『公研』2023年7月号「対話」 ※肩書き等は掲載時のものです。

 

窮屈な生活が強いられた「コロナの日々」が去った今、

書籍を携え、日本を再発見する旅に出るのはいかがでしょうか?

猪木武徳先生と阿川尚之先生に京都で大いに語っていただきました。

 

 

教養にはさまざまなかたちがある

 阿川 編集部から「旅と歴史、教養とユーモアといったテーマで対談をしてほしい」というご依頼があり、お相手として真っ先に頭に浮かんだのが尊敬する猪木さんでして、お願いしましたら快くお引き受けいただきました。ちょうど、この1月に、猪木さんはご著作『地霊を訪ねる──もうひとつの日本近代史』を上梓されました。今日はこの本の内容に沿って、お話を伺えればと思います。

 猪木さんは日本各地の鉱山とその周辺を歩き、その歴史や人物、風土などを、本書で丹念に紹介されています。圧倒的な予備知識と現地での観察に基づく、とても豊かな内容です。この本を読むと、教養と言ってもそんなに簡単に身に付くものではないなと感じます。教養にはさまざまなかたちがありますよね。学者が学問として追求するものだけではない。

 猪木 教養という言葉には、いくつかの誤解があるように思います。学歴と教養に強い関係があると見なすこと。それから専門外のことを知っている、いわゆる雑学に詳しい人を「教養がある」とすることに違和感があります。例えば、学歴競争を突破した秀才が歴史にも造詣が深かったりすると、「教養があってすごい」と言ったりします。けれども教養ってそんなに狭い概念で規定できるものではなくて、もっと実践的な智恵を含んでいるように思うんです。定型的学習に熱中することや知識の獲得ばかりを教養と考えるのは、一面的に過ぎるのではないかな。

 いろいろ定義があり得るし、もっと別の側面から教養を捉えることができるはずです。例えば、相手の立場を想像してそこに身を置くことができるとか。そういう精神的ゆとりを持てることも教養の一つだと思う。われわれはどうしても学知が重要で、徳というものは学知とは別の範疇の倫理と捉えてしまう。けれども、西洋には学知も実践知も含めたIntellectual virtue(知的徳)という概念が古代ギリシャ時代からありました。「あの人は頭が良くて勉強ができるが、人柄がちょっと」なんてことはない。

 阿川 日本にはそういう人が多い気がして(笑)。

 猪木 知と徳は完全に分離したものではないんですよね。『地霊を訪ねる』にも書きましたが、福田恆存は「教養を考える場合、学校教育や読書から得られる知識に重きを置かない」という見方を語っています。具体例として、信州を走る飯田線で乗り合わせた土地の老婦人とその嫁らしき女性の態度を紹介しています。

 「二人は私の隣に腰をおろし、しばらく世間話を交わしておりましたが、その姑らしい六十歳あまりの老女が、いきなり私を顧みて、『窓を開けたいと思うが、迷惑ではないか』と問いかけてまいりました。私は驚いた。私は大磯に住んでいて、東京に出るのに湘南電車を用いますが、それに乗り合わせた紳士淑女から、こういう鄭重な言葉を聴いたことは、まずありません。(中略)おそらく、それは、私を土地のものではない旅行者と見ての、よそいきの挨拶だったのでしょう。つまり、老女は平生、見なれぬものにたいして、それだけの距離を保って自分を位置づけたのでしょう。だから、私は感心するのです。日常的でないものにぶつかったとき、即座に応用がきくということ、それが教養というものです。」(福田恆存『私の幸福論』)

 

「劣等生を愛せよ」

 阿川 わかりますね。昨日、同じような経験をしました。新幹線で京都に到着し、地下鉄に乗り換えるためにホームへ降りるエレベーターに乗ったんです。ほぼ満員でしたが、ドアが閉まる直前におばあさんがやってきて、「もしも、もう一人乗れるようでしたら、入れていただいてもよろしいでしょうか」って言われるんですよ。

猪木 礼儀正しいですね。

 阿川 それで「すいません、すいません」と言いながら入ってこられる。東京だったら何も言わないで「ドーン!」と入ってきますよね。

 猪木 当然といった風にね。

 阿川 それで「ありがとうございます。ありがとうございます」と言いながら出て行かれた。

 同志社大学で働いていたときにも、5階にある自分の研究室から1階の事務室に、提出期限に遅れた書類を届けに行くと、「先生、5階からわざわざこんなことで降りてきていただいて恐縮でございます。ありがとうございます」と言われるんです。謝るべきは私なのに。これは京都の人たちの型なんですね。こういう場面に出遭うと、京都はいいなと思います。東京の人はそういうこと言わない。もちろん親切な人はいますけれどね。

 猪木 型を学習したAIに接しているみたいだ(笑)。京都にはまだ型が残っているという例でしたが、僕は日本人全般としては技術に関する知識に追いまくられて、知的なゆとりをなくしてしまっている印象を持っていて、知性の劣化につながりかねないと恐れています。原因の一つはやはり学校教育だと思うんです。われわれはパターン化された知識の獲得ばかりに熱中して、クラス内でも秀才をリスペクトしがちです。正直な子、弱い者を助ける子も称賛するでしょうが、それよりも試験で良い成績をとるほうがエライといったヘンな序列が子どものときからできてしまっている。

