『公研』2022年12月号「私の生き方」

 

シンガーソングライター 山本正之

 

 

ギターを弾いて歌いながら作る

──山本さんの創作法についてお聞きしてもいいですか。

山本 隠し事は何もないですから大丈夫ですよ(笑)。基本はギターを弾いて歌いながら作っていきます。歌詞とメロディーが同時に出てきます。1番ができると、あとはパズルのように2番3番……と、8番まであるもの(『燃えよドラゴンズ!』)も同じように作ります。

──創作に苦労されないタイプですか。

山本 まず苦労とは思わないですね。大変だなとか、難しいなと感じるときはありますが、好きなことなので苦しむことはないですね。

 今度こんなタイプの歌を作ろうと、自分に課したテーマがあって、壁にメモ紙を貼っておいて何か思い浮かぶたびにそこに書いていきます。毎年一度、ホールコンサートを開催しているので、そのとき発表する新曲を作るのが、オリジナルとしての作詞作曲の仕事です。

──学生の頃からずっと作詞作曲をされてこられましたが、個人的に自由に作る場合と、仕事として依頼されて作る場合では違いがありますか。

山本 歌い手のために、こんなお題があって、それに沿って作りましょうというのもありましたが、ほとんどは「お任せします」でしたので、この歌い手にはこんな色づけかなと自由に考えて作っていきました。依頼の仕事ではない創作と、あまり違いはありませんね。なんだか、いつも自由です。

──アニメソングをいろいろ手がけられていますが、放送のずっと前に依頼されるでしょうから、企画書段階の資料しかなかったのでは?

山本 そうですね。私が初めてアニメの仕事をしたのは『タイムボカン』(1975-76年)ですが、制作プロダクションの人たちが多忙で、完全な企画書ができていないこともよくありました。数枚の紙にキャラクター表、ストーリー展開が書かれていて、それを机に並べて、ただただそれを睨み、そしてそれを歌の世界に広げていきました。

 

実家は代々続いた庄屋だった

──愛知県の安城市ご出身ですが、どんなご家庭でしたか。

山本 うちは、私から数えて六代前の先祖からわかっているのですが、安城市の旧・山崎村(現在は山崎町)の庄屋をしていました。その前は山崎城の大手門の警護にあたる武士だったと伝えられています。廃城になったあとに山崎村の庄屋になり、天保の頃、本城の安祥城に寄贈をして、そのご褒美に名字帯刀を許され、城主より太刀を賜り、山崎村のもとい、ということで「山本」と成った、という安祥城からの墨書の記録が残っています。

 その、初代山本喜右衛門から数えて五代目の私の祖父・山本樹一が放蕩三昧の挙げ句、庄屋の身代をつぶしてしまったという、よくあるパターンですね(笑)。余談ですが、ちっちゃな頃、母に手を引かれて町をゆくと、緋色の和服に髪を結い上げた、いかにも芸者あがりの粋なおばあちゃまが母に軽く会釈して、腰を落として私の頬に手を添え、「樹一さんのお孫さんかえ、いい男だねえ」と囁いたことがありました。

──山本さんのお父さんの代には、財産はなくなっていたのですね。

山本 そうですね。おじいさんが遊んでしまった結果、父親が10歳くらいの頃に自分の目の前で勉強机や本棚が競売にかけられたと話していました。それで父は上の学校に行けず、中学校(当時、高等小学校)を出てすぐに会社に勤めました。名古屋市にある電力会社(現・関西電力東海支社)で、土木課の測水業務──ダムを造るために川の水量を調査する仕事──に就いていました。

──お父さんが仕事に就いたのは戦前ですか。

山本 はい、昭和7年頃だと思います。会社は名古屋でしたが、ほとんど愛知県にはいなくて、長野県の木曽地方で下宿をして測水の仕事をしていたようです。なので、木曽は父の第二の故郷なんだろうなと思っています。父のアルバムに木曽の写真がたくさんあって、安城の家でも機嫌が良いと、よくお風呂で木曽節を歌っていました。

 父は21歳で召集されて戦争に行っています。4、5年経って一度除隊してまた陸軍に召集されたという日誌があります、豊橋の連隊の衛生兵でした。やがて中国杭州に出兵し、上海で終戦を迎えて、昭和22年春に長門仙崎港に引き上げてきました。

 そして、奥三河の新城から母を娶り、私が生まれました。それからもずっと父は、定年退職まで関西電力に勤めました。ですから、私は根っからのサラリーマンの息子です。

──山崎村の家はもう売られてしまった?

