阪急ブレーブスにドラフト1位で入団

──同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けます。

佐藤 大学では4年間で通算22勝していたので、駒大の森繁和や大商大の斉藤明夫と並んで「大学生投手三羽烏」なんて呼ばれるようになっていましたから、もうプロ一本で社会人野球や就職のことは念頭になかった。

 阪急はスカウトの三輪田勝利さんが寮まで来てくれて「絶対に指名する」と言ってくれていました。実は巨人のスカウトもよく来てくれていましたが、結局1位では指名されなかった。巨人戦は北海道でも放映されるから、両親にテレビで観てもらえるなという期待も少しはありましたね。

 あのときの阪急は3年連続で日本一になっていて1番強いチームだったから、1位指名は嬉しかったですね。プロ野球選手になりたかったわけだし、迷うことなく入団を決めました。

──当時の阪急はすごい選手ばかりですね。

佐藤 打者陣は福本豊さん、加藤秀司さん、長池徳士さん、ボビー・マルカーノさん、投手陣は大エースの山田久志さん、足立光宏さん、山口高志さんなどがいました。

 阪急は、派閥みたいなものがなかったのがよかった。福本さんのような大ベテランが外野手を囲い込んだりすることはなくて、トレードでやってきた選手たちにも分け隔てなく接していました。もちろん上下関係はあるけど、みんなが一緒にチームをつくる感じでした。

 他のチームでは派閥のボスがいて、その人についていかないと嫌われてしまって、やりにくくなるような話も聞いていたからね。人間が集まっているわけだから、どうしてもそういう面は出てくるけど、阪急はそれがないのがよかった。

 ただ、強いチームだからプレーは練習でも綿密で本当に隙がない。ベテランもよく練習するから、グラウンド上ではいつも緊張感があったね。でも試合が終われば、みなでよく飲みました。普通は、投手は投手同士、野手は野手同士で飲むことが多いのだけど、加藤秀司さんなんかはピッチャーにもよく声を掛けて飲みに連れていってくれましたね。

──日本シリーズ3連覇を達成した上田利治さんはどういうタイプの監督でした?

佐藤 上田さんは、とにかく選手のことをよく見る監督でした。キャンプの初日に僕のピッチングの癖を見抜かれたんですよ。右手首の位置で、カーブなのかストレートなのかを指摘されたのは驚きました。上田さんはデータも重視しましたが、それ以上にその日の選手の状態をよく把握していて、それを頼りに采配を振るうんです。僕もいろいろな監督のもとで野球をしましたが、観察眼という点では上田さんに勝る人はいなかったね。

──入団当初のプロ野球選手の生活サイクルはどういう感じですか?

佐藤 球場の近くにあった寮に住んでいて、決められた集合時間になったら歩いて通っていました。練習が始まって、平日だったら夜に試合をして、終わったら飯を食って寝る。その繰り返しですよ。

──朝は割とゆっくりですか?

佐藤 1軍は、平日は大抵ナイターだけど、2軍はデーゲームだから生活サイクルは変わってきます。お陰様で、2軍でやったことがほとんどないので、早い時間から練習するのは、調整で投げるときくらいでした。だから朝はゆっくりしていました。

 

「オレたちは出稼ぎに来ているんだ」

──1年目から1軍に定着して、初登板は5月11日西京極球場での対クラウンライターライオンズ戦でした。プロの壁を感じたり、緊張したりすることは?

佐藤 大学卒は即戦力だと考えられていたし、ドラフト1位だったからプロでもやっていけるという自信はありました。最初から自信が持てないようでは、プロには向いていないよね。デビューのときは、先発投手が打たれた後の敗戦処理だったから、そんなに緊張する場面ではなかった。マウンドに立って投げ出してしまえば、投球に集中するだけですよ。このときは3回をパーフェクトに抑えることができた。

──1年目から7勝を挙げられて新人王を獲得されています。

佐藤 7勝2敗1セーブだから勝ち星の数としては、新人王をもらえるような成績ではなかった。けれどもこの年は新人にライバルもいなかったし、登板数が少ないなかで7勝を挙げたことが認められたのだと思う。

