父の会社が倒産する

──ご著作には中学3年生のときにお父様の会社が倒産して生活環境が一気に変わったとありました。お父様はうちひしがれていたのですか?

宇崎 がっくりきた態度は一度も見たことがなかったですね。ただ80歳を過ぎて認知症になったときに、当時の苦しい記憶が蘇ってくることがありました。ある日、夜に実家に帰ったら親父がものすごく険しい顔をして「債権者の人たちに多額のお金を払えてないんだよ」と言い出したことがありました。僕はとっさに「じゃあ払いに行こう」と答えたんですね。親父は「そんなお金どこにあるんだ」と言いますが、このときに機転を利かせて電話帳2冊を風呂敷に包んだんです。「ここに1000万あるから、今から返しに行こう」と親父を車に乗せて外に出ました。それでタバコの自動販売機の横に電話帳を置いておいて、風呂敷だけを持って帰ったんです。「いま全額払ったからね」と言ったら、「ああよかった」とホッとした顔をしていました。

 だから、晩年に至るまでものすごく悔いていたのだと思います。僕としては、役者の勉強もさせてもらったとも思っているし、演じるのはおもしろかったんですよ。

 

「うわー嫁が来た」

──明治大学法学部に進学されます。

宇崎 学生運動が盛んな時代だったから3年生、4年生のときはストで授業をやっていなかったんです。駿河台の坂道のレンガを外して警官隊に投げていましたからね。だから大学にはずっとラッパを吹きに行っていました。中学・高校のブラバンの先輩がそのまま大学の軽音楽部にいたから、ブラバンの先輩がジャズの先輩になった感じですね。先輩・後輩の関係がそのまま大学でも維持されていたから、大学でも先輩の言いなりで活動していました。個性的な人たちばかりだから、それこそ今なら「パワハラだ」とすぐに問題になると思う(笑)。でも楽しい4年間でしたね。

──奥様の阿木燿子さんとも明治の軽音学部で出会ったそうですね。

宇崎 軽音楽クラブにはジャズ、カントリー&ウェスタン、エレキバンドやらいくつもバンドがあって、阿木はそのなかで女子ハワイアンのバンドでスティール・ギターを弾いていたんです。

 初めて彼女がやってきたのを見て、「うわー嫁が来た」って思いました。

──最初の出会いから直感するものがあったわけですね。

宇崎 そうですよ。ただね、小学校のときからそういうところがあって、可愛い転校生の女の子がやってきたりすると誰かれ構わず「嫁になる」と思っていました。つい最近も小学校の同窓会──もう数人しか残っていないのだけど──に行ったら、同級生から「お前あの人のこと好きだっただろう」なんて言われました(笑)。中学・高校時代は男ばっかりだから、女の子に声を掛けるような縁がまったくなかった。だから、阿木が現れたときは本当に輝いて見えましたね。

──今に至るまでお仕事のパートナーでもありますが、奥様の才能に嫉妬するようなことはありませんか。

宇崎 作詞に関しては最初から彼女に依存していましたから、敵わないと思いましたが、嫉妬はないですね。若い頃には自分で詞を書いていましたが、種が尽きちゃうわけです。でも彼女に書いてもらっていたら、種がまったく尽きない。こんな発想もあるのかと本当に驚かされました。だから敵わないという感情はもう超えちゃっていますね。それから、女の人特有の実直さや生真面目さについては本当に尊敬している。何でもきちきちとこなしていくんです。あそこまで到達するにはあと何年かかるか、なんて考えたこともありましたが、すぐに到達のしようがないと諦めました。これはもう人間的なレベルが違うんだ、この人が言ったことは大概正しいというふうに受け止めています。

──お父様には「まともなサラリーマンになる」と伝えていましたが、大学卒業後は音楽プロダクションで働かれていますね。

宇崎 僕が大学4年のときに、姉の旦那さんが音楽プロダクションをつくっていたんです。法政大学の学生時代からうちに通ってきていた人なんだけど、クラブ活動で、米軍基地でバンド演奏をするアルバイトをしていて、そこでベースを弾いていました。

