2023年8月号

イスラエル ベト・シュアン国立公園 

 今年の2月と7月で合わせて40日間イスラエルのヘブライ大学に滞在した。言語の起源と進化についての討論に参加するためだった。討論は10名の固定メンバーで行われた。この滞在で、いろいろと考えることがあった。この小論は3つのテーマを扱う雑文となる。研究環境、研究における英語、そして研究と政治である。ここでは宗教や民族の問題は扱わない。

 私を招聘してくれた財団はイスラエル国際高等研究所という。あるテーマのもと、欧米の大学の休暇期間の2月、6月、7月の3か月にわたり、10名前後の研究者を集め、徹底的に議論できる環境をつくる。私は勤務校の理解を得て2月すべてと7月の後半10日間、参加することができた。最初に仰天したのは所長の挨拶である。「みなさんはこの分野の世界的な研究者として選ばれました。誇りに思ってください。みなさんの義務はほとんどありません。週に1度の会合に参加してください。それだけです。論文や報告書を書く必要はありません。では楽しくお過ごしください。」所長はこれだけ言って去っていった。

 集まった10名は言語の起源と進化の分野で著名な研究者で、年齢は20代から70代まで幅広く、男女はほぼ半々だ。分野もほどよく重なりがありながら多様である。十分な時間の中で、遺跡見物に行き死海で泳ぎレストランで各国料理を食べみんなで歌をうたったりしながら、親交を深めた。我々研究者にとって、親交を深めることは必然的に互いの研究を知ることにつながり、お互いの研究を批判しても決して喧嘩にはならない素晴らしい環境ができた。論文を書くなと言われても書いてしまうのが研究者なので、結果的にいくつかの論文が生み出されつつある。性善説にもとづく研究者の扱いが大成功しているのだ。

 さてこのような環境に身を置いて思ったのは、英語についてである。10名の研究者の選考は英語論文や国際会議への招聘状況にもとづいて行われた。参加研究者は、3名がイスラエル、6名が欧米、そして私である。私以外はすべて日常的に英語を使っている。英語が堪能なだけでは議論はできない。他人の議論に上手く入り込み、文脈に強く影響する発言をする能力が必要である。これには欧米の文化と価値観を背負うことが重要なのだ。今回集まった研究者は私が互角に発言できるよう気を使ってくれたので、何とか太刀打ちできた。しかし多くの日本人研究者はこのような環境では尻込みしてしまうだろう。AI翻訳を使って机上で論文を読み書きするだけでは業績は認められにくい。国際会議で存在を示さなければならないのだ。たとえ自動翻訳機ができても、議論に参加できるかどうかは文化的な問題なのだ。小手先の英語教育改革は何の役にも立たない。

 最後に政治についてである。私が滞在した期間全体を通して、ほぼ毎日のようにデモが行われた。連日、10万から30万の参加者があったという。ネタニヤフ政権は、裁判所の決定を国会が無効にする権利を持たせようとしている。これは三権分立の、民主主義の危機である。大学関係者のほとんどがデモに参加していた。民主主義の危機は学問の自由の危機に直結するからだ。私も大学人としてデモに参加したが、主張を唱和するだけで決して暴徒化することのない穏やかなデモであった。最終的には警察による力ずくの取り締まりに至ってしまったのは残念だった。

 研究者の楽園のような環境に身を置き、人類の文化遺産を見て歩きながら、民主主義と学問の自由について考えた。刺激的な日々であった。知的財産を重んじるユダヤ社会だからこそこのような環境があるのだろう。地政学的に不安定な場所において学問の自由を守るために、多くの研究者が努力しているはずだ。

生物心理学者

[サムネイル画像:言語起源研究グループ 左4人目が岡ノ谷氏]

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