『公研』2015年7月号 第545回「私の生き方」
鈴木雅明・バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督/チェンバロ・オルガン奏者
「ほらクラゲよ。クラゲ」
──幼少時代を振り返られた時に思い浮かぶ光景をお聞かせ下さい。
鈴木 神戸の垂水に住んでいました。生家にはちょっとした畑と庭があって、庭の先は崖になっていたんです。崖の下には大きな池がありました。この池はもちろんうちのものではないんですが、燦々と陽が照り注ぐ庭と畑、崖っぷちと池が一体になった広々としたイメージが垂水の家にはあります。だけど、後で母に聞いたらそんなに広い場所ではなかったそうです。
それから垂水の海岸ですね。夏になるとよく海で遊びました。母はいたずら好きな人で「ほらクラゲよ。クラゲ」と言って、クラゲを僕にくっつけたものですから本当に刺されてしまった記憶があります。父は昔海軍にいたものですから水泳が得意でした。だから、泳げない人がいるということを理解できないんですよ。それで海でもどこへでも放り込まれました。
その後何度か引越しをして、小学生の頃から神戸の御影に住みました。六甲山付近から流れる住吉川の中腹あたりで、坂が多いんです。よく山で遊びました。当時は道端の溝の水もきれいで沢ガニがいたんですよ。沢ガニをいっぱい獲ってきて、一列に並べて自転車でバーッと走る。そういう悪いことばかりしていました(笑)。友達たちと山にピクニックに行って道に迷って遭難しかけたこともありました。
垂水にも御影にも素晴らしい記憶が残っています。幸せな子ども時代でしたね。
──お父様は戦争に行かれたのですか。
鈴木 呉で特殊潜航艇に乗る予定でしたが、終戦で命拾いしました。海軍はもちろん大変だったと思うけど、僕たち兄弟に対してはいいことばかり言っていました。海軍で覚えたモールス信号や手旗信号を教えてもらいました。入っていたボーイスカウトでは結構大きな顔をしていたんですよ、
手旗ができるとかね。父の兄は陸軍にいました。海軍と陸軍では何もかも作法が違うようで、二人はその違いでよく言い争いをしていました。海軍では社交ダンスなども習ったらしく、楽しそうに話してくれました。父が、軍隊に対していい思い出ばかり言うものだから母はよく、「軍隊なのに、いいことばかり言うんじゃありません」って怒っていましたね。母は強烈な人で、いま思えばたいへんエネルギーの強い人でした。
父のほうが物静かでした。ピアノが好きで好きでピアノとショパンがあれば他は何も要らないという人だったから。母は歌をやっていました。だから二人とも音楽には深く関係がありました。
──音楽のある家庭環境だったのですね。
鈴木 常にありました。父は帰宅すると黙ってピアノを弾き始めるんです。テーマソングがあって、必ずショパンの『ノクターン嬰ヘ長調』を「ティーラリララ……」と弾く。僕も弟もその曲だけは今でも黙っていても弾けます。
母が主催する作曲コンクールもよくやらされました。僕と弟と父が、母が与えた歌詞に曲を付けるんですよ。そして「今日はあなたが1番。あなたは2番。これはダメ」なんて、必ず母が評決を下すんですね。家族でよく合唱もしました。
「カラヤンか梶ヤンか」
──音楽家をめざすことは小さい時から決めていたのですか。
鈴木 音楽の道に進もうなんていうつもりはずっとなくて、医学部に行こうかなんて勝手にイメージしていました。それが高校二年生頃にやっぱり音楽をやるべきだと思うようになったんです。
──何かきっかけがあったのですか。
鈴木 中高一貫の受験校に進学したんですが、高校から入学した我々は音楽なんてやっている暇が全くなかったんですね。それで、音楽に飢え乾いてしまったわけです。ブラスバンド部もありましたが、中学の時のようには熱心に取り組まなかった。とにかく「ああ、もうダメだ」と打ちひしがれていたんです。
僕は神戸大学の附属小学校と中学校に九年間いたんですが、楽しくて夢のような学校でした。ブラスバンド部の顧問の梶山先生のことをみんなは「梶ヤン」と呼んでいました。「カラヤンか梶ヤンか」なんて言ってね。梶ヤンは楽器が足りないとなるとあちこち奔走して、何だか質流れみたいな変な楽器も集めてくれました。それから神戸大学の附属だから、神戸大学のお下がりをもらったりしてね。どこから見つけてくるのかユーフォニアムのような変わった金管楽器も集めてきてくれた。