山本 結構な坪数がある屋敷が残っていたのですが、私の父は長男なのにそれを継ぐことができなかった。祖父の放蕩の他にも家系にややこしい事情があり、その屋敷は祖父の弟という人が継ぎました。今は、その縁者が建て替えて住んでいます。

 

今も安城市に帰っている

──愛知県安城市の思い出は?

山本 安城市は風光明媚で、住んでいる人はやさしくて明るい人ばかりでした。私は18歳まで安城で暮らしていて、大学に行ってからも休みのたびに帰郷しました。今はもう両親ともいないのですが、3年前に家を建て替えて別荘代わりに毎月1回帰っています。元の家は、父が山崎村を離れて、東海道本線・安城駅のすぐそばに土地を買って建てたものでした。

──山本さんはそこで育ったのですね。

山本 7歳からその家で育ちました。昭和34年の伊勢湾台風はすごく恐かったです、建てたばかりの家を、父と母が必死で守っていました。廊下の掃き出し窓が次々に割れて、居間の畳を上げて窓に当てて、家族みんなで押さえましたが、8歳の私は「じゃまだから奥に行ってなさい」と父に言われ、丹前にくるまって、激しい風の音、瓦が飛んで何かに当たる音、ガラスが割れて落ちる音を、震えながら聞いていました。

 安城市は「日本のデンマークと呼ばれる」と教科書に載っていたぐらい、多角経営農業が盛んでした。米や野菜だけでなく、豚や鶏を飼ったり梨を作ったりする農家が多くありました。その、ひと時代前、安城市の南隣の西尾市で綿を栽培していて、綿織物の行商人がたくさん安城駅近くの旅館に泊まるんですが、その人たちの宴席にそなえて、「安城芸者」なるお姉さんたちがいたそうです。その芸者さんたちと、祖父が豪遊してしまったわけですが(笑)。安城市の東隣が徳川家康の岡崎市です。私の家内は岡崎出身なので、彼女は上から目線で「私のところは家康の街だよー」とのたまうんですよ(笑)。

 

一番好きなのは『旗本退屈男』

──子供の頃に通われた映画館は岡崎ですか。

山本 いえいえ、映画館は安城に四つもありましたよ。母は東映時代劇が大好きだったので、週替わりでしたから毎週1回、父には内緒で私を連れて観に行っていました。母が映画館で切符を買うときに、この子が観たいと言うもんでね、と私はダシにされました。世の中にテレビが出始めた頃で、今で言うとテレビドラマを楽しみにする感じだったんでしょうね。

──この映画体験が将来の仕事のきっかけになるのですね。

山本 そうですね。私の音楽の元は、東映時代劇の劇伴ですね。一番好きなのは『旗本退屈男』です。今でもDVDで楽しんでいます。

──時代劇だと、和楽器を使っているとか。

山本 そうでもなかったですね。普通のオーケストラでした。ただ、メロディーは、和のテイストがありました。

 

ピアノは合わない?

──それ以外に音楽の影響は?

山本 幼稚園に入る前だったかな入ったときかな、母の自転車の後ろに乗せられて、山崎村のピアノの先生のところへ無理やり連れて行かれました。そこでクラシック音楽の初歩を習ったんですけど、ピアノはどうも性に合いませんでした。

──お母さんは子供の習い事に熱心だったのですね。お父さんは勉強しろとか言わなかったのですか。

山本 父は勉強について何も言わなかったですね。ただ、先ほどお話ししたような事情で上の学校に行けなかった。成績は良かったんですよ、学年1位の賞状が何枚も残っています。ある時、私が「お父さんは難しい漢字も知っているし、算数もうんとできる、なんで学校に行っていないのにできるの」と聞いたところ、父は「上の学校に行けなかったことが悔しくて悔しくて全部独りで勉強した」と言っていました。だからこそ、私にはそういう思いをさせないように、行きたいところまで行かせてあげるから、と言っていました。あとは母親任せだったですね。

──ごきょうだいは?

