年間21勝で最多勝をもたらした
「ヨシボール」

──1年間のリハビリ生活を経て、1982年、シーズンに見事復活を遂げます。復帰後の2シーズンはリリーフ登板でしたが、84年からは先発に復帰されます。

佐藤 自分のプロ野球人生を振り返ると、成績的にはこの3年間がピークだったことになる。84年のシーズンは17勝してパリーグ制覇に貢献できた。85年は21勝して最多勝、86年も防御率のタイトルをとることができました。85年に僕が21勝してからパリーグでは、2003年の斉藤和巳まで20勝に到達する人がいなかった。けれども自分としては、この年に23試合で完投していることを誇りに思っている。

──佐藤さんが指導された田中将大投手が2013年に24勝0敗を達成した年でも完投は8ですから、23は凄まじい数字ですね。

 佐藤さんの代名詞でもあったウイニングショットの「ヨシボール」はどのように編み出したのでしょうか?

佐藤 日大4年のときから投げ始めていて、プロに入ってからも試行錯誤を続けていて、84年頃には自由自在に操れるようになっていたと思う。指が長いほうではなかったから、ボールを挟むフォークボールはあまり上手く落ちなかった。ヨシボールは、オーソドックスなカーブの握りのように、人差し指と親指とでボールを挟む。この握りのまま、ストレートと同じように腕を振って抜くと、フォークボールと同じように鋭く落ちるボールになったんです。腕の振りは限りなくストレートと同じだから、腕を振り下ろすスピードにバッターが幻惑されるのだと思う。しかもただ遅れてくるのではなくて、ストンと落ちる。会心のヨシボールはまともにバットに

 当てられた記憶はなかったね。

 ヨシボールは実践で投げては改良を続けた変化球だから、教えようと思っても、なかなか人に伝授することはできなかったね。

──阪急ブレーブスは84年にリーグ優勝しますが、それ以降は西武ライオンズの黄金時代が長く続きます。個人的な話ですが、あの時代の阪急・オリックスのファンでした。ライオンズは強すぎましたね。

佐藤 選手もいい選手がたくさんいたし、本当に強かったね。僕自身はライオンズに相性がよかったから、苦手意識はなかったけどね。投手陣も揃っていたし、清原、秋山、石毛、デストラーデと打線も強力だし、守備も走塁もそつがない。すべての要素が揃わないと、あれだけ連覇を続けることはできないと思う。

──当時のチームメイトたちの印象を伺っていきます。まずはバッテリーを組まれていた中嶋聡捕手。オリックスの監督としてパリーグ連覇を果たしましたから、今や名将ですね。当時から監督向きの資質はありましたか?

佐藤 ないですよ(笑)。現役時代はそのへんでボーッと座っているようなやつでした。人間的にはいいやつだったけど、自分から話をするような指導者タイプの性格でもなかったしね。ただ日本ハムで長く勉強して、アメリカでも修行をしたことで成長していったのだと思う。実際にあれだけ若手の選手を育てて、結果を残しているのだから本当に大したものだと思う。

 実は中嶋が若手の頃に、山田さんと一緒に「あいつを一人前のキャッチャーにしよう」と二人で教え込んだんですよ。とてつもない強肩だったし、身体も丈夫だったからね。そういう意味では、あいつには今でも親しみがあるね。

──プロ野球史上最高のスイッチヒッターとされる松永浩美さんは? 打撃、守備、走塁すべてにおいてセンスの塊という印象がありました。

佐藤 何て言うのかな、いいやつなんだけど我がちょっと強すぎるところがあったね。

 

個性派集団のチームメイトたち

──清原和博さんもYouTubeの番組で「松永さんは怖かった」と語っていたことがありました(笑)。

佐藤 人間的には悪くはないんだけど、誰かと話しても「はい」って言えない性格ではあったね。一言聞いたら、二言、三言返してくるから誤解が生じるタイプではあった。そういうところを何とかしようと思って、飲みに連れ出して、いろいろな話をしたこともありました。

 野球に関しては、何も言うことないよね。阪急は彼の能力を見込んで、高校を卒業する前に中退させて採っているんです。卒業してしまうと、ドラフトで他球団に行かれてしまう可能性があったから。今なら考えられないけど、当時はそんなことも行われていたんです。

