アメリカとはなんぞや
──努力が実って慶應義塾大学法学部法律学科に合格されます。
大島 衆議院議員になって、何期目の時か忘れましたが慶應義塾大学塾長の石川忠雄先生に会う機会があった時、「大島くん、昔の君の成績では入れないよ」と言われたことがありました(笑)。
実は僕は法学部政治学科を志願したつもりでいたのだけれど、入学してみたら法律学科だったわけ。願書は間違えて法律学科に◯を付けていたんですね。やっぱり潜在的な意識としては、政治を学びたいという思いがあったのだろうと思います。
当時は学園闘争が盛んでしたから、大学内では全共闘や様々なセクトが活発に活動していました。我々の世代のみならず、日本人全体が戦後の日本にとってアメリカとはなんぞやということを核に、戦後の立ち位置を考え始めた時代だったと思います。太平洋戦争で敗戦して生きる意味を失った日本は、それぞれの内閣によって方向性にいくらかの違いはあったにせよ、基本的には復興、すなわち物を豊かにすることを求めてきました。経済成長を最優先にしていたわけです。
戦後の日本はアメリカの文化に様々なかたちで刺激を受けて、アメリカに憧れを持っていました。特に戦後生まれの我々の世代は、強い影響を受けて育ってきた。ところが、そのアメリカがベトナム戦争に突き進んでいる。若い世代は、徐々にアメリカの行方に対して反発を覚える者が増えていきました。私自身も「なぜベトナム戦争なんだ」と強い関心がありました。それで、慶應の「アメリカ文化研究会」に入ったんです。ところがそこは、いかにも慶應ボーイらしい諸君たちの集まりの場だったんです(笑)。
──想像が付きますね(笑)。
大島 130人くらいいるんだよ。僕は政治パートに入ったのだけど、八戸でそれなりに必死に努力して入学した小生から見るとね、このメンバーとの肌合いの違い、言っている言葉、感覚はずいぶん違うのだなと思いましたね。ただ、これまた大きな刺激になりました。彼らは最も親しい学生時代の仲間として今でも私の財産として残っています。遊びや人との付き合い方も含めて、ここで様々なことを教えてもらったような気がします。
現実の政治をやることこそが大事
──やはり社交的ですね。政治家に向いた資質を感じます。
大島 もちろん人間ですから「こいつとは合わないな」という奴もいましたよ。ただ、小さい頃からいろいろな人が出入りするなかで育ちましたからね。世の中はいろいろな人間がいる。そのあたりは、柔軟だったのかもしれませんね。
──ベトナム戦争については?
大島 僕はね、反発するより「なぜなのか?」を学びたいと思っていました。ジョージ・ケナンの本などもよく読みましたよ。何回読んでもわからない。だから今でも引っ張り出して苦闘しています。世界が今どう動いているのかを知りたかったんですね。そうして、米ソの冷戦構造やそこでの日本の立ち位置についても、少しずつなるほどというところが出てきました。
それで自分自身がヘルメットを被ってバリケードに立て篭もるような行動に走っていくのかと言えば、それは違うと考えました。そこまでの反発心を持つほどの信念は、なかったのだと思います。結局、彼らと議論していても、「現実問題としてアメリカを変えられるのか?」ということをいつも感じていました。騒ぎ立てたところで現実の政治は変わらない、この運動には限界があるという思考でしたね。こうした態度に対して「ズルい」という向きもありましたが、現実の政治をやることこそが大事だと考えていました。そこは一貫していたところがありました。
東京オリンピック、大阪万博が終わり三島由紀夫さんが市ヶ谷で割腹したのは1970年でした。高度経済成長も終わりに近づいたことで、日本のアイデンティティが問われ始めた時代だったと思います。全共闘運動の根底にも、そういう問いかけがあったのかも知れません。保守の側にも同じように強烈な問いが出始めていました。僕自身は八戸の尻内という土地に長く根付く強い絆、わずらわしさもある地域社会に生まれ育って、父も叔父も自民党の代議士だったわけです。そのことをあらためて意識するようになった時期でもありました。
──毎日新聞社時代は広告局の配属で記者ではなかったということですが、これは最初の志望の段階からそうだったんですか?
大島 記者になるには、出来が悪かったからですよ。僕は慶應も卒業するのに5年かかりましたからね(笑)。メディアも広告業界も変化の兆しが出ていた時期だから、刺激的でしたよ。当時は新聞の部数がまだまだ伸びていた時代だったから、求人広告なんかは単価の高い広告収入だったんです。新聞に意見広告として全面広告を打つようになったのもこの頃だったと思います。
それで毎日新聞でも新しい媒体をつくって収入を得ようということで、コミュニティペーパーづくりを始めることになった。編集局からと、広告局から数名がやってきてチームをつくらされた。僕もそこに入れられたんですね。大型の郊外型百貨店と組んで、その地域の人たちがほっとするニュースや話題を集めてきて掲載する。そこに百貨店を軸にして地域のお店や企業に広告も出してもらうわけです。大きいところだと10万部くらい発行していた地域もありました。毎日新聞には4年半いたんですが、3年半ぐらいはこの仕事をやっていました。つらいけれども楽しい勉強になりました。
広告を獲得するためには、日々動いている社会の状況を知らなければなりませんから、他の新聞も広告も含めて目を通していたんです。世論はどのように形成されるのか、その実態を勉強させてもらいました。この時の経験は、その後もたいへん参考になりましたね。
父の落選
──1975年4月に青森県議会議員選挙に出馬されます。どういった経緯があったのでしょうか?
大島 政治への道を具体的に意識し始めたのは、大学2年生の時でした。毎日新聞社に入る前のことでした。それまでは勉強もせずに東京での暮らしを謳歌していたんです。謳歌していたと言えば聞こえはいいけど、要は遊び呆けていたんでしょうな。ただ2年生の時に、父の選挙を初めて手伝ったんですよ。もう20歳も過ぎているのに何もしないで親のすねをかじって、好きなことをさせてもらってきたんですからね。当時は、自分たちで看板をつくって選挙活動をやっていたので、とにかく人手が要るんです。
その選挙で父は負けたんです。67歳でした。その時に初めて父の負けた姿を見ました。悔しかった。政治の場に立っている父の存在を強く感じた時です。オレは「勇太郎」という政治家の息子であることを初めて実感したと思います。悔しさへの情念が存在し始めたと思います。
政治の道に進むためには司法の世界を知るのもよいだろうと思って勉強もしましたが、小生の頭ではいかんともしがたい。それで社会を知りたいと思って新聞社に入ったんです。
新聞社に勤めてから4年目の正月休みに帰省した際に、父に「今度の地方選挙に出馬したい」と申しました。「政治はそんなに甘いものじゃない」と一喝されました。けれども、父はおそらく嬉しかったのだと思います。その時は「4月に結論を出そう」ということで、先送りされました。ところが、その4月に父がぽっくりと亡くなってしまうんです。