ブラスバンドではトランペットを吹いていました。中1で最初に担当する3番トランペットなんて「ブブブブブーッ」と同じ音を吹くしかないんだけど、それでもみんなで合わせた時に和音になるでしょう。それが嬉しかった。「アンサンブルというのはこういうことなんだ」と実感しましたね。あのブラスバンドは、いま思えば下手だったけど本当に楽しかった。
中学時代が楽しかったものだから、高校は余計につらく感じました。特に高校から進学するのはつらかったですね。高校から入学してきた50人は別のクラスになるんです。特訓しないと中学から入学した生徒に追いつかないですからね。中学入学組は1年くらい先に進んでいるわけです。それで1日7時間授業がずっと続きました。
僕にとって高校時代は暗黒で思い出したくないぐらいです。だから、あの高校に行かなかったら音楽の道には行かなかったかもしれない。そういう意味では僕は感謝しています(笑)。音楽に飢えていて、何が何でも音楽の世界に戻りたかった。
3年生になるとみんな受験勉強に集中しますが、僕はひとり落ちこぼれて授業なんか一切出なかった。卒業できたのが本当に不思議です。先生たちの温情以外の何物でもありませんね。
──1970年前後は日本でも新しい音楽が流行しましたが、どのように聞こえていましたか?
鈴木 クラシック以外は何も知らなかった。ビートルズすら知らなかったんだから。「グループ・サウンズ」という代物も、本当に苦手でしたね。
──少し遡りますが、12歳から教会でオルガンを演奏されていたそうですね。
鈴木 足踏み式の小さなリード・オルガンです。母の知り合いだった牧師さんが御影の近くの小さな教会に赴任してきたんです。一家で通うことになるんですが、その教会はオルガニストが不在になることがあったので、頼まれて賛美歌の伴奏を弾き始めたんです。
僕は楽譜をたくさん買ってきてバッハを弾こうとしたんだけれど、オルガン曲はペダルがないと弾けないんですよね。そのリード・オルガンにはペダルがないから、「これじゃあ弾けないんだ」とわかってがっかりしました。それでも毎週賛美歌を弾いて、そのオルガンで弾ける曲を夢中になって弾きました。
それで、高校になってから大阪の北浜にあったパレストリーナ・インスティテュート(現・フランダース・センター)に通い始めたんですよ。ロベルト・ヴリーゲンさんというベルギー人の神父さんがいて、オルガンを教えていたんです。ヴリーゲン先生の専門はルネサンス音楽史でしたが、ここではオルガン教室もやっていたんです。パイプオルガンを習ったのはこの時が初めてです。
オルガニストは公僕であり職人
──ピアノではなく、なぜオルガンだったのでしょうか。
鈴木 もちろんピアノもやっていました。母はピアノ教室を開いていましたしね。後には、もちろんピアノ専門の先生に付いて習いました。でも、ピアニストをめざすほどの興味がなかったのか、やりたいとも思わなかった。そのうち教会で弾くようになってオルガンに開眼した、というわけです。
中学、高校生の頃はオルガンきちがいでした。日本語で読めるオルガンに関する資料は全部読んだし、たまたまに手に入れた写真集の類は今でも持っています。
進学に際してヴリーゲン先生に、「オルガンをやりたいんです」と相談しました。でも先生には「日本でオルガンの勉強はできませんよ。やめなさい」と諭されましてね。でも、それは正しかった。日本にはまだパイプオルガンは数えられるほどしかなかったのですからね。「日本で勉強ができる作曲科に行ったらどうですか」とアドバイスを受けて作曲科に進むことにしたんです。
──実物がなければ学ぶことは難しい。
鈴木 神戸のあたりにはほとんどありませんでした。高校生の時に、東京のオルガン巡りを一人でやったことがあるんですよ。大森めぐみ教会や三河島のカトリック教会などにオルガンがあると聞いて実際に見て回りました。