 当時の阪急は強かったから、最初は敗戦処理から始まって、日程的に先発投手の頭数が足りなくなる「谷間」にようやく先発する機会が与えられる感じでした。初めて先発したときも初完投・初勝利を飾ることができたのだけど、次に先発する機会はけっこう空きました。それでも次に投げたら勝つことができて、次第に先発する間隔が短くなっていきました。

──阪急の大エースと言えば、山田久志さんですね。

佐藤 山田さんにはずいぶん可愛がってもらっていました。山田さんが秋田県の出身で、僕が北海道だったから「東北・北海道の会」をつくって、食事会をしたりしていました。今井雄太郎さんは新潟だから、東北・北海道ではないのだけど、勝手に入ってきた(笑)。山田さんは「オレたちは出稼ぎに来ているんだ。頑張らんといかんやろ」と繰り返し言っていましたね。

──プロの選手はチームメイトであってもしのぎを削るライバルですから、後輩であっても優しくするのは難しくなるのではないかとも思います。

佐藤 基本的には厳しいですよ。山田さんが大ベテランの足立さんに「浮き上がってくるカーブとシンカーの投げ方を教えて欲しい」とお願いしたら「金を持ってこい」と言われたらしいです。そういう世界ですよ。自分もそうだったけど、絶対に追い抜かれないという立場にならなければ、若手に教えるような余裕は持てないですよ。プロの世界は味方であっても、みんなが競争相手であってライバルだからね。

 ただ山田さんのように、チームのエースには投手陣をまとめる役割も求められます。80年代頃の阪急の投手陣は、山田さんが長男、今井さんが次男、三男が僕という感じでしたね。今井さんは性格が優しすぎて後輩を叱れなかったから、そういう厳しい役割は僕が担当していた感じでした。

 

阪急投手陣の伝説的なエピソード

──今井雄太郎さんは、登板前にビールを飲んでいたという伝説がありますね。

佐藤 今井さんはデビューしてからしばらくは、本来の実力をなかなか発揮できなかった。どうもマウンドに上がると緊張してしまうところがある。それでピッチングコーチの梶本隆夫さんが、度胸を付けるためにビールを飲ませて送り出したことがあった。それがきっかけだったかどうかはわからないけど、見違えるように投球がよくなっていったから、その伝説が広まったんだよね。もちろん毎試合飲んでいたわけじゃないですよ。

 今井さんは新潟の出身だしお酒が好きですごく強かった。もう365日飲んでいる人ですけど、酔うまで飲むことはないし楽しいお酒でしたよ。山口高志さんともよく飲んだけど、みんな楽しく飲むのが好きな人たちでした。

──日本球界史上で一番速い球を投げたのは山口高志さんではないかという話をよく聞きます。実際どうでした? 佐藤さんが入団された頃はもう衰えが見えていたのでしょうか?

佐藤 まだバリバリでしたよ。とてつもなく速かったです。阪急の投手陣はベテランが多かったから、1軍では僕が一番年下で、僕より2歳上の山口さんはまだ2番目に若いぐらい。だからブルペンではいつも山口さんの隣で投げさせられていたんです。最初の頃は一球投げるごとに「え! なんだこの球は?」という感じでした。隣で投げていると、自分の球が遅く感じられるのが嫌だったね(笑)。

 

急に勝てなくなりフォーム改造へ

──2年目には13勝、3年目も10勝と2年連続で二桁勝利を達成します。先発ローテーションの一員として十分な活躍をされていますが、4年目は4勝13敗と大きく負け越しています。故障があったのですか?

佐藤 違います。ただ勝てなくなったんです。この年のシーズン前に、大学生の頃から付き合っていた嫁さんと結婚しています。媒酌人は、当時、監督をされていた梶本隆夫さんにお願いしました。だから、頑張ろうという気持ちは強かったのだけど、それが空回りした感じになって、何をやっても上手くいかなかった。

 もう本当にグラウンドに行きたくないと思ったこともあったんです。それでも梶本さんから「ローテーションは絶対に外さない」と言われていました。その期待に応えたかったのだけど、それでも勝てなくて、終わってみたら13敗もしていた。

──なぜ打ち込まれるようになったのか、ご自身のなかではわかっていましたか?

