役者としての宇崎竜童

──俳優としても長く活躍されています。ご自身は俳優としての宇崎竜童をどのように見ていらっしゃいますか?

宇崎 プロの役者さんは役づくりをするじゃないですか。台詞の一つひとつに対して、目つきや表情まで考えがちです。でも僕は何も考えないでいくんですよ。もちろん台詞だけは覚えていきます。監督が「ここで間を取る」とか、「ここで5歩歩いてそこで振り返って喋る」とか指示された通りにやっているんです。

 だから、要求されたことができる身体でいないとダメなんですよ。あるとき「そこで子分の足を蹴り上げて」と指示されたのだけど、監督が絶望的な顔をして「蹴り方が遅い」って言うんですよ。普通の役者は急にアクションをやることになっても、難なくこなします。皆さんちゃんと鍛えていますからね。

 蹴り上げる演技をしたときは、結局10回ぐらいやらされました。そういうことがあると相手の役者さんやスタッフたちを待たせることになる。それが嫌だから、求められる演技がすぐにできるように身体を鍛えておくようにしている。いろいろな映画やドラマに役者として出演させてもらっているけど、僕が心掛けていることはそれだけです。

──運動するのが大嫌いだともどこかで読みましたが?

宇崎 今でも運動は大っ嫌いで、放っておいたらゴロゴロしています。でも1年ぐらい前から、身体を使う役を演じることやコンサートがあることがわかっているので、それに向けて仕方なしにジムに通ってバーベルを上げたり、スクワットしたり、腕立て伏せをしたりしています。

 中華料理屋の親父の役をやったときは、本物の中華の料理人にレバニラ炒めのつくり方を教わりに行きました。中華鍋を振れなければ芝居にならないけど、それには体力が要りますからね。その役を演じるための準備はやっぱり必要になる。そんなふうにして、芝居を通じて新しいことを学ぶのも楽しいと思うようになりましたね。

大人たちの感性に取り込まれないための工夫

──亀渕昭信さんとの対談のなかで、アマチュア時代にライブでは勢いがあったバンドが、いざレコード会社と契約してレコーディングすると、途端におもしろさがなくなってしまう、とおっしゃっていました。この背景には何があるのでしょうか?

宇崎 結局はビジネスがそうさせるんじゃないですか。ミュージシャンが表現したい音楽と、プロダクションの思惑が一致しないことは往々にしてあることです。特に大きなプロダクションやレコード会社に入ると、周囲の大人たち──大人と言っても4、5歳しか違わないのだけどね──が自分たちの音楽に対していろいろな注文をしてくる。大人たちは絶対に「こういうのをつくれ」とか「こういう売り方をする」と言い出すようになっていく。それに素直に従っていると、大人たちの感性に取り込まれてしまって、持ち味も失われてしまう。

 そうならないためにも、自分たちは「業界にヨシヨシと撫でられるようなバンドになる必要はないからな」とメンバーたちにも言っていて、プロダクションやレコード会社に対しても突っ張っていたわけです。それも次第に面倒になって、結局は自分たちでプロダクションをつくることになったんです。

──きたやまおさむさんにお話を伺ったときも、デビューしてすぐに大人たちに嫌気が差したと仰っていました。

宇崎 ザ・フォーク・クルセダーズは『イムジン河』がレコード発売禁止になる憂き目に遭っていたけど、僕らはファーストアルバムに収録した『網走番外地』と『ちゅうちゅうタコかいな』という2曲が「公序良俗に反する」とか言われて、発売禁止になったんです。僕もメンバーも「甘っちょろい歌を歌ってらんねえよな」という気持ちでつくったのだけど、そういう態度そのものも目を付けられる要素だったのだと思う。

 学者さんや文学者などのいわゆるインテリゲンチャの集まりがあって、発売されようとしているレコードの歌詞を見ては、世の中に発表するべきではないといった判断をしているみたいですね。別に法律的な根拠があったわけではないけど、レコード会社は発売するのを自粛しようかと判断することになる。

──LPの曲の歌詞まで細かくチェックされているんですね。

宇崎 そう。僕らはファーストアルバムがそれだったものだから、セカンドもサードもずっとチェックされることになった。それも歌詞だけを細かく見るんです。文章を発表しているのではなくて、メロディに歌詞を乗せて歌っているのに、歌詞のことだけを取り上げて、ああだこうだと言ってくる。それに売れたレコードの枚数だけで、すべてを判断しようとするところがあったから、所属していた東芝レコードを1980年に辞めることになったんです。

──今は「CDを見たことがない」という世代が出てきていて、ネットを通じて聴くのが主流になっていますから、音楽業も様変わりですね。

宇崎 昔のディレクターやレコード会社の人たちは、魅力的なアーティストやバンドを探し出すことに一生懸命だったよね。その才能を時間を掛けて育てて、売り出すことにおもしろさを感じていたのだと思う。だから、彼らはいつでもスカウトを心掛けて街を歩いていたんです。街で「ゆず」みたいな才能を発見したら「レコーディングしてみないか」と声を掛ける。そういう話を聞かなくなったよね。「ゆず」が最後のストリートミュージシャンなんじゃないかな。