それから三越本店にオルガンがあると聞いて日本橋にも行きました。ところが、館内をいくら歩いてもどこにも見当たらない。受付で「パイプオルガンはどこにあるんですか」と聞いたら、「当方ではそうした商品は取り扱っておりません」って(笑)。でも、絶対にどこかにあるはずなんです。探していたら、本館の吹き抜けの三階あたりのショーウインドーの奥にオルガンの演奏台らしきものを見つけました。カーテンのような飾りで覆われていてどこにもパイプは見えなかったけど、本物のパイプオルガンでした。後で得た知識ですが、アメリカのシアターオルガンと呼ばれる映画館に設置されていたオルガンです。パイプは三、四列しかないけど、ものすごい数のストップでパイプを共用して使うユニット式と呼ばれるスタイルです。みんな電子オルガンだと思っていますが、本当のパイプオルガンなんですよ。今でも日本橋三越にあります。
──オルガンに関してもう少しお伺いします。十九世紀に発達したピアノが個人の感情を表現するのに向いているのに対して、オルガンはそうしたことにはあまり向いていないという見方がありますね。
鈴木 それは音楽の位置づけの違いなんです。そもそもオルガンは、教会のいわば典礼を構成するために発展した楽器です。ですから個人の表現意欲を満たすための楽器とは根本的に違います。
宗派によって多少の違いがありますが、キリスト教の礼拝では音楽が重要な要素になっています。特に賛美歌を伴奏するオルガニストは欠かすことはできないので、専門的に任せられる人を雇うんです。オルガニストはそういう位置づけで仕事をするから「公職」という認識でいます。演奏料ではなく給料をもらうんです。今でも世のオルガニストたちの大半はそのような形で仕事をしていて、ごく例外的な人たちが世界を飛び回って演奏会をしています。それからパイプの構造にもよりますが、オルガニストの姿が見えないことがよくあるんですね。それも手伝ってか公僕であり職人であるという意識を強く持っていることが多い。
ただし、オルガンには、ひとつひとつ別々の個性があってすべて違います。オルガン建築の様式は、街ごとに大きな違いがあるから、日本のお寺巡りのように各国の歴史的な遺産であるオルガンを巡る旅はとても楽しいものになります。
──オルガンはすべて違うとなるとバッハは、ある特定のオルガンで演奏されることを前提にして作曲していたのでしょうか。
鈴木 当然ある種の様式が念頭にあったとは思います。 しかし17世紀くらいからはオルガンの演奏会が行われるようになって、バッハもそのための作品を出版していますから、特定の教会ではなく他の場所でも弾かれることも期待していたのだと思います。実はオルガン曲として残っているバッハの作品のほとんどはそうした演奏会のために出版されたもので、礼拝のためのものはありません。
バッハは三百年後の日本で自分の作品を演奏されていることは想像もしなかっただろうけど、「時代や国を超えて…」といった想いは絶対にあったはずです。ライプツィヒで作ったドイツ語のカンタータも他の地域で使えるようにラテン語に焼き直したりしています。ですから、特定のオルガンをある程度想定して作曲したことはあったかもしれませんが、完全に特定したいとは考えなかったと思うんです。
しかし、当時のフランスの曲をドイツのオルガンで弾こうとしてもほとんど不可能です。逆にドイツの作品をフランスのオルガンで弾くこともできません。十八世紀のバロック音楽は国ごとに大きく発展しました。それぞれに特徴が異なるんです。同じドイツ国内でも北ドイツ、中部ドイツ、南ドイツとではオルガンのタイプは全く違います。これらを取りまぜて弾こうとしても、ほとんど不可能なんです。
今のコンサートホールは、どの時代のどの国の曲でも弾けるように歴史的な特徴を押し殺した中庸のオルガンを入れざるを得ないことが多いのです。そういうオルガンでは決して歴史的な建造様式はなかなかとれません。サントリーホールもNHKホールもそうです。唯一の例外は池袋の東京芸術劇場です。あのパイプオルガンは回転することで有名ですが、三つのオルガンが組み込まれていて、少なくとも三つの別々の様式で演奏できるようになっているんです。だから回転せざるを得ないので、回転させることが目的ではありません。
異なったオルガンのスタイルを持つためには、それに合わせたオルガンのケース、箱が必要なんです。さらに言えば専用の建物も必要です。だからオルガンはとても土着的なんです。それを日本に持ってこようとしても、なかなか難しいわけです。
恩師、鍋島元子さん
──1979年にアムステルダム・スウェーリンク音楽院に留学します。大きな決断だったと思いますが……。