 打撃コーチの住友平さんの指導のもと、右打ちだったのをスイッチヒッターに変えるのだけど、ものにできたのはやっぱり器用だったんだろうね。あれだけ打ったのだから、すごい打者であることは間違いないです。

──主砲の石嶺和彦さんは? 勝負強い打撃の職人ですね。

佐藤 石嶺は優しい性格で、松永とは対照的なところがあったね。指名打者として活躍したイメージが強いけど、最初はキャッチャーとして入団してきたんです。膝を怪我してからは、打者一本になったけどね。沖縄出身ということもあって、あいつもとにかくお酒が強かった。よく一緒に飲んで食べました。今は故郷の沖縄の社会人野球のチームで監督していて、今でも電話がかかってきたりして、仲良くしています。

──同郷の星野伸之さんは? 究極の技巧派投手として今でも語り草になっています。

佐藤 彼があそこまで勝てるとは思わなかったね。直球が130キロも出ないのだから、ブルペンで見ている分には1軍で使おうとは思わないよね。それがいざ試合で投げると、三振をどんどん取る。やっぱりあのカーブがあったから、ストレートもフォークも活きてくる。本当にすごいなと思って見ていました。自分で考え抜いてあのフォームや投球術を編み出して、プロの世界でずっと活躍したのだから、見習うべきところは多いよね。

 

イチローは最初は打てなかった

──最後にイチローさんですが、やはり最初から違っていたのですか?

佐藤 そんなことはない。最初は全然打てなかったんですよ。よく、監督だった土井正三さんは「イチローの才能を見抜けなかった」と批判する人がいるけど、それは違う。みんな、その後のものすごいイチローしか見ていないから、そう言うんです。

 イチローは2軍で結果を出したから、1軍に昇格したが、1軍では結果が出なかった。だから、2軍でもっとバッティングを磨く段階だ、と判断されたわけです。

 土井さんは決して機会を与えなかったわけではない。イチローは2軍で努力を続けて打ち方を変えて、監督が仰木さんに代わったときくらいから、1軍の投手にも対応できるようになっていったわけです。誰が監督をしていたとしても、あれだけの才能が起用されずに埋もれてしまうことはあり得ないですよ。そこは知っておいてほしいですね。

──佐藤さんが衰えを感じ始めたなっていうのはいつぐらいですか。

佐藤 38、9歳ぐらいからですね。40歳を超えると、腕を振ったときに血管が戻らなくなるような感覚がありました。それを感じるようになってから、いよいよ厳しいかなと感じるようになりました。投げるだけなら山本昌のように50歳までいけたかもしれないけど、勝ち負けがあることだからね。監督が試合で使ってくれない以上は辞めるしかない。それで500試合登板を区切りとして現役を引退することになりました。44歳まで投げられたのだから、やり切ったと思います。

 

ダルビッシュと田中将大を育てる

──現役引退後はピッチングコーチとして数々の大投手を育成されます。ドラフトされてくる投手は野球エリートばかりですから、そういう才能を指導するのはたいへんなことだと想像します。

佐藤 ドラフト1位の選手でも、それはアマチュアのなかでのことだからね。プロにはもっといい選手がいっぱいいるし、最初から完成しているわけではないんですよ。

 僕が日本ハムのコーチに就任した年にダルビッシュが入団してきました。最初に彼が1軍に上がってきたときに伝えたのは、「オレはプロに入った以上は10年はやりたいと思ってトレーニングして練習してきた。お前も今から10年やるために、まずは故障をしない身体をつくることを考えろ」ということでした。身体が強くなっていかないと、フォームはよくなってもスピードは出ないんです。フォームをよくするのは簡単だけども、そこにきちんと筋肉が付いていないとムリなんです。

 ダルビッシュは入団当初は、真っ直ぐでも150キロに達しなかった。そのことを指摘すると、彼は「僕はスライダーピッチャーですから」と言うんですよ。高校時代はスライダーでいつでもストライクを投げられて、それで抑えられたから、そう考えるようになったのだと思う。同じようなことを田中将大も言っていました。ここは、連戦が求められる高校野球の戦い方の影響かもしれないけど、速球で押すよりも変化球でかわすピッチングが身に付いてしまっていました。けれども、それだけではプロでは通用しないんです。遅いボールはいつか捕まることになります。

