私心無き真理への情熱、「認識への純粋な欲求」

阿川 『地霊を訪ねる』は、フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルを連想させるところがありますね。彼はアメリカ各地を徒歩、馬、そして船で旅して、この若い国のことを考えたのですが、猪木さんは日本を再発見されようとして、トクヴィルをやっておられる。

猪木 トクヴィルの引用も一つあります。北海道地図を作製する際に三角測量の起点となった苫小牧の東にある勇払開拓史跡公園を訪れて、伊能忠敬について触れた箇所です。伊能忠敬は、だいたい17年間で地球一周に相当する3万5000キロメートル歩き回って、歩数と天体から緯度の位置を正確に測定しました。

阿川 50歳を過ぎてから独学で始めたわけだから、恐るべきおじさんですよね。

猪木 おっしゃる通りですね。伊能忠敬について「何が彼を動かしたのか。おそらく、限られた人の心の中で燃える、私心無き真理への情熱、『認識への純粋な欲求』なのだろう」と書きましたが、ここにある「認識への純粋な欲求」はトクヴィルの言葉です。トクヴィルもパスカルも、知りたいというまったく純粋な欲求に衝き動かされていますよね。有名になれるとか、実利を求めていたわけではない。

阿川 でも、トクヴィルは明確な目的意識があってアメリカに行っていますよね。

猪木 だけど彼は「人間の認識の要求とそれを何かに利用しようとする欲求とは別だ」と言っています。その点では、今の学問の多くは「利用しようとする欲求」に支配されてしまっている。純粋な認識への欲求は大学が失ってしまった精神ですね。われわれにも責任があるんですけど。

阿川 猪木さんも純粋にこの国を知るにはまずそこへ行かなきゃいけない、という気持ちから日本中を旅された。

猪木 完全に「私心無き」とは言えないですね。本になれば売れたほうがいいとかね(笑)。

阿川 私が猪木さんとトクヴィルが共通しているなと思ったのは、訪れた鉱山の歴史や現地の地形など以外にもさまざまな情報が盛り込まれていることです。例えば、何時にどこそこへ行って、2時間移動して次の目的地に着くといった記述があり、距離感を実感できます。

猪木 トクヴィルは事前にきちんと勉強して丁寧に旅の記録を残す人でした。僕の場合は、80年代に労働調査をしていたときにメモをとる習慣が付いたんですね。国内外の工場に行って聞き取り調査をする場合、事前に企業の歴史と製造技術の勉強をしていくと、担当してくださった方も「そこまで知っているのか」と感心して、通り一辺倒のこと以上のことを教えてくれます。調査に行くときは、ジャーナリストが使うような小さなノートにメモするんです。そのメモをその日のうちに清書してノートをつくり、一緒に行った共同研究者とノートを交換して全体の記録をつくりました。同行者からは「猪木さんのノートは荒いな」なんて言われていましたが。その聞き取り調査の折の経験でメモ癖が付いたんですね。

阿川 トクヴィルは、当時のアメリカ各地をくまなく訪れていますよね。ミシガンの一番奥の人里離れた遠いところまで行っている。出会ったアメリカ人の描写が素晴らしくて、インディアンと森のなかを旅したところなんか最高でね。突然、丸太小屋が現れて

猪木 シェイクスピアの本があったりする。

阿川 そうそう。猪木さんはもちろん日本のことをよくご存じだけど、あまり知られていない地域も含めて、地図に載っている日本のさまざまな地域についての実感を書き残されようとしている。これはトクヴィルがやっていたことですよね。素晴らしいと思います。

猪木 そんなたいしたものではないんです。僕は日記を付けているときもあって、日付なんかも一応正確に書いています。阿川さんは日記を付けたことはありますか?

阿川 ずっと付けていますよ。70年代から。

猪木 あれは良くないですよ、日記は。やめたほうがいい(笑)。毎日書いているんですか?

阿川 しようと思っているけど忙しくて、感銘を受けたことなんかを丁寧に書けない。量は定めていて、それ以上は書かないと決めたんです。資料として読み返すこともあります。

猪木 あとで読むと嫌でしょう?

阿川 うん。つまらないことしか書いていない。ひどいときは海軍の記録みたいに「0930なになに」なんてあっさり書いてある。のぞみに乗った時刻が気になったりします。

猪木 いや、つまらないことだったらいいですよ。何を買ったとか、誰に会ったとかね。それ以外のヘンな文章があったりすると恥ずかしくなりますね。

阿川 それはありますね。

猪木 政治家で日記を付けている人がいるでしょう。でも、あれは資料価値がそう高くないのではないですか。嘘も書いているでしょうから。日記を付けている人とは付き合うなと言いますね。

阿川 日記に書かれちゃうから?