鈴木 行くのが当たり前だと思っていたので、他の選択肢は考えませんでした。当時バロック音楽をやる人にとって、オランダかスイスのバーゼルが重要な場所であるという共通の認識がありました。オランダに行くことは何となく決めていましたが、現実的にはオランダ政府の給費を得ることができたのが大きかった。音楽だけではなく医学や日蘭関係の歴史学など様々な分野でオランダに勉強に行く人がいました。毎年試験を行っていて、ライデン大学やアムステルダム大学などに当時四、五人は行っていました。家内も同時に給付をもらって一緒にオランダに留学したのです。
──奥様とはどのように出会われたのですか。
鈴木 彼女は国立音楽大学で声楽を学んでいました。ある時公開レッスンがあって、そこで出会ったんです。その頃僕はピアノを弾いていたんですが、演奏会で伴奏をしてほしいと頼まれたのがきっかけでした。家内はロマンチックな歌をいっぱい歌っていたけど、出会ってからすぐに僕はピアノを止めてバロック音楽に行っちゃった。だから家内は、「私のことを裏切った」と言っていますけどね(笑)。
──オルガンの本場に日本人が飛び込んで、壁にぶつかったことは?
鈴木 それはありませんでした。東京でチェンバリストの鍋島元子さんに出会っていたことが大きかった。僕は彼女にチェンバロを習っていました。鍋島さんは語学も凄まじく堪能で、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語が流暢に話せたし、ヨーロッパについてよく教育してくれました。彼女に習っていたことは本当に正しかったんだとオランダで再確認できました。
彼女は、僕がチェンバロを師事したトン・コープマンと同僚でした。鍋島さんとコープマンの共通の師匠がグスタフ・レオンハルトです。トン・コープマンがまた素晴らしい人物でした。奔放で自由な精神を持った音楽家です。ちょっと個性が強いから、先生としてよいかどうかはわからないですけどね。息子がオランダで生まれたこともあって、コープマンとは家族ぐるみのおつきあいをするようになりました。息子は未だに1年の半分ぐらいはオランダに住んでいます。
──オルガニストとして生計を立てることには不安もあったのでは?
鈴木 僕はオランダに行く直前に神戸松蔭女子学院大学に仕事をいただいていました。留学した4年間はペンディングしておいて、帰国してから就職したわけです。その後も東京藝大に来ましたから、僕はずっと学校勤めをしてきました。生活は一応安定していたと思います。
ただ、学校勤めは演奏家としての活動を制限することになるので、常にフラストレーションを感じていましたね。学校勤めと演奏活動にどう折り合いをつけるかに悩まされ続けました。五年前に芸大を辞めたんですが、今は自由で嬉しくてしようがないんですよ。
──1990年に「バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)」を創設されますが、この構想はかねてから暖めていたのですか。
鈴木 大阪のいずみホールのオープニング・コンサートをきっかけにしてアンサンブル、「バッハ・コレギウム・ジャパン」が誕生しました。ただ、1983年にオランダから帰国してからの7年間も何らかのプロジェクトをずっとやってきていました。バッハのあるカンタータをやりたいと思えば、そのために必要なバイオリンや歌い手に声を掛けて協力してもらう。それでアンサンブルや合唱団をつくって、いろいろな演奏会をやってきました。音楽をやっている人間は常にそういうことを考えているんですよ。結局は、自分のやりたい曲をどう実現させるのかという試みの連続なんですね。
だからBCJをつくった時も、その後のことなんて何も考えていなかったんですよ。それが1992年に第1回目の定期演奏会をやることになって、今に至るまで年4、5回の定期演奏会が続いているわけです。
実際問題としては、プロジェクトを気に入って主催してくれるところがあるということが大きいですよね。それから当時、文化庁のある助成金システムに申請して百万円だけ援助をもらったんですね。それで喜んで始まったんですよ。もちろん協力してくれる仲間との人間関係も大事です。