 だから、スピードにこだわらないとダメなんです。ダルビッシュにも田中にも「150キロ以上出る能力があるから、まずは真っ直ぐを速くする身体づくりから始めよう」という話を最初にしました。

 

ポイントはステップする足の膝

 球速を上げるためには、強い下半身が必要になるので、そのためにはやはり走り込みで土台をつくらなければならない。それから、投げる筋肉は投げ込みで鍛えるしかない。ブルペンで投げ込むことが速い球を投げるための近道です。ここは「肩は消耗品」と考えるトレーナーとは意見がぶつかるところだけど、ウェイトトレーニングのやりすぎは身体のバランスを損なうことになると思う。

──梶本コーチとの特訓もコントロールを付けることにありましたが、ここを指導することは難しいように感じます。

佐藤 専門的な話になりますが、ポイントになるのはステップする足の膝です。右投手ならば、左膝です。踏み出した左膝が同じ場所に着けば、上体がついてきて腕も同じところを通ります。それができれば、だいたいボールは同じところに行くんです。ダルビッシュも最初は、ステップの位置がバラバラでした。

 田中も最初に見たときから、左膝の位置が気になっていました。そのことを指摘していたのを野村監督が評価してくれたんですね。野村さんが「田中を一人前の投手にしてほしい」ということで、楽天の投手コーチとして呼んでくれた経緯がありました。

 下半身が強くなれば、土台が安定するから膝の位置も決まってくる。下半身の強化は、速い球を投げることとコントロールをよくすることの両方にとって必要です。

──ダルビッシュ投手にしても田中投手にしても自信満々だったと思いますが、佐藤さんのアドバイスにはきちんと耳を傾けるのもすごいですよね。

佐藤 二人とも僕に対しては、とても素直でしたね(笑)。二人に共通しているのは、助言したことをすぐに理解して実行できることでした。そのあたりの飲み込みの早さは本当にすごいものがありましたね。

 結局のところコーチのアドバイスを聞き入れてそれで成績が上がれば、選手も信頼してくれることになる。実績を残せば、給料も上がるわけだしね。逆に打たれることが続けば機会も与えられなくなり、チームから去らなければならない。

 プロは結果がすべての世界だから、コーチのアドバイスを取り入れて実践するもしないも、最後は本人の判断ということにはなるのだけどね。

 

大谷翔平投手はさらによくなる

──野球の歴史に残る偉業を成し遂げつつある大谷翔平選手についての印象は?

佐藤 バッティングに関しては、「すごい」の一言だね。日本人の選手としては、かつて見たことがないレベルです。

 ピッチングについても強い身体をつくって、力でねじ伏せることについては完成していると思う。ストレートもスライダーも来ることがわかっていても、打てないボールを投げている。投手としてもう一段上をめざすのであれば、今は力でねじ伏せることにこだわっているけど、いわゆるピッチングの組み立てを覚えることだろうね。もうちょっと細かい投球ができれば、さらによくなると思う。

──佐藤さんの指導で、メジャーに行った藤浪晋太郎投手を復活させることはできますか?

佐藤 専門的に言うと、バックスイングを変えない限りムリですね。バックスイングがもう入りすぎてしまっているのでね。あれだけの能力があってコントロールが悪いのは、手の振りで投げているからです。今の僕はどこかの球団に所属しているわけではないから、バスタオルとお金さえ持ってきたらいつでも教えてあげるよ。立て直す自信はあるね(笑)。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一
さとう よしのり:1954年北海道奥尻町出身。函館有斗高校、日本大学を経て、76年ドラフト1位で阪急ブレーブスに入団。1年目から先発投手として活躍し、98年に44歳で現役を引退するまで通算165勝。最優秀新人(77年)、最多勝(85年)、最優秀防御率(86年)などのタイトルを獲得。現役引退後はオリックス、阪神、北海道日本ハム、楽天などで投手コーチを務め、数々の名投手を育成している。

 

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