山本 姉が一人おりました。家に足踏みオルガンがあって、ピアノをじっくり習っていた姉が、私の好きな歌を、そのオルガンで奏でてくれました。

──やはりピアノを習うと音感というかそういうセンスは違ってきますか。

山本 そうですね、習うのと習わないとでは違いますね。でも私は最初に習ったときに、もう行きたくないと言って、半年ぐらいで辞めてしまいました。ところが小学校4年生のときに急にまた習いたくなったんです。担任の先生が個人教授をしてらっしゃったので、そちらに通うようになりました。1年くらい通いましたが、ちょっと難しくなってきて、音楽理論の中でモードと言って、キーが変わってゆくとき、キー・イン・Cではドレミファソラシドと弾くのを、イン・Dではレミファソラシドレと弾いていくんです。そのとき、「僕にはできない、ピアノは合わない」と決めてしまって、二度目の挫折でした(笑)。

──小学4年生で急にピアノを再開したのには何か理由があったのですか。

山本 その先生が好きだったんです。そういう下心がありました(笑)。恋愛感情とは少し違う、あこがれ、という感じでしょうか。

 

 

 

 

 

オレの楽器はこれだ!

──中学校ではビートルズにハマったとか。

山本 もうビートルズですね。同級生とバンドを組み、エレキギターを始めました。友達に借りたギターを握ったときに、オレの楽器はこれだ! と思ったんですけど、自分のお小遣いを貯めて買った練習用のガットギターを父親に折られてしまったんです。父はギターが嫌いでした。ヤクザの楽器だと言うんですよ。酒場の流しだ、とも。その〝流し〟が、私は大好きなんですけどね。

──それでも反抗しますよね。

山本 押し入れの中に隠れて弾いたりしました。ギターを折られたときは、ウクレレならいいでしょということで、ウクレレを買ってきてギターの代わりにして、父に聞こえるように、わざとガシャガシャ弾いてやりましたよ(笑)。

──ビートルズ以外にはどんな音楽が好きでしたか。

山本 舟木一夫の歌う歌謡曲や、作曲家では渡久地政信、吉田正の作品が好きでした。1999年に『燃えよドラゴンズ!‘99』を舟木さんに歌っていただいた時は、もう感激の嵐でした。だって私が生涯ただ一人、ファンレターを送った歌手でしたから。リアルタイムで買った『学園広場』(1963年)のレコードを持参して、録音終了後にサインをしてもらおうと企てていたんですが、いざその時になって萎縮してしまい、そのまま、私のスターはスタジオを後にしてしまいました。ファンのせつなさが身に沁みましたね。

──いつ頃から将来、音楽の道に行こうと思ったのですか。

山本 幼稚園の頃からですかね。楽器よりも歌うことが好きだったので、学校に行く道のりでも歌っていましたし、お風呂でもトイレでも歌っていました。

 

少年歌手っていいかも

山本 テレビが普及し始めた頃、作曲家の美樹克彦──当時は目方誠(めかたまこと)芸名の子役・少年歌手が、『日真名氏(ひまなし)飛び出す』(1955-62年)という探偵もののテレビドラマにゲストで出ていました。街角でリンゴ箱の上に立って近所の人たちを集めて、二丁拳銃のポーズをしてウエスタンを歌うのを観て、少年歌手っていいかも、という気になって、まずそこから歌手へのあこがれが始まりました。

 中学でビートルズを体験して、それから高校に入って、アコースティックギターを一本抱えて弾き語りをする、フォークシンガーの高石ともやと出会いました。その辺からもうミュージシャンの道に進路は定まっていきましたね。なので、作詞作曲家というよりも、自ら歌うシンガーソングライターになりたいという感じですね。

