汽車に飛び乗って八戸に帰る

──それは急でしたね。

大島 たいへんショックでした。最も頼りにする父が死んじゃったわけだからね。「自分が出馬する」と偉そうなことを言いましたが、そう簡単な話ではありません。9年半も生まれ故郷を離れていて、地域に何の貢献もないんですからね。

 ただし元青森県議会議長、大島勇太郎の逝去が久しぶりに新聞に載ったこともあって、新盆には父の古い支援者たちが実家に集まってきました。「このままでは悔しい」「出馬してほしい」という声もあったんですね。それで自分も決意しました。東京に帰ると、9月に毎日新聞社に辞表を出しました。

 姉の家に置いてもらっていた荷物をリュックサックにぶち込んで、そのまま汽車に飛び乗って八戸に帰りましたよ。情熱と熱望、情念、それだけで行動にできるわけですから、若さって怖いですね。また、若いからこそできたのかもしれません。28歳でした。

 ところが、母は「毎日新聞社にお勤めするのも公に尽くすことだろう。我が家は何十年も政治の世界に尽くしてきた。東京に戻りなさい」と言うんです。母がそう言うのは、当然だと思います。選挙を戦うというとてもつらいことを、陰で支えてきた実感からです。「いや、もう辞めてきたんです」と伝えると、最初に僕の考えに理解を示してくれたのは、昨年亡くなった兄でした。最後はようやく母も納得してくれたんです。

 こうして県会議員の選挙戦が始まりました。最初は無所属で出馬させていただきました。まだ28歳だし、青森県が抱えている問題を具体的にわかっているわけではないので、立会演説会などでは「創造する自治」「広がりのある政治」「愛する郷土」、この三つだけを繰り返し訴えました。今でも良いキャッチフレーズだと思っています。

──広告局で磨かれたセンスが活きましたね。

大島 演説会が終わると「昔あんたの親父さんにお世話になった」とか「夏堀さんのことはよく知っている」という人たちが寄ってきました。灰のなかに残り火は残っているんですよ。日本の政治文化だと感じましたし、先人と皆様に手を合わせました。結果として、全体の2番目で当選することができたのです。TV局を始め報道の皆様が少し遅れて取材に来たと思います。

 県議会議員は2期務めることになりましたが、この時に北村正哉知事のご決断のもと、青森県六ヶ所村において核燃料再処理事業を進めることを決定しています。県議として議論に加わり、賛成をしました。ですから一人の政治家として、この事業については自分にも責任があると思い続けて、現役時には原子力エネルギー問題にずっと関係して参りましたし、今も見守っています。

 『公研』の読者は電力に従事されている人が多いとのことですから、エネルギー問題は安全性の絶対確保、説明責任、サイクルの確立をしっかりしてもらわないかんと見守っていきます。

 

「あなたが決断し選ぶのならその道を行くしかないじゃないか」

──衆議院に初挑戦された1980年は、現職がいる選挙区での出馬ですから厳しい状況ですね。

大島 この時は、田中角栄先生のロッキード事件が明るみに出たことで国民から厳しいお叱りを受け、自民党内は分裂含みのたいへん困難な状況にありました。内閣不信任案が出された最中、青森県ではちょうど参議院の補欠選挙をやっていました。私は松尾官平さんを応援するために八戸市役所前でマイクを持って演説していました。

 自民党は、最後には必ずまとまることができますから否決されるだろうと思っていましたが、夜に松尾さんの事務所に帰ったら「解散になった」と聞きました。いわゆる「ハプニング解散」です。

 応援演説を終えて八戸の家に帰ると、さっそく家内は「出馬するのか」と聞いてきました。家にもたくさん問い合わせがあったようです。ちょうど二人目の子どもがお腹にいましたから、ともかく家内の意見を聞かなければならない。すると、「あなたが決断し選ぶのならその道を行くしかないじゃないか」と言ってくれた。もちろん政治の道に進んだ以上は、国政の舞台をめざしたいという思いはずっと持っていましたが、覚悟が決まったのはこの時ですね。衆議院議員選挙への出馬を決めました。

 しかし、選挙までわずか1カ月ちょっとしかありません。当時は中選挙区制ですから、青森の半分以上が選挙区になる。八戸ではいくらか知名度がありましたが、津軽半島や下北半島では知名度はほとんどなかった。勝つか負けるかより、与えられた機会を精一杯やるしかない。もちろん現職の先生方は後援会組織も含めて地盤がありますから、そこに頭を突っ込むことの困難さはよくわかっていました。

 あの時の青森2区は、前年に熊谷義雄先生(自民党)が落選されていて、田名部匡省さん(元農水相、自民党をのちに離党)が勝ち上がっていました。ちなみに田名部さんは同じ八戸市の出身ですが、その後何度も私と相見えることになります。地元では「八戸戦争」などと言われることになるんですね。

 結果として、最初の挑戦は落選に終わりました。ただ当選者とは5500票ぐらいしか違わなかった。支援してくれた人たちも落胆するというよりも、次に期待を持てるぞ、という雰囲気でした。

 

財産となった3年半の浪人時代

──そこから3年半の浪人時代をご経験されます。どういったことをするものですか?