 明治時代はそういう一つの物差しだけで測る教育をしていたわけではなかったんです。『公研』でも書きましたが(2023年3月号「めいん・すとりいと」)、登米を訪れた際に石巻尋常高等小学校で当時の指導要領にあたる「當校教員注意要項」を見る機会がありました。そこに「手ぶらで教えよ」とあるんです。今風に言えば「パワーポイントなどは使うな」ということですよね。それから「劣等生を愛せよ」もあります。よくできる学生を競争させるのが教育ではないと。ほかには「言葉遣いを丁寧にせよ」(タメ口で話すな)とかが強調されているんです。

 

天国ではユーモアは生まれない

 阿川 そこはよくわかるんです。知識が多いからと言って必ずしも人間として幅があるわけではない。ただ猪木さんの場合は、学者として専門の勉強をされてきたわけです。専門性がなかったら話になりませんよね。どういう環境でどう勉強すれば、知徳の重要性に気付けるのでしょうか。

 猪木 こちらがお聞きしたいですよ。僕は60年前から経済学の勉強を始めて、若い頃にはアメリカの大学院で5年近く、爪に火を点すような生活をしました。かなりハードな学生生活のなかでいろいろ学びましたが、一つ気付いたのは、立派な仕事をしている先生は人柄も素晴らしいということでした。知的に正直で人間としての余裕もあるなと。さっきのIntellectual virtueとも関係しますが、そういう方は業績が長く残るような仕事をされているし、関心の幅もたいへん広い。話をしていても、こちらの気持ちが豊かになるようなところがありました。よい仕事をしたから余裕があるというようなうわべの因果関係ではないようです。

 そういう先生はそもそも余裕があるので、意図せずしてユーモアが出てくる。ユーモアというのは、人に対する愛情がベースになっていますよね。

 阿川 同感です。愛情だけなのかどうかはわからないけど(笑)。

 猪木 自分に関しても他者に関しても、人の不完全性を、愛情を持って笑っているわけでしょ、ユーモアっていうのは。おバカさんとは言わないけど、その対象が持っている何かちょっと滑稽なところを、愛情を持ってうまく捉えることですよね。だからその人の存在そのものと関係しているとも言えるのかな。

阿川 ユーモアは他人を笑っているようで、自分を笑っていることも多い。マーク・トウェインは「人間は実に哀れな存在だ。だから本来ユーモアは喜びではなく、悲しみから生まれる。天国ではユーモアは生まれない。」と書いていますが、わかるような気がします。人間であることそのものを、ある種のため息をつきながら笑うのですね。

 いま猪木さんは、優れた研究者の多くは人間的にも立派であるがゆえに、人としての余裕、さらにユーモアがあるとおっしゃいました。その通りだと思いますが、偉い大学教授でもそれがわかっていない人がいますね。

猪木 ユーモアをですか?

阿川 知識と教養の違いやユーモアについて考えたことがない先生が大勢いますでしょう。ユーモアを悪口だと感じて怒り出す人もいます。それがむしろ悲しくもユーモラスであったりして(笑)。こういう人には、言い方に気をつけないといけないなあ。

 今大学の教育現場でも「教養の必要性」と盛んに言いますけれど、教えている本人に教養やユーモアがなかったりする。学習指導要領にも「幅広い知識と教養を身に付け」させねばならないなどと書いてあるけど、なんだか偉そうで、ユーモアのかけらもないですね。

 私の授業を手伝ってくれた、大学に残れるかどうかはわからないからと教職課程を取った大学院生がいました。彼によれば、「教員採用試験に合格するのに必要な項目を暗記させるだけの講義で、とにかく教えるということの意味を考えさせる中身がないのでびっくりした」とのこと。出題科目に「一般教養」があるのは、皮肉ですね。

 若い人たちに教養やユーモアをどうやって伝えるのかは人によって違うと思いますが、まずは自分自身につくり物ではないおかしみがないとダメですよね(笑)。むしろ、「あの人、大丈夫だろうか」と思わせるぐらいがいいのかなと思ったりしています。そうすると親しみが湧きますから。

猪木 誰しも不完全でダメなところを持ち合わせているわけですからね。

 日本やドイツは先進国のなかでは学校教育の基幹部分を中央政府がコントロールしてきた典型的な国で、教育について社会から生まれる自発性をあまり尊重しない。明治以前は、寺子屋や藩校や郷学などがあって、いろいろなタイプの私塾もありました。明治以降の小・中・高の教育では検定教科書を使うことが制度化されました。大学のあり方も文部科学省が設置審(大学設置・学校法人審議会)などで主導します。研究費等で大学を競わせ、大学を国がランク付けして、業績を上げている大学に資金を投入すればさらに研究が進むと考える。そういう資本集約的な研究分野はありますが、われわれの分野ではそんなことはありません。時間が最大の資本です。若い研究者たちからすれば、「改革」への対応に多くの時間が奪われている。

 アメリカは大学ができてから国家ができた国なので、大学は国家よりも前からあった機関です。だから大学は相互に評価し合いつつも、現在でも自発性を尊重しながら競争していますね。

阿川 若い研究者は、研究費申請のための書類作成ばかりやっていますね。あれもどうにかならないものか。

猪木 その通りです。日本の学校教育は幾つかの重要な問題を抱えているようです。

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