不思議なことに自分一人で計画したことはたいがい挫折しています。まだBCJができるずっと前に、モーツァルトのレクイエムの演奏を頼まれたこともありましたが、それも挫折しましたし、以前にベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』を録音しようと計画したことがありましたが、費用の目処がたたないままに時間が過ぎてできなくなった。消えていった企画は大体忘れています。僕は楽天的で、できなかったことや失敗したことは忘れちゃうんですね。だから、自分は失敗したことがないという感覚になる(笑)。でも、これはなかなか重要なことかもしれないなと最近は思うようになりました。
教会カンタータ
──バッハの教会カンタータ・シリーズ全曲演奏・録音(全55巻)の達成はヨーロッパでも偉業として報道されましたが、最初からすべてを録音しようといった覚悟や気迫をお持ちだったのですか。
鈴木 全くありませんでしたね。教会カンタータはバッハが日曜日の礼拝のために毎週1曲ずつ書いたもので、一曲せいぜい15分から20分です。それを淡々と一年中やるというのが、当時の教会音楽家のいわば公僕としての仕事です。ただ、1曲1曲すべて違うから楽しいんですけどね。
僕たちも、同じような感覚で続けられたらいいなと思っていました。正しく毎週日曜日にできるわけじゃなかったけど、一枚一枚やっていく。できなくなってもそれは仕方がないなというつもりでやってきたんです。
そもそも僕は「全曲録音します」なんて1回も言っていないんですよ。勝手にレコード会社が言っただけの話です。僕は最初の一枚目の録音もあまりに短いので、それだけではダメだと思っていたんだけど、「Vol.1」と銘打って彼らが勝手に出しちゃった。それで「1というからには2が来なきゃいけないなあ」「2をやったからには3をやるか」という感じでしたね。
実は4回目の録音はうまくいかなくて丸々没にしました。数百万円の損失をこうむったんだけど、その判断はそれでよかった。だから、うまくいかないものはうまくいかない。その辺りはその都度判断しながら進んでいったわけです。
18年もかかって55枚の教会カンタータを録音したけど、その合間にも『マタイ受難曲』や『ヨハネ受難曲』なども録音しているからトータルで80枚ぐらい録っています。一回やり終える度に、これ以上はもうできないという感覚に襲われました。それでも続けてこられたのは、来年度の計画としてすでに発表しているとか、お金を申請しているとか、そうした止むに止まれぬ強制があったからだと思う。そういう現実的な要素は重要だと僕は思います。完成させなきゃと思っていたらできなかったでしょう。
新聞や雑誌のインタビューで「教会カンタータ・シリーズは完成まであと何年かかるのですか」と質問されるたびに、「あと15年ですね」なんて毎回いい加減な受け答えをしていました。何年間も「あと15年です」と言い続けてきたんですよ。でも、ある時に正しく計画してみようと思って数えたらあと3年ぐらいで完結することがわかった。「あ、もう終わりに近づいているんだ」と知って愕然としたんですね。
2013年2月に最後の55枚目の録音が終わりましたが、その時がちょうどBCJの定期演奏会の第百回目だったんです。
──奇跡的な偶然ですね。
鈴木 これこそ神の意思だって(笑)。僕はキリスト教の信者だからキリスト者として、神の御旨に従って生きてきたと思っています。神の意思なんて言うと宗教的に聞こえるかもしれないけど──実際、宗教的なのですが──突然「これをやりなさい」と啓示があって何かを始めるということではなくて、まわりの状況がふと整って、今まで思いつくことさえなかった可能性が広がる、ということなんですね。
後でそれを振り返ると神様の意思だったと気付く。僕も最初からバッハだけをやりたいなんて思っていたわけではないし、今でもいろいろな音楽に興味はあります。けれども、自分の道筋を振り返った時に後で気づかされることはたくさんありますよね。
何のために演奏するのか
──クラシックの曲を演奏するに際して、当時の楽器を使うべきなのかどうかという論争は長く続いていますが、先生はどのようにお考えでしょうか。
鈴木 僕はバロック時代の楽器を復元して現代に復活させたりいろいろな試みをしています。1995年には東京藝術大学に古楽科を設立しました。バッハならバッハ、メンデルスゾーンならメンデルスゾーン、それぞれの時代で使用した楽器は違いますが、僕は作曲家がイメージしたその時代の楽器を使うのが効果的でうまくいくと思っています。一方でそれも一つのやり方、様式に過ぎないとも思います。