猪木 そう。『佐藤栄作日記』でしたか。「K(若い政治家)が事務所に来て何かしゃべって帰った。くだらないやつだ」とか。

阿川 同感だからしょうがない。嘘ではなくて本音ですね。

 

ゆゑもなく海が見たくて海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に

阿川 この本には、多彩な人物が登場します。作家に限っても島崎藤村を皮切りに、山田風太郎、森鷗外などなど。多くはその土地が生んだ郷土の誇りになっていますが、思わぬところにこんな人がいたのかという発見がいくつもありました。谷崎潤一郎が岡山と関係があることなんて知らなかった。

猪木 きちんと調べてはいないのですが、谷崎の妻松子は津山藩主の松平家と縁があり疎開するときに特別な場所を提供されたのではないかと思います。

阿川 それから松本清張が出てきたのは意外でした。うちの親父(阿川弘之)は嫌っていましたが、猪木さんが紹介されると読んでみようかなという気になる。

猪木 僕も松本清張は「黒い霧」などあまり好きではなかったのですが、『昭和史発掘』はおもしろい。歴史家の北岡伸一さんも「あれは参考になる」と感心しておられました。

阿川 北岡さんはユーモアがあるのかないのか、よくわからないところがありますね(笑)。もしかしたらそれもわかったうえで、ユーモアの一部として振る舞っておられるのかもしれない。

猪木 そこは、どうなんでしょう(笑)。

阿川 石川啄木も強く印象に残りました。『一握の砂』に収められている有名な「ゆゑもなく海が見たくて海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に」という歌が三陸の話だったことも私は知らなかった。北海道のイメージがありました。

猪木 啄木は、盛岡の郊外で生まれましたが、就職活動で函館に辿り着き、札幌、小樽、釧路と漂白しています。奥さんも函館で亡くなっています。あの歌は三陸です。啄木というのは嘘つきでいい加減ですが、こころを打つような歌がありますね。一種の天才でしょう。

阿川 私も「ゆゑもなく海が見たくて」は好きです。実は、この歌はアメリカ海軍とも少なからぬ縁があるんです。一般にはあまり知られていませんが、アメリカ海軍と海上自衛隊をつないだ増岡一郎さんという人がいます。衆議院事務局に勤務していて、船田中(第51代・第56代衆議院議長)の秘書官を務めました。その船田さん自身が一時、海軍出身で内閣総理大臣も務めた加藤友三郎(1861年1923年)の秘書官でした。加藤は対米協調の重要性が骨の髄まで染み付いていた人でしたから、彼が生きていたら太平洋戦争に突き進んだ日本の悲劇も避けられたのではないかという思いが、私にはあります。

 加藤の薫陶を受けた船田は、戦後日米同盟の熱心な支持者になります。増岡さんは、その命を受けて在日米海軍のために尽力したんです。アメリカ海軍はそれに感謝して、増岡さんが逝去されたときに、米海軍横須賀基地に今もある「MASUOKA PARK」をつくり、そこに啄木の「ゆゑもなく海が見たくて」の短歌を彫った歌碑を建てました。私も開園記念式に招ばれましたが、在日米海軍司令官が挨拶のあと、ややたどたどしい日本語で、啄木の歌を読みあげたんです。

猪木 増岡氏は軍人ではなかったのですか?

阿川 増岡さんの父は旧海軍の士官で将来を嘱望される人でしたが、戦争末期に空母に乗っていて沈められて亡くなりました。江口穂積中佐というのですが、親父の上司でもあったんです。

 江口中佐の私生児で母親に育てられた増岡さんは、そんなわけで海軍に対する強い思いがあり、戦後アメリカ海軍と海上自衛隊の協力関係を強化するために尽力するわけです。啄木の歌は、そんな増岡さんの心境をよく表していると思います。いったい誰が司令官に啄木を薦めたのか知りません。

 

国民全体が自己検閲している

猪木 啄木の歌の一つ、「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」もいいですね。不来方は盛岡の雅称です。おそらく授業がつまらなくて、学校を抜け出して盛岡城にやってきた歌なのだと思います。

阿川 寝そべって空を眺める啄木から、背景にある人間関係の窮屈さが連想されますね。

猪木 今の15歳よりのびのびした感じがしますね。現在の子どもたちの表情を見ていると、大人を小さくしたような印象を持つんです。みんな大人っぽくなっていて、似ている。