──中学で同級生と組んだバンドはやはりビートルズの曲を歌ったのですか。

山本 いえ、もうその頃はオリジナルをやっていました。でも観客の前で上演したことはなかったですね、自分たちだけで楽しんでいました。一度だけ学校の卒業生予餞会で、加山雄三の『夜空の星』(1965年)をやりました。グループサウンズ全盛でしたね。

──愛知県立西尾高校に進まれてからもバンド活動はされていましたか。

山本 フォークバンドを組みました、エレキをアコースティックに持ちかえて。当時、流行っていた曲『若者たち』(1966年)などのコピーとオリジナルを文化祭で演奏しました。あと、生徒会長選挙の応援演説に、応援歌を作って歌ったこともあります。けっこうウケましたよ(笑)。もちろんその候補者は当選しました。

──高校に進まれても、ずっと音楽をめざしたのに、駒沢大学の経営学部に行った理由は?

山本 まず、ピアノがだめだったから音大を受験しなかった。では、どうやって自分の夢をかなえるかとなると、とにかく音楽産業界に近づかなければいけないと考えました。そうするには、東京に行かなければいけない。だが、東京に出て自力で生活する自信はない。そこで、父親に東京の大学に行きたいと言って、仕送りをしてもらおうと思いついた──というのが本音のところです。

 最初は文学部に行きたかったんです。哲学や心理学も学びたかったんですが、父は「それはだめだ、つぶしがきく経済学部か商学部なら行かせてあげる」と言うので、それで駒沢大学の経営学部にしました。

 父は私に、堅実な人生を歩んで欲しかったんでしょうね。

──アルバイトはしましたか。

山本 アルバイトは苦手で、やりませんでした。でも、私は麻雀が強かったので……(笑)。

 

東京に出て芸能界をめざす

──大学にいる4年間でチャンスを見つけようとしたのですね。

山本 芸能界になんとか入り込んで、デビューできればいいな、と甘く考えていました。それで、いくつかの学園祭で歌ったり、ライブハウスでも歌ったりした。いろいろなところに顔を出してチャンスを待ちました。

 その頃、TBSラジオの『パックインミュージック』(1967-82年)という番組で北山修がパーソナリティをやっていて、番組内で昭和30年代のテレビドラマ『月光仮面』(1958-59年)が話題になりました。下宿の仲間とその深夜放送を聞きながら、何か歌を作って投稿しようという話になりました。

──替え歌ですか。

山本 オリジナルです。私が『月光仮面よもう一度』という曲を作り、その仲間たちで録音をしてTBSに送りました。そうしたらそれを番組で流してくれて、話題になってリクエストも来たんです。そしてTBSから、シンコーミュージックという音楽出版社が会いたいと言っているという電話がかかってきました。それでシンコーミュージックに連絡をとったところ、レコードを出すことを前提に話を進めたいというので、ヤッター、デビューだよ! と喜びましたね。結局それは成就しなかったんですが、初めて音楽産業界と繋がりができました。

──そこで中日ドラゴンズの応援歌の話になるのですか。

山本 いや、まだですね。結局、デビューが遠のいてしまったので、どうしよう、とりあえずレコード会社に就職すればなんとかなるだろうと、植木等みたいなノーテンキな学生でした。

 大学を卒業してからも、ノーテンキな就活は続きました。シンコーミュージックとの関係以来、いくつかの音楽出版社や芸能プロダクションの面接を受けました。有名な作曲家の運転手の面接も受けましたが、一つも合格しませんでした。それで、もう何をやってもだめで、お金もなくなり、初めてアルバイトをしました。工事現場の土砂運びです。生まれて初めて、働くということを知りました。

 

中日と自分への応援歌

──運動はどうですか。

山本 体育の成績は良くなかったけれど、体は丈夫だったから、肉体労働も平気でできましたね。その土砂運びは当座をしのぐお金が目的だったので、2週間くらいで終えましたが、その後また窮乏して、ついに母親にお金を借りました、もちろん父には内緒で。