 その義理の兄貴が「音楽出版社をつくるから、うちへ来いよ。楽器もできるし、レコーディングにも興味あるだろう。法律のこともよく知っているよな」と呼んでくれてコネで入ったんです。その義理の兄は「親父にもきちんと挨拶しておいたよ」と。あれだけ何度も音楽は趣味に留めておくように言っていたのに、あっさりと認めてくれた。どういうことなのかよくわからないんだけど、親父も相当の遊び人だったからなんでしょう。

 1973年に27歳で「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」でデビューするまでは、このプロダクションでアイドルみたいな女の子のマネージャーをやったりしていました。このマネージャー時代には、社会のいろいろな場面を見ることになりました。このときの経験で世の中を知ったと言えるかもしれませんね。

 

横須賀と通天閣周辺

──宇崎さんの音楽には、いわゆる社会の裏街道で生きる人たちが出てきたりして、やさぐれた雰囲気がありますね。

宇崎 一つには小さい頃からずっと高倉健さんなんかの任侠映画が好きで、その世界の雰囲気に影響されていたことがあると思う。

 もう一つは、横須賀という街を知ったことも大きかったね。25歳で結婚したときに横浜の阿木燿子の実家に移り住むことになって、彼女の親たちは横須賀に引っ越したんです。それで僕も横須賀に行く機会が増えた。僕は代々木上原で育って下高井戸、世田谷などで暮らしたことがあったけど、横須賀の感触はまったく違っていたんです。

 駅を降りてすぐのところに、ストリップ小屋やパチンコ屋がある。路地を通って、イチコク(第一京浜:国道15号)を越えたらすぐに家でしたが、隣と向かいが鉄工所なんです。昼の間中ドンカンドンカンやっているし、国道には定期便のトラックがガンガン走っていて、道路の轍が波打っている。夜になると右隣の居酒屋が営業を始めて、酔っ払いたちがカラオケを歌い出す。もう一日中、音楽的な感じじゃない雑音が鳴っている街でした。ばい煙もひどいし、すごい環境だなと思ったけど、なんていうんだろうな、こんな街があるんだって新鮮に感じられて、だんだん愛おしくなってきたんですね。

──働いている人たちの活気と、息抜きのための騒々しさが混然となっている。

宇崎 そう。朝6時ぐらいになると、ツナギを着た工員の方たちが、家の前の路地をザクザクッと音が聞こえるような行列で歩いていくんですよ。僕はその頃、昼の12時ぐらいに起きていましたから、どうしたらああやってまともに働けるのだろうなんて思っていました。

 その一方で、裏街道を歩いている人たちへの妙な愛着もあった。彼らはどこにいるんだろうといつも思っていて、街でそういう人たちを発見すると凝視しちゃうこともあった。普段は声までは掛けないけど、川崎で立ちんぼの人に「写真を撮っていいですか?」と話しかけたことがありました。僕はずっとカメラにハマっていたからね。そうしたら「タダで撮っていいと思っているのかい」と言われて、「すみません。おいくらお支払いすればよろしいでしょうか」と言ったら、「タバコ持ってる? タバコ1本でいいよ」と。タバコを吸ってもらって、その間にちょっと話をして撮らせてもらいました。「真正面から撮るなよ」とかいろいろな注文を付けるので、「階段を下りていく後ろ姿を撮らせてもらいます」と言って撮りました。カメラで撮影することをきっかけにして、裏街道で働いている人たちを取材したいという気持ちがあったのだと思います。

──なんだかカッコいいですね。

宇崎 あの場面は今でもよく覚えている。それから大阪に滞在したことも強烈な経験でした。ちょうど大阪万博の前の年だったと思うけど、マネージャーをやっていた頃に大阪の通天閣の下のドヤ街に半月ぐらい居たことがあるんです。社長から「京都に行って支払われていないギャラを取り立ててこい!」と命じられて、もう一人のマネージャーと車で京都まで行ったんです。このときに「小切手を回収したら、まっすぐ帰ってこなくていいから、大阪に行っていいバンドを探してこい」と。けれども、ビジネスホテルに泊まるようなお金はないから、通天閣の木賃宿を拠点にしたわけです。