現実的には彼らは録音することはなかったし、演奏する会場だって違います。先日NHKのニューイヤーオペラコンサートに出た時にヘンデルを演奏しましたが、チェンバロのソロを弾いてもNHKホールでは何も聴こえない。「それじゃあPA(音響機器)を入れようか」と工夫するわけですが、当然ヘンデルの時代にPAはないわけです。でも、状況に応じて最も効果的なことをやるべきですから、それは正しいことだと思います。
1829年にメンデルスゾーンがバッハの『マタイ受難曲』を演奏して復活させたと言われていますが、楽器はバッハの時代のものじゃなかった。オーボエ・ダ・カッチャのように忘れ去られた楽器もたくさんあったから、その時代の他の楽器に置き換えて演奏したわけです。
この先何十年か経てばそもそも演奏なんてやめちゃうかもしれないし、録音したもので十分かもしれない。それこそシンセサイザーの演奏のほうが、18世紀の楽器によっぽど近い音が出るかもしれない。
だから、それぞれの時代で人々が最も心地良い、というのかな、広い意味でその音楽のメッセージを正しく感じ取れる手段を選んでいくことだと思います。それは楽器だけの問題じゃないですよ。演奏する人間の心の持ち方、もっと言えば、何のためにその音楽を演奏するのかということですね。自分の技術を見せびらかすためにショーをやるのだったら、それに向いた楽器にするべきだしね。逆に礼拝としてカンタータを演奏するのだったら、それにふさわしいやり方がある。
バッハは新作カンタータを毎週作曲していた
──次にバッハが活動していた十八世紀のドイツの社会とバッハの音楽についてお伺いしていきたいと思います。
バッハは毎週、教会カンタータを作曲し演奏するための準備をしていたことにとても驚きました。バッハのようにカンタータを用意できる人は少ないと思うのですが……。
鈴木 当時、教会のカントール(音楽監督)の立場にいた人は全員がやっていました。バッハよりたくさん曲を書いている人もいます。教会暦は毎年同じものが巡ってくるから同じ曲で済ますこともできたでしょうが、それは自分の評価を落とすことになったのでしょう。
バッハはカントールの立場でライプツィヒの聖トーマス教会に27年間いましたが、毎週作曲していたのは3年ないし4年ぐらいでした。その間に毎年できあがった六十曲あまりをアレンジしながら使っていくことは可能だったのだと思います。
ただし、バッハは怠慢だったわけではありません。他にもたくさんの曲を作曲しています。毎週の任務さえこなせればいいというだけの人ではなかった。
ちなみに毎年、復活祭の前には必ず受難曲を演奏します。息子のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、ハンブルクの教会で音楽監督をしていた20年間に、ぴったり20曲の受難曲を用意しています。そうするとお父さんのバッハのほうは27曲の受難曲があってもよいはずですが、現在我々のところに残っているのは2曲だけです。
──毎週、バッハの新曲が聴けるのは贅沢ですよね。
鈴木 今度の日曜日にはどういう曲を演奏するのかなという興味はあったでしょうね。
オルガニストや歌い手は教会付きの音楽家として雇われていましたが、器楽隊はすべてが教会にくっついていたわけではありません。シュタットパイファーと呼ばれる街の音楽家集団のネットワークがありました。バッハの父もそうした音楽家でバイオリンやラッパを演奏していたんです。例えば「今度はライプツィヒのどこそこの教会でトランペットが三本必要だ」となると、そこから連れてくる。楽譜の貸し借りも行なわれていました。バッハは自作曲の楽譜を貸して、紛失されてしまったという記録もあるんです。いま我々がやっていることと同じですね。もっとも今のように添付ファイルでパート譜を送ったりはできなかったでしょうけどね。
──教会でのカンタータの演奏は今でも行われているのでしょうか。それとも廃れてしまったのですか?
鈴木 もちろん今でもやっていますよ。ドイツの大きな教会では合唱団やオーケストラを雇っているところもたくさんあります。そしてカントールが毎週の音楽を必ず準備しています。
──バッハのように新作のカンタータを披露されている方もいるのですか?