 その頃、恋人がいて──今の家内ですが──、ある夜、公園の公衆電話から電話して「もうだめだから安城に帰ろうかな」と弱音を吐いたんです。そうしたら、もうちょっと頑張ろうよ、と励ましてくれました。家内はその頃から私のファンで、私のデモテープもいっぱい聞いていたから、そう言ってくれたんでしょう。それで、うん頑張ろう、と気持ちを新たにしました。

 昭和49年の夏の終わりのある日、渋谷から世田谷中町の下宿まで、これからどうするか決めようと考えながら、歩いて帰りました。アパートの近くに着いたとき、自分の部屋──2階の角の四畳半──の電灯が点いていました。点けっぱなしで出たのかと思ったんですが、チラッと人影が見えた気がしたので慌てて駆け上って行ったら、誰もいなくてラジオがかかっていました。そのラジオから中日戦の実況が流れていて、ちょうど藤波行雄がタイムリーヒットを打って、アナウンサーが興奮して実況していました。

 藤波選手は私と歳が一緒で、1973年のドラフト1位で入団して、翌年ルーキーで、もうこんなに活躍している。それに比べてオレは何をやっているんだと奮い立ち、そこから、ドラゴンズよ優勝に向かって頑張れ、そして山本正之も夢に向かって頑張れ、という勇みがわきあがり、中日と自分への応援歌を作ろうと立ち上がりました。そして、とりあえず銭湯に行くことにしました(笑)。タオルと桶を持って銭湯に行って、そして湯船の中で、

遠い夜空にこだまする

竜の叫びを耳にして

の歌詞が出てきたんです。

 ちなみに、あの時部屋に見えた人影は何だったのか、未だにミステリーです。

 

『燃えよドラゴンズ!』でデビュー

──『燃えよドラゴンズ!』が世に出たきっかけは?

山本 その歌を作ったのが8月末だったと思います。9月初旬に、以前この下宿にいた先輩が私の四畳半の部屋に泊まりに来ました。その先輩は西尾高校出身で、美大を出て画家になっていました。銀座で個展をやるために東京に出て来たんです。

 そのときに、先輩ちょっと聞いてよと言って、『燃えよドラゴンズ!』を聞いてもらいました。すると先輩は「今年の中日は優勝しそうだから、応援歌を募集しているぞ」と言うのです。何ていうかな、私を励ますための嘘ですね。山本は放っておいていたら先に進まないから嘘をついた、と後に先輩から聞きました。そのときは、CBCと東海ラジオの両方が賞金10万円で募集している、と言われて、実はこのとき母親からぴったり10万円借金をしていたので、採用されれば返せるなと、とらぬ狸のナントカをしちゃいましたね。

 先輩の奨め通り『燃えよドラゴンズ!』のデモテープをCBC・東海、両社に送りました。それが番組で放送されたところ、すごい反響があって両社からすぐに電話がかかってきました。結果、CBCが主導してレコード化することになり、発売に先立って番組で、私がギターを弾いて歌いました。わくわくと大きな予感が心を揺らしました。

──突然のレコードデビューですね。

山本 そうです。実は、デモテープを送った後、部屋を空けていました。金欠で池袋の友人宅に居候していました(笑)。1週間ぶりに中町の下宿に戻ると、ドアに年老いた大家さんのヨレヨレの文字で何枚もメモが貼ってあるんです。そのほかにも隣の部屋の野田くん、下の部屋の錦戸くんといった下宿の仲間たちのメモもいくつも貼ってありました。そのすべてが、放送局から電話をしてくれという連絡があった、という内容でした。

 その時私が思ったことは、これでデビューできるというより先に、これでCBCか東海系の音楽出版社に就職できる! でした。気楽ですよね、実際はその数日後から、就職どころではなくなったんですよね。

 

