。

 

田中角栄に直談判

──中国でラーメン屋を出店するために、田中角栄さんに相談して便宜を図ってもらったという話は実話なんですか?

木久扇 本当なんですよ。全国ラーメン党の党大会で、麺類の母なる国である中国の首都、北京にラーメン店を出店しようと盛り上がったんです。「日中友好はラーメンの割り箸から、割れば二本(日本)折ればペキン(北京)」というキャッチフレーズも考えたんです(笑)。

 そこで、日中国交正常化を実現させた田中角栄さんに中国との橋渡しをお願いしようと考えたんです。もちろんツテがあるわけじゃないから、番号を調べて直接電話したんです。最初はまったく取り合ってくれなかったけど、第一秘書をされていた側近の早坂茂三さんが「笑点」のファンということもあって、「2、3分なら面会してもいい」ということになったんです。昭和60年2月7日のことです。やっと訪問ができました。そして、田中邸の応接室へ案内されました。

 

(田中角栄の物真似で)「要件は簡略に!」

 「全国ラーメン党の林家木久蔵と申します。日中国交正常化を果たされた田中先生にお願いに上がったのは、中国残留孤児を救ってくださった中国人民の方々への恩返しの気持ちを込めて、彼の地に日本のラーメン店を開きたく、つきましては中国の食品関係の窓口の方をご紹介いただけないかと」──。

 角栄先生はじっと聞いていましたが、「私が中国行ったのはね、ラーメン食べに行ったんじゃないの! あの頃は毛沢東がおって、周恩来もおって、台湾を切り捨て、あれだけの大陸をね、認めないわけにいかないでしょう! 私が中国へ行ったのは、日中国交回復のためにいったわけで、ラーメンを食べに行ったんじゃない! 帰れ!」ってたいへんな剣幕で怒りだしたんです。

 

中国に木久蔵ラーメンの支店が?

──ものすごい迫力ですね(笑)

木久扇 普通の人が怒っているわけじゃないですよ。元総理の方ですからね。震え上がるような迫力がありました。3分だった面会時間が40分以上になっちゃって、他の面会の人がいっぱい溜まっちゃった。これは困ったなと思いましたね。

 ただ、僕は年寄り慣れしていたところがあったんですよ。楽屋ではうちの正蔵師匠やなんかを怒らせては、「破門だ!」なんてよく言われていましたからね。こういうときは、ひるんでいてはダメなんです。何か言わなくちゃいけない。

 「申し遅れましたが、我が全国ラーメン党は、全国に 1万人の党員がおります。党員たちの願いです!」と言ったら、田中角栄さんの態度がコロッと変わりました。

 「1万人ということは、 1万票ということでしょう! その1万人は私を応援してくれますか?  そういうことは早く言いたまえ! ものごとは数字でしょ、数字!」と。

 角栄先生はすぐに中国大使館と日中友好協会に電話して下さり、親書も書いて下さった。そして、他のラーメンチェーンの社長など8人で中国に行ったんです。角栄さんの紹介ですから、向こうへ行くと紅旗という黒塗りの高級車が待っていてね。それに分乗して、北京の街を案内してくれたんです。

 中国政府の人が「この辺はラーメン屋にどうだ」と提案してくれるんですけど、東京で言えば銀座や日比谷公園の側のような一等地ばかりなんです。それも1000坪もあるような広大な土地なんです。ホテルを建てるわけじゃないからね。こちらが考えていたのは、10坪、15坪くらいの小さな店舗です。まったく噛み合わない。

 けれども、角栄先生が間に入っちゃっているから断れないんですよ。「日本に帰って党員と相談して、またお返事を持って参ります」なんて、行ったり来たりしました。困りはてていたところに天安門事件(1989年)が起きたんです。そうしたら、日中友好協会から「治安が定かではないから今回の話は棚上げしてくれ」と連絡がありました。「あー良かった」って(笑)。

 

バルセロナでは7000万円の損失

──助かりましたね(笑)。

木久扇 北京への進出は見合わせることになりましたが、スペインのバルセロナに出店して大失敗したことがあります。バルセロナオリンピックが開催される前の平成元年に「カーサ・デ・ボスケ・キク(木久ちゃん館)」っていうラーメン党の店をバルセロナに出店しました。スペイン人のアントニオ・トニーという20歳の青年を雇って、代々木の木久蔵ラーメンのお店で1年間修行させたんです。

 ところが、バルセロナのお店は最初からトラブル続きでした。日本から船便で300個丼を送ったら、港の税関で「この器はやたら分厚いが、あいだに麻薬が入っているんじゃないか」って疑われて、真っ二つにされてしまいました(笑)。それからオープンしてすぐに湾岸戦争(1991年)が始まって、その青年が徴兵されてしまったんです。しょうがないから掃除のおばさんが調理をやることになったんですが、スペイン人で醤油とタレの区別も付かないくらいですから、スープなんか上手につくれるわけがない。

 水道にも予想もしなかった問題があったんです。バルセロナは火山灰地のうえにできている街だから、水道水が薄く白く濁っている硬水なんです。硬水だとラーメンがゆだらないんですよ。仕方ないから、高価な浄水器を探して対応しました。

 こうして何とかオープンに辿り着きますが、その後も何かとたいへんでした。スペインにはシエスタ(昼寝)の習慣があるから、午後のお昼の時間帯はお客さんが来ないし、3人いた従業員も「寝させてくれ」と言ってくる(笑)。スペインはワインが安くて、スペイン人は昼からワインを飲むんですね。だから、ラーメン屋だけどワインを揃えて出さなきゃならないのだけど、私たち外国人が経営するお店だから、政府からアルコール類を出すための許可がなかなか取れないんです。お役所というのは、どこの国も対応が遅いのだけど、スペインは筋金入りでしたね。

