『公研』2018年6月号「めいん・すとりいと」

 

 2018年も折り返し地点を迎えようとしている。明治維新150年をそろそろ聞き飽きた方が多いことだろう。そこで今回は100年前、1918(大正7)年に成立した原敬内閣から政党政治のあゆみを考えてみたい。

 青春の色濃い明治、戦争の記憶に塗られた昭和に挟まれ、大正の存在感は薄い。実際、大正100年(2011)はほとんど顧みられなかった。

 そのなかで別格の輝きを放つのは「大正デモクラシー」だろう。その言葉は、自由にあふれた、豊饒な時代の空気を感じさせる。

 冒頭で気が付かれた方もあるだろう。原内閣は明治維新からちょうど五〇年後に成立した。薩長藩閥と政党の激しいせめぎ合いを経て、ようやく生まれた「初の本格的政党内閣」とされる。いや、本当にそうだろうか。少し分け入ってみよう。

 何が「本格的」なのか。原内閣に先んじた四つの政党内閣はいずれも短命であったり、閣僚を自ら選ぶことができないといった問題を抱えていた。それに対して原内閣は、陸海軍大臣を除くすべての閣僚を原が選定した。与党・立憲政友会は衆議院381議席中164議席を占める堂々たる第一党であった。統制の行き届いた閣員、安定した政府・与党関係。原内閣はこの条件を兼ね備えた初めての「本格的政党内閣」であった。

 しかし、閣僚の顔ぶれを見ると、あることに気がつく。内務大臣、大蔵大臣といった主要閣僚をはじめ、大臣のほとんどが官僚出身なのだ。当の原自身も農商務官僚、外務官僚として頭角を現し、外務次官まで務めた官僚出身政治家であった。

 それは近代日本のやむを得ない産物であった。明治時代、優秀な若者は官僚をめざした。五カ条の誓文はひとびとが夢を実現できる社会を掲げて立身出世の世界観を描き出し、福沢諭吉は学ぶことが道を拓くと説いた。そして、明治憲法は学校階梯の頂点に官僚養成校である帝国大学を置いた。かくして明治期の人材は官に集まった。

 それに次ぐ「大正デモクラシー」は、彼ら官僚エリートを政党へと向かわせた。大学でイギリス流の議院内閣制を理想の政治形態として学んでいた彼らは、理想を実現するためにも、自らの政治生命を伸ばすためにも政党に参加した。

 彼らの才能は政党政治に政策立案能力をもたらした。原内閣は、彼らの知見を持って教育の改善、インフラの整備、国防の充実、産業の奨励に邁進し、第一次世界大戦後の社会変動に叶う国内政策の充実を図った。

 なかでも重視されたのは教育である。大学令によって帝国大学の増設、医科大学・商科大学の開設を行い、早稲田や慶應、明治や法政はこれを機に大学に昇格した。高等学校や実業専門学校も増設されるなど、多額の予算が人材育成に注ぎ込まれた。人材なくして未来は拓けない。原はそのことをよく理解していた。

 後進の育成にも努め、有望な若手の政党人を各省の意思決定ラインに入れて将来の大臣候補として伸ばした。周辺の反対を押し切って皇太子の欧州旅行を実現させ、新時代における立憲的指導者として育成した。

 その原も、自らの後継者は育て得ぬうちに現職のまま凶刃に倒れた。その後、指導者を失った政党政治は迷走する。そして戦後、官僚出身政治家たちの子弟は地盤を継いで二世議員、三世議員となり、各地に王国を形成していく。原はどこかで設計を間違えたのかもしれない。

 閥族打破が叫ばれ、初の本格的政党内閣が生まれてから100年。政党政治は迷走を始めているように思われる──その再生のために、私たちは何をすべきだろうか。慶應義塾大学教授

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