『公研』2018年9月号「めいん・すとりいと」

三浦 瑠麗

 帝国の輝きというのは、まぶしいものです。ジョン・マケイン上院議員の葬儀が行われた際の「アメリカ帝国」の荘厳さがそれにあたります。国立大聖堂で米軍各軍種の軍人が棺を担ぎ、バラク・オバマ前大統領夫妻、ジョージ・W・ブッシュ元大統領夫妻、そしてビル・クリントン元大統領とヒラリー・クリントン元国務長官、現政権からはイヴァンカ・トランプとジャレッド・クシュナーの夫妻が参列する中、重々しく運ばれて行きました。

 娘のメーガンさんが弔辞で強い口調で語ったように、マケイン氏は特権を拒否して苦しみながら捕虜生活を生き永らえ、常に勇敢で強い人でした。そして、真面目ながらも心の余裕とユーモアがあった。(トランプ対ヒラリーの選挙戦までは)もっとも醜い泥仕合の選挙と言われたオバマとの大統領選では、両者は相当深く、心を傷つけあいました。そして、2000年の共和党の予備選でジョージ・W・ブッシュと競ったときには、これまた激しい保守の仲間割れが起きました。にもかかわらず、彼はこの二人の大統領を弔辞役に指名したのです。ブッシュもオバマも、マケイン氏の勇気と誠実さを称えました。偉大なアメリカの象徴として語ったのです。

 そんな荘厳な式を伝える日本のメディアもネットも、いささか帝国の強い残照にあてられ気味でした。これほどまでの英雄はいるだろうか、これほどの人物は、と思うのも無理はありません。日本は戦後70年余りのあいだ、帝国を持たず、戦争もしていないのですから。一匹狼のマケイン氏が、生前もっとも力あるときにこれほど声を聴いてもらっていたわけではありません。むしろ、理念重視の介入主義者で、善人だが頑なな人、経済運営を任せるのは心配、といった評の方が多数派であったかもしれません。私はマケイン氏が好きですが、それは彼がフェアで、帝国の国益を見据えてストレートな物言いをする人だったから。大統領に向いていたかどうかといえば、そうでもないでしょう。

 いま私たちが目にしているのは、マケイン氏の葬儀というよりも分断したアメリカを「帝国」によって修復しようという必死の試みなのです。その外側にいるのは、サンダース支持者やトランプ支持者のうちの急進者たち。帝国など気にかけないぞと宣言して、国内的な憎しみの方に専念している人たちです。私たちは、アメリカが次第に退いていく不安に晒された世界に生きています。だから、ベトナム戦争やイラク戦争のように間違った戦争をしてしまう国だとしても、内向きのアメリカより「帝国」アメリカのほうが親しみ深く感じるわけです。トランプ大統領はほとんどすべてのエリートの良識を破壊して愉しむところがありますから、否定し、葬り去りたいことはわかる。けれども、大統領には一人でなれるわけではない。トランプ現象もまた、帝国アメリカの衰退期におけるひとつの時代の潮流にすぎません。

 心配なのは、帝国の魅力にあてられすぎてしまうことのほうです。大英帝国の残り香をイギリス人が懐かしむのはけっこうです。アメリカ帝国の残響を厳かにアメリカ人が称えるのも別に良い。けれども、帝国を失いアメリカに完全依存して久しい日本が、アメリカ帝国の最後の響きを懐かしむことにかまけていては、間に合わないのではないか。いまこそ、アメリカ帝国が何だったのか、あるいは西洋の帝国時代がもたらしたものは何だったのか、総括し、来たる時代に残すべきものを守りつつ創り出しにかかるときです。国際政治学者

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