大島 体力、資金力はつらかったですね。しかし志は鍛え、進むしかありません。今のような小選挙区制であれば、有権者は政党本位・政策本位で選択します。けれども、中選挙区制の時代は、自分の城をどうやってつくるかなんですよ。そのためにはまずは後援会組織を中心にして、地域の皆様に自分を知ってもらわなければならない。冠婚葬祭に顔を出すのはもちろん、毎晩のように時には飲食を共にしながら懇談をしました。あるいは、わずかな人数であっても若い人たちと語り合う場を設けて、今ある課題について議論を重ねました。あまりの忙しさに、自宅の玄関に入ってぶっ倒れたり顔面マヒにもなりました。

 河本敏夫先生(通商産業相、郵政相などを歴任。三木派)と支援者たちの物心両面でのご協力なしには、浪人時代を乗り越えることはできなかった。皆さんの支援と期待があって、政治家は成り立っている。そのことを学ぶことができました。それから、苦しい時に支えてくださった方々は、それ以降もいろいろな場面で基盤となってくださいました。私にとっては、この3年半は政治家としての財産、資本と言ってよいと思います。この時間がなく最初の総選挙で当選していれば、間違った天狗になっていたかもしれません。

 

「政治家は一本のロウソクたれ」

──国会議員時代を振り返っていきます。大島さんは、河本敏夫さんのことを「生涯の師匠である」とおっしゃっていますが、どういった経緯があったのでしょうか?

大島 前任者の熊谷義雄さんは明治大学同窓ということもあって三木派でした。また私の父が農業協同組合の会長をやっていたこともあり、三木武夫先生の謦咳に接したことがありました。そういうご縁から三木先生に連なる河本先生にご指導いただくことになりました。

 河本先生は、ご自身がご判断されたことに対しては「我弁明せず」という態度を徹底されていました。結論を明確に打ち出して、そのことに対する責任の一切を持つ。弁解はしません。1989年に海部俊樹総理が誕生する際にも、そこのところは見事な振る舞いだったと思います。「政治家は一本のロウソクたれ」という信念をお教えいただきました。いま風の言葉を使えば、パフォーマンスは得手ではありません、「少言実行」なのです。私はいろいろな先生に育てていただきましたが、やはり河本先生が政治家としての師匠であると思っております。

 

政治制度改革の舞台裏

──1990年に海部内閣が発足した際には、官房副長官として政権を支える立場にありました。新たに小選挙区制の導入を打ち出した政治改革法案は否決され、自民党は分裂に至ります。

大島 自民党内はとても複雑な状況にありました。その根底に何があったか。一つには政治改革の趣旨は、選挙制度改革だけではないはずだ。だから、小選挙区制の導入ばかりが主眼となっている改革は抜本的な改革ではない、という政策判断がありました。それから小選挙区制そのものに反対であるという人たちもいました。小選挙区制を政治運営に最も活用したと言われる小泉純一郎さんもそうでした。この時は反対だったんです。梶山静六さんもそうでしたね。小選挙区制にすれば党の執行部が強くなるという主張は、一面その通りなんだよね。そこに対する考え方も様々でした。

 二つ目の軸は、いわゆる田中派の支配体制に対抗する自民党内の新しい政治地図が動き出していたということです。ここの軸には、田中派対非田中派の戦いもあれば、田中派内の権力闘争もありました。田中派でも竹下登さんは「やらなあいかん」と言って賛成でしたし、小沢一郎先生は、この法案を通そうとリーダーでした。

 こうした様々な思惑や要素が入り混じって、政治改革関連法案は一気に廃案になってしまった。私も海部内閣の末席の一員として、この流れを阻止できなかったことは非常に残念でした。あの時の海部さんは、自民党の緊急事態を救うために役割が回ってきたのだけど、自らの力を積み重ねて総理になったわけではなかったところがありました。

 廃案になった時には、私も確かにその場にいました。海部総理はあの時に解散するという重大な決意もあり得たのだけど、結果としてはそれができなかった。非常に悔しかったと思います。結果的に海部総理が自民党を出ていくことになる原因の一つになったのではと、残念に思っています。

──小沢一郎さんは20年以上にもわたり日本政治の中心にいました。同じ東北選出の議員としてどのように見ていらっしゃいましたか。

大島 海部内閣で官房副長官だった時に、幹事長は小沢先生でしたが、よく怒られましたね。逆に言うとたいへんご指導いただきました。平成の前半は、まさに小沢政局だったのだと思います。私が見ていた限りにおいては、やはり小沢先生の考えには政権交代可能な日本の政治をつくりたいという思いがずっとあったのでしょう。今もあると思いますよ。

 一方、権力の運営という意味においては、側近が離れていくところを見ると、何がそうさせるのだろうと疑問に感じることはよくありました。小沢先生は、周囲の人たちにもう少し自分の考え方を説明する術があればよかったのではないかと思ったりもします。良きにつけ悪しきにつけ、若かりし頃に学ばれた田中先生、金丸先生、竹下先生といった方々の政治運営の手法のようなものに影響を受けていたところがありますよね。

 多くの人がいろいろなことをおっしゃっていますが、本心は小沢先生に直接聞かれるのがよいのだと思いますよ。

 

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