音楽出版社での仕事

──音楽出版社がらみでは、その後、山本さんは魔人社音楽工房に所属されています。

山本 曲ができるたびにシンコーミュージックに持って行って聞いてもらっていたのですが、そこに後に私のマネージャーになる人がいて、彼が「フォーメン」という作詞作曲家のグループを抱えていました。アドバンスという印税の前払い制度でシンコーと契約して、作詞作曲に携わっていた4人のグループです。そのグループがシンコーから独立して魔人社を作ることになり、その創立メンバーとして『燃えよドラゴンズ!』でブレークした直後の私が誘われたんです。私もちょうど所属する事務所が欲しいところだったので、創立に参加しました。

──魔人社ではどのくらい活動したのですか。

山本 2年ぐらいでしたね。もともと魔人社は、Sさんという中心人物のアルバムを作るための会社でした。彼にはスポンサーがいて、その人がお金を出して社長をやっていました。ただ、変な契約になっていて、作詞作曲の印税は全て会社に入れ、その代わりに給料を払うというものでした。当初、月給5万円でした。私はまだヒットが『燃えよドラゴンズ!』の一曲だけだったので、先の不安も少しあって5万円でも給料をもらえるならいいか、という安易な妥協がありました。その後に『うぐいすだにミュージックホール』(笑福亭鶴光)、『ひらけ!チューリップ』(間寛平)というヒット曲を出したんですけど、その印税、かなりの額があったと聞きましたが、全額魔人社に入っちゃいました。やがて魔人社は、社長の私財も私の楽曲から発生した印税も使い果たして、消滅しました。あとにはSさんのアルバムだけが、風に吹かれるように残っていました。

──テレビアニメ『タイムボカン』の話は魔人社時代に関わったのですか。

山本  依頼が来たのは魔人社のときです。魔人社のある役員の後輩がパシフィック音楽出版(ニッポン放送の関連会社、現・フジパシフィックミュージック)のプロデューサーでした。ニッポン放送で『オールナイトニッポン』をやっている鶴光さんに、魔人社から曲を提供してくれないかという依頼があり、そのプロデューサーに私を、面白い曲を書くから、と紹介されたのです。

 

悩んでいるときに作った曲が後で生きる

──それが『うぐいすだにミュージックホール』ですね。

山本 実は、新曲を書かずに、作りためた曲がいっぱいあったので、そのストックを聞いてもらって、これにしよう、ということになりました。『ひらけ!チューリップ』もストックからです。

──本当に山本さんの財産だったのですね。

山本 仕事がない、お金がない、就職をどうしようか、と悩んでいるときに作った曲が、後で生きるんですね。少し話がさかのぼりますが、中学生、高校生のとき、歌を作り始めた頃に、日本の歌謡曲はなんでこんなに恋の歌ばかりなんだろう、オレは、そうじゃない歌を作りたい、という反骨精神がありました。ロックンロールですね。それ以来、男と女の歌だけではなく、コミックソングやプロテスト、メッセージソング、はたまた童謡をずっと作りためていました。

 『うぐいすだにミュージックホール』を制作したワーナーパイオニアのディレクターの隣の席にいたのが、竜の子プロダクション(現・タツノコプロ)担当のディレクターでしたので、そのご縁で私が紹介されました。竜の子プロが『ガッチャマン』(1972-74年)の路線からギャグアニメに方向転換を試みたのが『タイムボカン』(75年)でした。

──タイムトラベルものでギャグありの『タイムボカン』は『ガッチャマン』等のハードな作品とはずいぶんテイストが違いますね。この転換は成功して50年近くにわたっていろいろシリーズが作られました。

山本 そうですね。『怪盗きらめきマン』(2000年)までのシリーズ作品は、ほぼ全ての主題歌・挿入歌の作詞・作曲・劇伴音楽を担当しました。本当にこれも、私の大切な宝物です。

 

『タイムボカン』は面白くてカッコイイ曲

──『タイムボカン』の主題歌は、少ない資料から膨らましたわけですね。

山本 面白くてカッコイイ曲と言われたんですが、本当に締め切りの日の朝できました。エンディングの『それゆけガイコッツ』は早くにできあがったんですが、オープニングは悩みましたね。

 締め切りの日の朝10時にできあがって、その日の午後1時に六本木のワーナーパイオニアに行き、6階のスタジオで披露しました。デモテープを作る時間がなかったので、ギターを抱えて、生で歌いました。

──♪どこから来たのか ご苦労さんね タイムボカン どこへ行くのか お疲れさんね タイムボカン♪……スローな感じの曲ですが、〝カッコイイ〟の部分は?