 僕らは通天閣の周辺が、東京で言う山谷のような社会からあぶれた人や罪を犯した人が仕事を求めて集っている場所だという認識がなかったから、何か不思議な街だなと思っていました。まず女の人が一切歩いていない。でも、ここでいろいろな人に会ったんですね。ヤクザやチンピラが集まる射的場やゲームセンターみたいなお店がいくつもあって、カメラを持って行くと、本当にいろいろな人がいておもしろい場面に遭遇するんです。まずはそれを無断で撮っちゃったりする。シャッター音が聞こえるから「いま撮ったな」と睨まれる。僕が素直に「すみません。撮りました」と言うと、「この野郎!」という感じではなくて不思議と「写真をちゃんとよこせよ」という反応をする人が多かった。話をしているうちに、そういう裏街道を歩んでいる人たちも別に根は悪人ばかりではないのだな、と感じることは多かったですね。

 

何かに逆らって生きていた

──奥様は明治大学文学部のお嬢様なわけですが、宇崎さんが不良の世界に巻き込んだのですか?

宇崎 それは全然違いますよ。知り合ってデートするようになったときに、彼女の言葉を聞いては、そんなに大人っぽいこと考えているのか、と感心させられることが多かった。それからマナーや社会常識にも厳しくて、その頃はまだタバコを吸っていて、道端にポイ捨てしたりすると「もう二十歳になったのだから公共心を持っていないとダメなんじゃないですか?」と怒られるわけ。結婚してからも、選挙があると僕は引きずられて行きましたからね、「国民の権利を何だと思っているんですか?」って。そんなことを言うやつは、男女問わず同級生には一人もいなかったからびっくりしましたね。

 けれども、阿木は不良っぽい世界の住人のこともよく見ていて、彼らの気持ちもよくわかるところがあった。「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」自体は、自分以外の若いメンバーのなかには早稲田大学や専修大学に行ったやつもいて、実際は道から外れた連中が集まっていたわけではなかった。けれども、精神はほとんど不良です。完全に何かに逆らって生きていました。彼らは大学を中退しちゃったしね。

 何かと言うと、喧嘩腰なやつらでした。ハイエースに楽器を積んで全国をライブして回っていたときは、日除けのところに木刀がいつも準備してあったんですね。トラックに幅寄せされたり煽られたりすることがあると、木刀を持ち出して「おい! この野郎!」と運転手を脅すとか、そういう世間一般では受け入れられないまともじゃないことも、このバンドのなかでは普通のことだったんですね。そういう連中だったけど、彼らにはミュージシャンになりたいという強い気持ちがあったことは、後になって感じましたけどね。

 そういうところも阿木は見ています。作詞を頼むようになってからも、内容やうらさびれた世界について詳しく説明することはないんです。けれども、僕から聞いた話や自分が見聞きしたことを取り入れて作詞をしていました。仕上がるまではどんな詞が出てくるのか僕は知らないままに、次々と楽曲が生まれていった感じですね。

 夫婦で作詞、作曲の仕事をするようになってからは、多くのミュージシャンや俳優たちとお付き合いするようになりました。俳優では松田優作さん、根津甚八さん、原田芳雄さん、津川雅彦さんなどと共演したけど、彼らは全員がまともじゃないですよ(笑)。もう今の世の中では通用しないでしょうね。僕はお酒を飲まないけど、彼らは長生きしようなんて考えずに朝まで飲み明かすみたいなところがあった。朝まで飲んで、そのまま新幹線に乗って撮影所に行くようなところを見ていました。

 僕も阿木も、そんな付き合いを通じていろいろな影響を受けました。昨年と今年に開いたコンサート「風のオマージュ」では、亡くなった彼らに提供した楽曲たちを、彼らとの思い出を紹介しながら演奏したんです。

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