 今YouTubeやネットで音楽を発表している連中のなかには、「別に有名になりたいわけじゃない」とか「テレビなんか出なくていい」とかほざく人もいるじゃないですか。ただ音楽を発表して、それで自己満足できるのかもしれないけど、あの感性は僕らにはわからない。

 僕が若い頃に出会った人たちは、みんなが何とかして一生の職業にしていきたいという気持ちを持っていました。アイドルのオーディションを受けに行った子たちも必死で、根性が違っていたよね。でも、今ネットで音楽を配信しているだけの人たちは、飽きたらそれで辞めるのだろうなと思います。

 今のレコード会社には、そういう新しい感性を引きずり込む力がもうなくなっているよね。僕は今どこにも所属していないので、もう第三者として業界を見ているけど、そういう今の状況は少し寂しくも思いますね。

「俺は100歳まで曲を書くからな」

──まだまだ若いですが、老いを意識することはありますか?

宇崎 冒頭でも話したけど、昨年二つの病気を乗り越えたこともあって、歳を意識することは確かに増えました。今年になってから知り合いにバースデーメールを送るときには、例えば相手がラッパ吹きだったら「お前100歳までラッパ吹けよ、この野郎。俺は100歳まで曲を書くからな」と書くようにしています。そうやってあちこちに、100歳まで生きることを宣言しているんですよ。それも絶対に寝たきりにはならないと自分で決めていて、そのための鍛錬も続けているんです。

 例えば、老いのせいか足のつま先が階段に当たるようになってきたんですね。それを改善するためにはどこの筋肉を鍛えたらいいのか、ジムのトレーナーに教えてもらいながら筋トレをするようになったんです。それを1年間続けたら、階段につま先が当たることはなくなったんです。

 それから夫婦で公園まで散歩することを習慣にしているんですよ。阿木から「毎日1万歩あるくことにした。あなたもやらない?」と誘われたんですね。公園に着くと芝生にシートを敷いて、靴を脱いでそこで裸足になって20分間くらい日向ぼっこをして、大地からエネルギーをもらうんですね。彼女がやっていることを僕は真似してやっています。

──今年4月の「風のオマージュ」でも、公演の最後に阿木燿子さんが挨拶されていましたが、あまりの若さに驚きました。観客は神々しい美しさを感じたのではないかと思います。

宇崎 僕はよく知らないけど、本人も美容には気を遣っていて、いろいろな努力をしているみたいです。確かに普段喋っていても、シワがずいぶん少ないなと思いますね。それに感性が年寄りじゃない。たぶん僕の3倍ぐらいエネルギーがあって、そのおこぼれを頂戴しながら僕は生きているという感じですね。

──阿木さんはお料理も得意だそうですね。

宇崎 定番料理というのがなくて、すべてが創作料理なんです。冷蔵庫を開けて、食材をパパッと見て、サッと拾い上げると、2、3分考えて何をつくるか決めるみたいです。僕も料理を手伝うことがあります。中華料理の親父役をやったときに炒めものばかりやっていたから、野菜を炒めるのはうまいんですよ(笑)。いつもメインが一皿、小鉢の料理がだいたい4品ぐらい出る。それから大きな食器にサラダを盛り付ける。パッと見て、全部で20種類ぐらいの野菜を使っている感じです。

──若さの秘訣は毎日のこの創作料理にあるのかもしれませんね。

10月11日(水)には「宇崎竜童デビュー50周年メモリアルコンサート Thank you for the music~Our history again~」が開催されます。デビュー50周年と喜寿が重なる特別なライブ、どのようなステージを構想されているのですか?

宇崎 全体の構想は阿木が考えてくれました。僕がやってきた「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」「竜童組」、それから井上堯之さんとやっていた「RUコネクション」の三つのチームを中心にして、発売したレコードから楽曲をピックアップしたプログラムになっています。だから、それぞれ音色が全然違うんですよ。いつも一緒にやっているミュージシャンたちとやりますが、普段よりも楽器を足さないといけないでしょう。僕が歩んできた歴史を振り返るような一夜になるのだと思います。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一

うざき りゅうどう:1946年京都生まれ、東京育ち。明治大学法学部卒。中高はブラスバンド部、大学時代は軽音楽部に所属。大学卒業後は、義兄の経営する大橋プロダクションに入社。73年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成しデビュー。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』『スモーキン・ブギ』など数々のヒット曲を生み出し、一世を風靡する。作曲家としては作詞担当の夫人の阿木燿子とのコンビで、山口百恵を始めとして多くのアーティストに楽曲を提供している。また、俳優としても映画・ドラマに数多くの主演作がある。2023年には音楽活動50周年を迎えた。

 

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