鈴木 さすがに毎週は難しいとは思いますが、音楽監督が自作を礼拝で演奏することは、それほど珍しいことではありません。
18世紀後半ないし19世紀になってくると、教会の典礼の中で自分の楽曲を提供するだけでは物足りなくなったのでしょう。自分自身の心を表現したいという欲求が次第に強くなって、ロマン派の作曲家の全盛時代になっていく。音楽の目的がそこで変化したわけです。でも、シューマンやブラームスやメンデルスゾーンが活躍していた、同じ時代の同じ街の教会では一貫して礼拝が行なわれていて、そのための音楽がずっとそこにあったわけです。
音楽の中心
──バッハの音楽を聴いている時間は、映画の中のワンシーンのように感じることがあります。バッハには他の音楽にはない独特な何かがある。
鈴木 バッハの音楽はどこを切り取ってもバッハにしか聴こえないんですよね。僕は、バッハの音楽を聴くと気持ちがシャキッとするし、元気になるんですよ。
また、バッハはありとあらゆる音楽と比較することで思索が深まる存在でもあります。ストラヴィンスキーやベートーヴェンを演奏してから、バッハに戻ってみると、「やっぱりバッハはベートーヴェンやストラヴィンスキーと同じぐらい個性があるな」と思います。それから「ここの旋律はこういうふうにしたほうがいい」とか、今まで考えなかった表情が見えることもあります。
僕にとってやはりバッハが音楽の中心にいます。バッハにはバッハ登場以前の音楽史の要素が流れ込んでいるという意味では統括的な音楽でもあるし、その後の作曲家に対してもバッハの影響を受けなかった人はほとんどいないだろうと思えます。例えばマーラーにもバッハの影響を感じるところがあります。
もちろん、モーツァルトやベートーヴェンも後の人に絶大なる影響を及ぼしていますが、僕はバッハのほうが根源的なところで影響を与えている気がしてならないんですよ。ベートーヴェンは形式や響きなど、音楽的に直接的に指摘できるような点で後世への影響を感じますが、バッハはちょっとした旋律の組み合わせや、その論理性で影響を与えている気がしてならないんです。
そうしたバッハ的な要素は、いろいろな音楽のジャンルに溶け込むところがあって、現代音楽やポップスやロックでバッハをアレンジして演奏してみても違和感がない。
バッハの音楽はレンガ造り
──電話の保留音のようなチープな音で鳴っていてもしっくりくるところがありますね。
鈴木 バッハの音楽は、隅々まで意味が込められているんですよ。どのような小さな音型にも、必ず音楽的な意味が宿っているんですね。例えば『マタイ受難曲』の冒頭部分は、オーケストラが複雑な旋律を組み合わせて演奏しますが、例えばその中のオーボエの二番だけ、あるいはヴィオラだけを見ても、そこに特別な意味が込められていて、十分に楽しめる。
全体として聴くとそんな旋律はあまり聴こえてはいないかもしれないんです。けれども、その旋律を弾いている人はそこにきちんと意味を込めて弾くことができる。なぜならば、それが対位法的な音楽だからです。対位法というのは、全部の旋律が対等な重みを持って書かれる音楽なんです。
『G線上のアリア』という有名な曲がありますよね。あの曲の伴奏は本当はオーケストラのアリアと呼ばれる緩徐楽章なんですが、ファースト・ヴァイオリンの旋律ばかりが有名になっています。でも、試しにファースト・ヴァイオリンを外してセカンド・ヴァイオリン、ヴィオラ、一番下のコンティヌオ(通奏低音)のパートだけを聴いても実に美しいんです。
ヴェネツィアのサンマルコ教会は、壁の隅々まで細かなモザイクで埋め尽くされているでしょう。それに対して現代のモダニズムの建物は、例えばペンキなんかで画一的に塗り潰されていることもありますよね。もちろん、モザイクで埋め尽くしたらそのスタイルにならないわけだから、それが間違いだとは言わないけど、そうしたスタイルの違いがあるわけです。
──バッハの音楽は隅々までいろいろな模様がある。
鈴木 そうなんです。つまり、レンガ造りの建物なんですよ。10キロ先からでもその美しく大きなカテドラルが見える。一歩一歩近づいていくごとに新しい形が見えてきて、最後に壁の目の前に来た時に、レンガが一つひとつ積み重なっていることに気が付きます。そして、そのレンガの模様はそれぞれすべて違うわけです。そのようにレイヤー(重ね合わせ)が無限にある。無限が一となり、一が無限だ、ということなんです。