山本 この曲のイントロは、当時魔人社が抱えていたロックバンドの、ギタリストの即興を参考にしています。「ブギウギでいっぱつ弾いてみて!」「オーケー、クィーーン」でした。カッコイイところは、ここから繋がってゆくブギウギのノリですね。視聴者の年齢層が低いということで、テンポをちょっと落として歌詞がよくわかるようにしました。そのわりには変な擬音語がいっぱいありますけど(笑)。

──第二弾の『ヤッターマン』(1977-79年)の主題歌は♪ウー ワンワンワン♪で有名ですが、アップテンポでかっこいいですね。

山本 前作『タイムボカン』では挿入歌を4曲作ったんですが、戦闘シーンで使われた『チュク・チュク・チャン』という曲があって、これが『ヤッターマンの歌』の原型なんですよ。主題歌を依頼されたときに、チュクチュクチャンの延長線上でお願いします、とも言われました。もともと、カッコイイ曲をやりたかった。かっこいいけど、ちょっと演歌的でちょっと軍歌的な、自分自身の理想の姿です。

──長い間『タイムボカン』シリーズと関わっていく中で、レコード会社のディレクターも変わりますが……。

山本 使ってあげるから少しバックをちょうだい、なんていうディレクターもいましたが、不正には絶対に加担しません。しかし、どこでどうなって私に依頼が来るのか、仕組みはちょっとわからなかったですね。ただ、後から聞いた話では、やはり竜の子が山本正之を、ということだったそうです。

 

アフレコ現場での出会い

──山本さんは『タイムボカン』シリーズの作品に声優として出演されています。どういう経緯だったのですか。

山本 3作目の『ゼンダマン』(1979-80年)からで、ゼンダライオン(主人公側メカ)の役を演じたのですが、最初に主題歌と同時に挿入歌も依頼されて、『ゼンダライオン』という歌を作ったら、今度はそのゼンダライオンが喋るということになって、歌う声と喋る声は同じほうがいいよね、という笹川監督の一声で、声優もやらないかというお話が来たのです。そういう成り行きですが、〝素人っぽい演技〟が受けたようですよ(笑)。

 ただ、毎週決まった日の午前10時にアフレコスタジオに行かなきゃいけないので、当時の生活体系からすると、かなりの無理がありました。ところが行ってみたらピクニックみたいで、お菓子はあるし、若い声優さん(女性)がお茶を入れてくれるし、先生先生ってもてはやしてくれるし、めちゃ楽しかったですよ(笑)。

──アフレコ現場でも出会いがありましたね。

山本 同じ愛知出身の鈴置洋孝とは『逆転イッパツマン』(1982-83年)で出会いました。

──鈴置さんが主役の……。

山本 いや、イッパツマンの主役は富山敬さんで、鈴置はナレーターです。

──タイムボカンシリーズでは、富山敬さんはずっとナレーターを務めていたので間違えました。

山本 そうなんですよ。敬さんが主役に回ったので、その後を鈴置が務めました。

──鈴置さんの印象は?

山本 最初はとっつきにくいヤツだなと思いました。彼は名古屋出身、中日の大ファンで、立壁和也さん(悪玉トリオの怪力男役)が阪神ファンで、二人はよく野球の話で盛り上がっていました。立壁さんが鈴置に「マーちゃんは『燃えよドラゴンズ!』を作ったんだよ」と言ったらすごくびっくりしました。それがアフレコの3週目だったか4週目くらいかな、それから急に親しくなって、寿司食いに行こみゃあ、鰻食いに行こみゃあと誘ってくれて、お互いの家に泊まって呑み明かして、離れ難い友人でした。

 