阿川 私は子どもが何にも考えず、大人に言われた通りにしゃべるのを見るのはキライです。子どもに広島の原爆資料館の展示を観た感想を聞くと、「再びこういう悲劇を起こしてはいけないと思いました」なんて言ったりする。原爆記念日に小学6年生の優等生が大人の期待通りの「平和への誓い」を述べるのも、好きになれない。本人は真面目そのものですし、素直にそう信じているのでしょうけれど、知識を述べているだけで、実感がない。でも誰もそれを批判できない。

猪木 ファビオ・ファシズムという言葉があるじゃないですか。要するに周りを忖度して、自由に発言しない。1935年にパリで文化擁護国際作家会議が開かれて、アンドレ・ジッド、ゴーリキー、ブレヒト、バーナード・ショーなどの作家が社会主義の脅威とどう戦うか、リベラリズムをいかに擁護するかといった議論をしたことがありました。このときにイギリスのE・M・フォースターは、「イギリスには専制君主による全体主義はないが、国民全体からの圧力による全体主義はあり得る」と報告しています。要するに、イギリス人はうまく言うすべはよく知っているけど、国民全体が自己検閲していて本音は口にできない状態になっていると。イギリスにも全体主義の危険があるのだから、言うべきことを言えないといったファシズムは、どこの国でも起こり得る。

阿川 鷲田清一さん(哲学者、大阪大学総長、京都市立芸術大学学長を歴任)も同じようなことを最近京都新聞に書かれていました。いま日本は一見多様性が増しているように見える。みんなが多様性は重要で大事にされるべきだと言うけれど、むしろそれは一種の画一性ではないかと。まったく同感ですね。

 僕はアメリカのことを聞かれる度に、「あの国は独裁国になりにくいと思う」と答えています。その理由は、アメリカ人の最大の欠点でもあり長所でもあるのだけど、彼らは他人の話を聞かないからです。そういう意味では、イギリス人や日本人も少々怖い気がする。

猪木 どうだろう。アメリカの集団ヒステリーもすごいですよ。

阿川 確かにすごいです。でも、それは別にトランプとその支持者だけでなく、建国以来、何度もあったことなんです。

猪木 阿川さんがおっしゃったことに基本的に賛成だけど、振れ方が極端ですよね。でも振れ過ぎて、千切れて飛んでいってしまうことはない。千切れる寸前までいくことはよく起こる。第二次大戦後から50年代前半のマッカーシー旋風、赤狩りにしてもね。だけど復元力もあるんですね。

阿川 私もそう思います。対米協調主義を掲げていた幣原喜重郎が外務大臣だった1924年に排日移民法が成立します。第一次世界大戦後のアメリカの政治家は、今の共和党の一部のように無茶なことを言って、孤立主義に走ってしまいます。そして日本だけではなく、どこの国からもなるべく移民を入れないようにしたのですね。それより前、駐米大使であった幣原は日本人移民排斥に対し、本国からの訓令を受け、ホワイトハウスに度々「断固として許せない」と抗議します。このときに駐米イギリス大使を務め著名な歴史家・思想家でもあるジェームズ・ブライスから、「どうして何度も抗議するのだ。それ以上は何も言わずに放っておけ」と言われたそうです。アメリカ人は長いこと記憶が残らないから、そのうち反省して変わることを、イギリス人はよく理解していたわけで。

 ここはアメリカの復元力とも絡んでくるところですね。ただ、この頃はそこがぐらついていて、本当に復元するのかどうか心配な点は、確かにあります。アメリカは根本的には変わっていないのか、いや変わったのか。ここはきちんと見極める必要があると思います。

猪木 アメリカにも大型の知識人がいなくなりましたね。米ソ対立が激しかった時代には、ジョージ・ケナン(外交官、歴史家)のような人物がいたから、最終的にはまともな判断がなされていた。けれども今は専門性を求められるがゆえに、みんなが何か視野狭窄になってしまっている。この現象は地球的規模で起きているように思います。

阿川 トランプ支持層は、知識人が嫌いなので、論理的に説明しても逆に「すべて嘘だ」と攻撃されたりする。反知性主義的なスタンスはアメリカに伝統的にあるのですが、オルテガが1920年代の末に描写したのと似たこうした大衆の態度は、怖いなと感じます。

 

新古今集の頃の貴族になったつもりで和歌を詠む

猪木 阿川さんも、冷泉家で和歌を習われているそうですね。

阿川 実は和歌を始めたきっかけの一つは、猪木さんの一言なんです。今でもよく覚えていますが、60歳代前半に宮城県の吉野作造記念館で勉強会に参加したときにお話しする機会があって、「阿川さん、60代半ばを過ぎたらそろそろ世の中から少しずつ姿を消すことを考え始めたほうがいい」「消え方も大事だよ」と言われたんです。