メッセージは細部に宿っている
──我が家の車に搭載されているCDプレイヤーは最後まで聴くとまた一曲目に戻って再生されるのですが、バッハを流していると終わったことに気付かないことがよくあります。
鈴木 ああ、仰っている意味はよくわかります。いかにも、という終わりらしい終わりがないのですよね。
──バッハ以降のチャイコフスキーやベートーヴェンは「終わり」が強調される傾向がありますね。
鈴木 全体で一つの完結したストーリーを作ろうとするところがありますね。起、承、転、結のように展開していって、最後は何が何でも盛り上がって終わりに導く。結局、「起」「承」「転」「結」というのは言ってみればソナタ形式です。だからソナタ形式を敷衍していくとそういう形になる。
その点バッハはやはりレンガ造りです。一個一個の要素が積み重ねられていて、その一つひとつの中に起承転結があるわけです。全体としての起承転結を求めるよりも、一個一個の旋律の起伏を重視している。もちろん、最後はそれなりのバランスをもって終わるようになっていますが、終わりを強調したりはしない。
レンガ造りの壁はそれだけを見ていたら、どこで終わるかわからないわけでしょう。次から次へと同じようなものがつながっているように見える。それでいて実際は違うものがつながっているわけです。それが対位法的な音楽の原理なんですね。
実際にはバッハの曲もコラールやテキストが正しく全うされていて、何がしかのミッションが一つひとつ終了しているんです。けれども、そのミッションは我々の前に大きな一つの絵として提示するものではないんです。もっと細かいものの積み重ね。言うなれば、もっとも重要なメッセージは、細部に宿っているわけなんですね。
この世ならぬ時間
──バッハの死生観についてどう思われますか。バッハは死を恐れていたでしょうか。
鈴木 もちろん死は恐ろしかったし、悲しかったと思います。バッハには20人の子どもがいましたが、成人したのは5、6人で、半分以上は早くに亡くなっています。平均寿命は今よりずっと短いし、死が身近だったと思います。
そういう中で、どうやってその悲しみを乗り越えるか。あるいはどうやってそれを受け入れるのか。結局、聖書が言うように、死んだ後にどうなるかを明瞭にイメージすることが最も確かな希望なんですね。宗教というのは、基本的に死んだ後どうなるかを教えるためのものだと僕は思います。その点さえ除けば、人間は幸福でいられるんですよ。
バッハ自身がどう感じていたのかはわかりませんが、少なくとも作品では、「天国に行くとこんなにすばらしい」「この世は終わるものだ。人間は生まれたからには死ぬんですよ」ということを何度も繰り返し言っているわけです。
バッハは天国へ行けない恐ろしさについて『永遠という恐ろしい言葉』というカンタータで表しています。なぜ永遠が恐ろしいのかと言うと、天国に行かずに地獄に行った場合、その地獄の火が永遠に続くからです。バッハは、その「この世ならぬ時間」を音楽でも感じられるように表現しています。「永遠」といった言葉が出てきたら、ものすごい長い音符を使うんです。トランペットであれ、オーボエであれ、歌であれ、「タンターーーーーーーーーーン」と息が続く限り続ける。「永遠」という単語をただ言うだけではなくて、「ああ、とても大変な長い音符だったな」と実感させる工夫をしています。
──今後の展望についてお聞かせ下さい。
鈴木 バッハ以外に、次はこの人をフィーチャーして全曲やりますというような存在はいません。僕は教会カンタータのシリーズが始まる前からずっとバッハをやっていて、終わった後もバッハをやっていきます。今はバッハの世俗カンタータのシリーズをやっているんですよ。その合間に別のものもやっていきます。バッハ・コレギウム・ジャパンのアンサンブルに関して言えば、ずっと前から始まっていることではありますが、合唱とオーケストラでキリスト教の音楽の歴史を辿ることに根本的な興味があるので、先日モーツァルトの『レクイエム』を録音して発表しましたが、今年は『ハ短調ミサ曲』をやります。
でも、その合間にも必ず戻ってくるところは、結局バッハのカンタータなんですね。それは僕の一つのレーゾンデートルであり、僕にとってはそれが日常ですからね。
──ありがとうございました。聞き手 本誌・橋本淳一