劇伴作りは楽しい

──山本さんの歌唱楽曲のバックコーラスユニット「ピンクピッギーズ」について。

山本 立壁和也さんに肝付兼太さんを紹介されて、肝付さんが声優の仲間たちと「劇団がらくた工房」を立ち上げて、創立時には、野沢雅子さん、富山敬さん、白石冬美さん、富田耕生さんなど錚々たるメンバーがいました。私は公演の音楽を作曲する一方で、劇団養成所の研究生に音楽を教えていました。その研究生から選抜した教え子たちに、ピンクピッギーズというユニット名で私の歌唱楽曲のコーラスを担当してもらいました。その中には、今は俳優・渡辺いっけいさんの夫人の、俳優・門間葉月もいて、彼女は今もなおピンクピッギーズのメンバーなんですよ。

 がらくた工房養成所が「バオバブ学園」という声優学校になり、その3期生に声優・川上とも子が在籍し、卒業後アニメ声優として開花して、いくつかの主役を張りながらもピンクピッギーズのリーダーを務めていましたが、早逝してしまい、残念でなりません。

──山本さんにとって、劇伴と歌の作詞作曲とは違いはありますか。

山本 歌を作るときはギターを弾きながら歌って作っていきます。劇伴はピアノを弾いてオーケストラ構成を考えながら編曲も同時にやっていきます。

──子供の頃嫌いだったピアノがそこで生きているのですね。

山本 嫌いではないですけど(笑)。今の電子ピアノはトランスポーズ(移調)機能というのがあって、タッチひとつでキーが切り替えられますから(笑)。

 劇伴は番組がスタートする前に作ります。戦闘シーンとか叙情、雨降りの夜といったメニューがあって、大体100曲くらいを録音します。イッパツマンの頃かな、1週間に3本の劇伴を作ることになって、あのときは寝る時間がなく、フラフラでしたね。劇伴作りには時間と手間がかかりますが、とても楽しいものです。そのアニメのオープニングの自分の名前を見て、ドラマがはじまり、声優さんのセリフの向こうに、自分の作った曲が流れる。幼い頃観た、東映時代劇の中に入ったような、いい気持ちです。

 

自分を信じること自身を愛することが大切

──先ほど出会いについてお聞きしましたが、本日お名前が出た中には近年に亡くなった方もいます。死生観について教えてください。

山本 目が覚めて、また今日もウイルス対策の一日かという、何というか、毎日がつまらないですね。ですけど、このウイルスさえ外せば、他は明るく楽しい毎日なんです。元気でいるし、家内も健康で笑顔で。

 そう、ウイルスを外して死生観を考えましょうか。もともと100歳まで生きるつもりでいたので、これからどうやって生活力を保っていこうかとか、印税収入もいずれなくなるかもで、今から就職活動しようかとも考えているんですけど(笑)。

 逝く人は、その人の寿命だから、しょうがない、と思うしかないですね。

──子供の頃の夢をかなえたことについて、同じ夢を持つ若者たちに何か。

山本 私がこの業界で歩き始めた頃と今とは全然環境が違います。録音形態も違うし、プロデュースのシステムも全く違う。後輩たちに何をどうしたらいいかを伝えたくても、どう伝えればいいのか、本当にわからないんです。ただ、絶対に諦めないことです。諦めたらそこで終わりですから。親もそうでしたし、諦めないぞ、負けないぞ、という不屈と反骨の精神ですね。

──自分自身を応援しなくてはいけませんね。

山本 それはすごく言いたいですね。自分を信じること、自身を愛することが大切だと思います。いいぞがんばれオレ・ワタシ! ですね。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 常川幹也

 

 

 

ご経歴
やまもと まさゆき:1951年愛知県生まれ。74年駒沢大学経営学部経営学科卒。幼少時から作詞作曲家・歌手を志しており、74年『燃えよドラゴンズ!』で作詞作曲家デビュー、75年『タイムボカン』でアニソンデビュー以後、多くのアニソンに関わる。83年にオリジナルコンサートを開始し、シンガーソングライターとしての活動を続けている。

 

 

 

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