佐藤 自分ではよくわからなかったですね。もともとコントロールはよくなくて、馬力で打者を封じ込めていたところがありました。4年目ともなると、相手も慣れてきたところがあったのかもしれない。原因はよくわからなかったけど、とにかく勝てなくなった。

 このシーズンはチームも5位に低迷しましたから、責任をとるかたちで梶本さんは辞任されました。ただ当時としては珍しいことですが、梶本さんはピッチングコーチとして残られた。その梶本さんから「一からフォームをつくり直そう」と言われて、フォーム改造の特訓に取り組むことになったんです。

──フォームの改造は勇気も要りますね。

佐藤 一人で9つも負け越したのだから、自分のピッチングが悪かったことは間違いないんですよ。結果が出なければ、生き残っていけない世界だからもうやるしかないわけです。

 シーズン後の全体練習が11月いっぱいで終わって、12月から西宮球場の雨天練習場で梶本さんの指導が始まりました。30日まで続いた特訓は、加藤安雄さん──現役引退後は各球団で長くバッテリーコーチをされた方です──に受けてもらって、連日200球投げ込みました。

 改造のポイントは、フォームの上下動のブレをなくすことでした。梶本さんは、「お前のフォームはギッコン、バッタンしていて、タイミングが合ったときはすごくいいボールがいくけれど、合わないとボールがちらばってコントロールがつかない」と指摘してくれたんです。それを改善するために「まっすぐに立てるようにしよう」と。ただそれだけのアドバイスです。

 つまり、左足を上げた反動で、上半身がブレないようにすることが狙いです。それが改善されれば、その分コントロールもつけ易くなるというのが、梶本さんの考え方でした。

1230日まで毎日投げ続けたお陰で、体重移動で頭を反らさず、むしろ少し前屈みに立つ感覚が掴めてきました。

──梶本さんのアドバイスはシンプルだけど、的確だったわけですね。

佐藤 格段によくなったと実感できました。本当にボールの角度も出てきたし、カーブもよく曲がるようになった。梶本さんも「来年は絶対また10勝以上できる」と太鼓判を押してくれた。シーズンオフに自分の時間を犠牲にして、親身に指導してくれたのだから、梶本さんには本当に感謝している。現役引退後にピッチングコーチとして選手を指導するときも、このときの経験が原点になっていることは間違いないですね。

 

1年間のリハビリ生活

 ところが、年明けに1月10日から始まった自主トレでぎっくり腰になってしまうんです。頭のてっぺんまで衝撃が走るような痛さでした。それでも最初は鍼治療で痛みを緩和させて、高知キャンプには頑張って行ったんです。けれども、キャンプの途中から左足が痺れるようになって、左足を上げることもままならなくなった。

 それで大阪に帰って大学病院の検査で「腰椎の分離症」と診断されて、結局そのまま入院することになりました。あれよ、あれよという間に左足が6センチメートルくらい細くなってしまった。

 病院は、逃げ出すように2週間で退院しますが、それから1年間はリハビリの日々を過ごすことになります。いろいろな人から接骨医、整体師なども紹介してもらってリハビリに励むと、半年くらい経った頃に、左足の痺れが少しずつ取れていきました。

──リハビリ中は、同僚やチームメイトの状況は気になるものですか?

佐藤 ならなかったです。もう全然動けないですから、気にしても仕方がない。先生たちの治療方針に納得できたので、「まだ若いから必ずよくなる」という言葉を信じるしかないと思いましたね。

 よく「この1年間で精神的に強くなったのではないのですか」という聞かれ方もしましたが、そういう実感もないんですよ。学んだことがあるとすれば、身体が発するサインがわかってきたことだね。疲れがたまってくると、坐骨神経痛が出るようになって、それ以上はムリをしないように心掛けるようになった。44歳まで現役で投げ続けられたのも、自分の身体と会話するようになったのは大きかったと思う。

──「ぎっくり腰は猛練習の影響だ」と指摘した方もいたのでは?

佐藤 フォーム改造のためにオフに練習したことは、まったく後悔なんかしていない。むしろ嬉しかったのは、カムバックしたときに練習して獲得した新しいフォームを身体が覚えていてくれたことでした。自分で身に付けた技術は忘れてしまうことがないんです。逆に言えば、そこまでやらなければ、やらなかったのと同じということだと思う。

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