 良かったのは最初だけで、次第に客足が遠のいていきました。そもそもスペインの人は猫舌が多いから、熱いものが食べられないんです。だからラーメンはいつものび切ってクタクタになっていました。それではおいしいわけがない。バルセロナでは結局7000万円くらい損しました。

──今でこそ世界各地に日本のラーメンチェーン店が展開していますから、20年くらい早かったですね。

 

ちくわやかまぼこは欧米人に受ける

──新しい商売は考えていらっしゃいますか? これから流行りそうなアイデアがあれば、読者に向けてこっそり教えてください(笑)。

木久扇 ちくわやかまぼこなどの練り製品のおいしさを欧米人にわかってもらったらいいんじゃないかと思いますね。あれはね、ソーセージなんかと似たところがありますよね。まだ気が付いていないけど、だんだんと知られるようになっていけば、すごく売れる気がします。

 今は世界中で和食がブームだし、日本に観光でやってくる外国人たちは、日本人が愛しているカレーライス屋や天ぷら屋に押し寄せていますよね。お持ち帰りですぐに食べられる笹かまや、ちくわの穴にチーズを詰め込んだ練り物は、大発明だと思っています。もっと食べやすく開発したら、欧米で受けるんじゃないかな。

 僕の友人で辛子明太子をチューブに入れて売った人がいるんです。大発明だと思ったんですけど、発売した当初はあまり流行らなかった。

──今ではレストランなどには普及している印象があります。

木久扇 そうなんです。食品は、世の中に受け入れられるまでに時間がかかることもあるから難しいんですよ。

 

小三治をライバルだと思ったことはない

──2007年にはお名前を「木久扇」と改名して、木久蔵の名前は息子さんが継いでいます。お孫さんコタ君も落語に関心があるそうですね。

木久扇 孫はなかなかの利発な子でね、落語を稽古3回ぐらいで覚えちゃうんです。まだ怖さ知らずなのか堂々としていまして、大勢の人を前にしても物怖じしないんですよ。だから舞台度胸があると見ています。

 僕、木久蔵、そして孫が出るとなると3代の落語家が揃うわけだから、お客さんは入ります。だからやらない手はないと思っていますが、落語家にしようとは考えないですね。落語を覚えている少年という立場なんです。僕自身も落語家を60年ずっとやってきましたが、とても不安定な職業で、明日どうなるかわからない。

 昔は娯楽が少なかったから、人の話を聞くことを楽しんでくれました。それで話芸が成り立っていましたが、今は自分が何か楽しいことをやったほうがおもしろいという時代でしょう。昔より娯楽がずっと進んじゃっている。だから、孫を落語家という職業に固定しちゃうのは、かわいそうかなと思っていますね。

──同世代の落語家でライバルだと思っている方はいましたか。

木久扇 僕は落語家として人気が出なかったら、いつでも辞めて漫画を描いていけばいいという腹があったから、同世代の落語家も切磋琢磨するライバルだとは思っていなかったんです。亡くなった人間国宝の柳家小三治(十代目)師匠とは、一緒に前座をやっていました。もちろんうまいんだけど、何か陰気な人だなと思っていましたね(笑)。不思議な縁で仲良くしてくれたけど、本当は人間国宝になる人だとはわからなかったですね。

 僕なんかはすごく軽いから、おもしろいと思えると何でもパッパッと行ってしまうところがありました。だから、落語に専念していたタイプとは違います。文楽や志ん生がどうのこうのという話は、落語の世界には付き物だけど、こちらはそういうことには興味がないんですよ。漫画の好きな人は、手塚治虫をすごい人だと崇め奉る人がいるけど、僕はああいう描き方をマネしたいとは思わない。

 

頭にあったのは「売上」

──古典落語にはあまり関心がないのですか。

木久扇 他の落語家さんは、芸を磨いて「名人」と呼ばれたいという思いで努力していましたよね。みんな貧乏を我慢してね。だんだん歳を取っていくにつれて、うまくなって世間から褒められることを目標にしていました。でも、僕にはそういう古美術みたいな存在になることを目標にしようという気持ちは、まったくなかった。頭のなかにあったのは、この職業の「売上」なんですね(笑)。

 だから、今月は落語の仕事はテレビも含めて10本、漫画は何本描くといった計算をしていました。今はお弟子さんも育ったから、お金もかからなくなりましたけど、弟子たちの食事代だけでもたいへんでした。1日に絶対に3万円は稼がなくちゃって思っていました。どんな手段をとっても、それを達成してきたんです。観光バスやはとバスに乗ってガイドさんと交じって落語をしたり、宴会で謎かけもやりました。それでバス会社にはずいぶん気に入られました。

 とにかく忙しく、あれこれとやってきたけど、私の青春時代はいつも充実していました。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一

 

 

林家木久扇

/落語家、漫画家

はやしや きくおう(本名 豊田洋):1937年東京日本橋生まれ。56年東京都立中野工業高等学校(食品化学科)卒業後、森永乳業を経て、漫画家・清水崑の書生となる。 60年三代目桂三木助に入門。翌年、三木助没後に八代目林家正蔵門下へ移り、林家木久蔵の名を授かる。 69年日本テレビ系「笑点」のレギュラーメンバーとなり、以後55年にわたり出演。 73年林家木久蔵のまま真打昇進。 82年横山やすしらと「全国ラーメン党」を結成。 92年落語協会理事に就任。 2007年、林家木久扇・二代目木久蔵の親子ダブル襲名を行う。10年落語協会理事を退いて相談役に就任。 著書に『バカのすすめ』『林家木久扇 バカの天才まくら集』『イライラしたら豆を買いなさい 人生のトリセツ88のことば』など。戦争より怖いことはない

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