猪木 本当ですか? 鬱のときかな。自分は今でもウロウロしているのに(笑)。

阿川 その年代は何か全く新しいことを無からがむしゃらに始めるようなエネルギーはないし、ムリしてバタッと逝ってしまう人もいる。いつまでも招ばれる度に外へ出ていくのはやめて少しずつ世の中から消えていく、どんなふうにそれを実行するのかを考えるのは大事だ、とおっしゃった。

猪木 そんな説教臭いこと言うかな。自分のことも決めていないのにね。

阿川 学者の世界にも天下り的なポストがあって、定年が近づいたときに、いくつかお誘いをいただいたのですが、それぞれ5分ぐらい考えて「ノー」とお断りしました。そして60代の半ばを超える頃、自分はこの先いったい何をしたいのかを改めて考えました。

 一つはアメリカ憲法史の勉強を続けたい。理由は簡単で、おもしろいからです。もちろん、大発見をめざすとかではなくて、アメリカ憲法史のおもしろさ、深さを、なるべくわかりやすく書いて伝えたいと考えたんです。

猪木 われわれの分野では大発見なんてないですよ。

阿川 もう一つ、文章を書き続けたい。自分なりになるべくいい文章で、本を何冊かまとめたい。それには以前から憧れていた京都で静かに暮らして、仕事をしたいなと思うようになりました。幸い、2016年から同志社大学で特別客員教授として採用してもらい、教えるようになりました。そのためにアパートも借りました。いい環境に身が置けて、それを可能にしてくれた同志社の方々、学生諸君には感謝しています。

 ところでせっかく機会を与えられたので、できれば古い京都に触れたいと考え、謡、書道、座禅など、いろいろ考えたときに、冷泉家の和歌のクラスに紹介してくださる方がおられて。父と母も『万葉集』が好きだったし、私も昔から勝手流で歌を詠んでいたので、和歌がいいかなと。大げさな準備はしなくてよさそうでしたし。

 生徒として通うことを許されたときには、実はどんな和歌を詠んでもいいのだろうと思っていました。ところが初回に、冷泉先生から、新古今集の頃の貴族になったつもりで和歌を詠むことと、念を押されました。「今日はサラダ記念日」なんていうのは、ダメなんです。月は東山の向こうに出るもの、関所は逢坂山にしかない。鳰の湖(琵琶湖)の網代という題で歌を詠んだときに、「向こうに比良の山が見える」という意味の言葉を使ったら、「比良は北のほうの田舎だから、山を用いるのであれば「比叡山じゃなければいけない」と言われたんです。大事なのは型なんですよ。最初は戸惑いました。

猪木 和歌は歌われる世界の対象や情況が限定されている。

阿川 だから、新しいことを歌に詠むのは、多分いけないのではなくて、型を守りながらそれをするのが難しいんです。

 冷泉先生は講義で、お題を出され、よく使われる言葉を紹介されます。「月」「日暮れ」「朝」「川」「雪」といった、状況に応じて使える言葉がある。ただなるほどと思っても、いざ自分で歌を詠むとなると、どうしたらいいのかわからない。それでも、平安や鎌倉の昔の人間になったつもりという制限と型があるから、そうした言葉を組み合わせることでなんとか歌になる。もちろん五・七・五・七・七に合わせなければならないし、大和言葉でないといけないのですが、実はこれが驚くほど平素書く文章の勉強になります。そして講義の最後に、先生から代表的な歌を二つほど教えてもらいます。特に定家の歌に触れると、型に合わせながらも、自由に飛翔する、そのとてつもない創造力に驚きます。

猪木 2020年4月にコロナが広まってなるべく外に出るなとなったときに、友人三人で歌詠みをやったんです。つくった歌をメールで送って評価し合うわけです。そうしたら次第に力不足から本性が現れて下ネタのほうに流れて、「性商納言」などと名乗ったりしてね(笑)。それで半年ほどで解散になりました。

 いま「型」とおっしゃったけど、それはわかりますね。集まった三人は百人一首なら知っている程度だったので、それをベースにして少しひねることで歌をつくっていたのです。

阿川 冷泉先生は講義の合間に、ときどきびっくりすることを言われるんです。「歌はみんな想像の世界です。みんな嘘です」「今の世の中、革新が必要だ、日本は変わらなきゃいけない、という話ばっかりしてますけど、あれ嫌ですね」「うちは1000年同じことを毎日やってきて相変わらずです。でもその相変わらずが大事なんです。なかなかわかってもらえへんけど」などなど。

 変わらないことを卑下しているのではなくて、孤高の誇りですね。これは究極の保守主義だ、これが京都なんだと思いました。毎日の生活が地霊に縛られているようだけど、もしかするとかえって自由なのかもしれません。

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